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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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第030話 断罪の執行官

 聖都の深奥、光さえも届かぬ地下聖堂に、狂気に満ちた叫びが木霊していた。

 かつて大陸全土から敬愛を集めた聖女エレナは、今や見る影もなく、冷たい石床をのたうち回っている。国立魔導学園の講堂という、彼女にとっての「聖域」で俺に論破され、その権威を完績なきまでに叩き潰された彼女の精神は、もはや修復不可能なほどに破綻していた。


「あぁぁぁぁぁ!許さない、許さないわ!あの不吉な公子ユウ・ヴァルゼイド!あいつを殺して!その肉を削ぎ、骨を砕いて、私の前に差し出しなさいよ!」


 エレナは自身の美しい顔を爪で掻き毟り、血と涙に塗れながら絶叫していた。彼女の口からは聖句ではなく、下卑た罵倒と呪詛が際限なく溢れ出す。かつての淑やかな仕草はどこへやら、彼女は大地を何度も強く踏みつけ、幼子のように地団駄を何度も踏み、ヒステリックに暴れ続けた。

 その醜悪な様を、厚い帳の向こう側から冷ややかな眼差しで見つめる者たちがいた。


「……見るに堪えんな。教団の象徴としての機能は、もはや完全に停止している」


 低く、重厚な声が闇に響く。教団の意志を決定する枢機卿の一人、ベネディクトである。彼は地を這い、よだれを垂らしながら叫ぶエレナを一瞥し、まるで汚物を見るかのように鼻を鳴らした。

「主の代弁者を自称しながら、ただの子供に論破され、衆人の前で癇癪を起こすとは。聖女という名の器も、ここまで脆かったか」

「いかがいたしますか、枢機卿。彼女の処遇は」

 控えていた事務官が震える声で尋ねる。ベネディクトは無慈悲に言い放った。

「不良品に用はない。地下の静養所という名の監獄へ放り込め。二度と人前に出すな。我々に必要なのは、民衆を惑わす偶像ではなく、障害を排除する実力だ」


 猿轡を嵌められ、騎士たちに強引に引きずられていくエレナ。彼女が最後に残したのは、石床を掻き毟る指先の血痕と、虚空を睨む狂気の眼差しだけであった。聖教団は、長年育て上げた象徴を、瞬き一つの間に切り捨てたのである。

 静寂が戻った聖堂に、一人の男が足音もなく現れた。黒い法衣に身を包み、その背には巨大な十字架を模した大剣を背負っている。その男、カシウスは、教団の裏の汚れ仕事を一手に引き受けさせている異端執行官の筆頭であった。


「お呼びでしょうか、枢機卿。次の獲物は、ヴァルゼイドの三男……ユウと聞いておりますが」


 カシウスの瞳には、一切の慈悲が存在しない。そこにあるのは、異端と定めた対象を、効率的に殺戮するための冷徹な使命感のみであった。

「そうだ。あの少年は危険だ。魔力を持たぬ身でありながら、聖女を言葉だけで精神を崩壊させた。彼が存在し続けることは、教団の支配体制に対する重大な冒涜であり、存亡の危機だ。いいか、カシウス。異端審問の段階は飛ばせ。学園に潜入し、機を見てユウ・ヴァルゼイドを抹殺せよ」

 ベネディクトの指示は、司法の手続きを一切無視した暗殺命令であった。



 翌朝、国立魔導学園の登校風景は、いつも通りに見えてその実、異様な緊張感に満ちていた。

 俺が聖女を退けたという噂は一夜にして広まり、廊下を通るたびに生徒たちは道を開け、遠巻きに俺を観察している。畏怖と好奇、そして一部の熱狂的な教団信者による憎悪の視線。それらが肌に刺さるのを感じながら、俺は淡々と歩みを進めた。

 隣を歩くリーゼロッテは、不安そうに周囲を見渡し、何度も俺の顔色を窺っていた。


「ユウ様、学園の空気が……。まるで嵐が来る直前のように重たいです。本当に、今日から普通に講義を受けるのですか」

「大丈夫だよ、リーゼロッテ。僕たちが騒げば、それこそ教団の思う壺だ。いつも通りに振る舞うことが、一番の抵抗になるんだよ」


 俺が穏やかに微笑むと、校舎の入り口で腕を組んで待ち構えていた人影があった。俺の兄であり、学園の高等部に在籍するゼノン兄様である。彼は鋭い眼光で周囲を威圧しながら、近づいてくる俺たちに歩み寄った。


