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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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第029話 墜ちた偶像

 ユウ・ヴァルゼイドとリーゼロッテ・フェルトンが、凍りついた学園の中庭を後にした後のことである。

 二人の姿が曲がり角の向こうへと消え、静寂を切り裂く靴音が完全に途絶えた瞬間、張り詰めていた空気の糸が無惨に弾け飛んだ。

 だが、そこに訪れたのは秩序の回復ではない。権威という名の虚飾が剥がれ落ち、腐敗した執着が沸騰する凄惨な光景であった。


 中央に立ち尽くす聖女エレナの顔は、もはや人としての原型を留めていなかった。

 先ほどまでの神聖な輝きは泥のように剥げ落ち、どす黒い怨念が彼女の端正な面輪を醜く歪めていく。


 彼女が狂ったのは、単に言い負かされたからではない。

 聖教団の深奥、神の代弁者として、生まれてから一度として誰にも否定されず、望むすべてを『神の思し召し』の名の下に手に入れてきた箱入りの精神。彼女にとって、自分は世界そのものであり、正解そのものであった。


 その完璧なはずの自己を、魔力を持たぬ欠陥品と見下していた少年に、客観的かつ冷徹な論理で粉々