「ユウ、遅かったな。今朝は俺が講義室まで付き添ってやる。お前が聖女を泣かせたせいで、学園内に不穏な魔力の残滓が漂っているからな」

「兄様、わざわざありがとうございます。でも、兄様だって自分の講義があるでしょう?」

「フン、予習は済ませている。それに、サリアからもユウに指一本触れさせるなときつく言い含められていてな。あいつに睨まれるのは御免だ。それに何より俺自身、お前を狙う不届き者をこの手で叩き潰したい気分なんだよ」


 ゼノン兄様の放つ威圧感は、周囲に潜んでいる教団の密偵たちがいるならば、彼らを怯ませるに十分なものだろう。俺は兄の不器用な優しさに苦笑しながら、リーゼロッテと共に校舎内へと足を踏み入れた。



 講義の合間、俺は自席で一人、左腕の感覚を確かめていた。

 昨日、聖女エレナが精神を崩壊させた引き金。それは単なる言葉の刃だけではなかった。彼女の論理が限界を迎えた瞬間に合わせ、俺は人知れずパサージュの鍵の権能を発動させていたのだ。


 使用したのは、未完の救世主(プロト・メサイア)

 『完成していないこと(欠損)』を条件に、万物の『未完成な部分』を操作する鍵である。


 俺は、エレナが抱えていた心の隙間……、すなわち聖女としての完璧な虚像と、傲慢な素顔との間に生じていた『精神的なひび割れ(欠損)』にパサージュの鍵を差し込んだのだ。彼女の不完全な精神構造を、パサージュの鍵で『崩壊という完成形』へと誘導した。剥き出しになった彼女の脆弱な自我に、俺自身の冷徹な言葉が直接流し込まれた結果、修復不可能な破綻を引き起こしたのである。


(器に合わない信仰は、猛毒でしかないからね)


 俺は内心で独りごち、冷たい視線を窓の外へ向けた。学園の庭園には、かつて三家から収奪した財で整えられた美しい花々が咲き誇っている。それらは死と再生の象徴であり、教団という古い大樹が腐り落ち、新たな秩序が芽吹くための肥料に過ぎない。




 放課後、ゼノン兄様が急な用件で席を外し、リーゼロッテも教官に呼ばれて別室へ向かった隙を、待っていた影が蠢いた。

 人気のない渡り廊下。夕闇が忍び寄る校舎の片隅で、俺の前に黒い法衣の男が立ち塞がった。


「……ようやく一人になったか。ヴァルゼイドの不浄なる公子よ」

「異端執行官、かな?わざわざ学園の聖域まで土足で踏み込んでくるとは、随分と神様も余裕がないみたいだね。ねぇ、名前を名乗らないのが、神の思し召しって奴かな?」


 俺は静かに足を止め、相手を見据えた。カシウスが大剣を引き抜くと、周囲の魔力が一気に沸騰し、不浄な炎が剣身を包み込んだ。空気が焦げ、重苦しい殺意が回廊を支配する。


「抜かせ!貴様の口を封じるのが、今の私に与えられた唯一の聖務だ。まぁ、いい、死にゆく者にも名を名乗ってやってやろうではないか。俺の名は、カシウス。聞いたところで意味はないと思うがな」

「ご丁寧に名前を教えてくれてありがとう。ところで、神の栄光のために人を殺すことが、君たちの正解なのかい?随分と血生臭い神様だね。そんな狭量な正義、僕がこの場所で解体してあげるよ」


 俺の挑発に、カシウスの瞳が紅く燃え上がった。狂信という名の盲目は、論理を介さぬ暴力へと彼を突き動かす。


「黙れ、異端者!地獄で自らの言葉の軽さを悔いるがいい!」


 断罪の執行官が、爆音と共に大地を蹴った。一瞬で間合いを詰め、黒炎を纏った大剣が俺の頭上へと振り下ろされる。並の魔導師なら、その威圧感だけで身を竦ませ、断たれるのを待つしかないだろう。

 だが、俺の表情に恐怖はない。俺は左腕の鍵を、再び意識の深層で回転させた。俺が見ているのは彼の剣筋ではなく、その歪な魂の構造だ。


「論理を欠いた攻撃は、ただの騒音でしかないよ」


 戦いの蓋が切られる。

 俺の指先が虚空に触れた瞬間、パサージュの鍵が静かに、しかし決定的な音を立てて回っていくのだった。

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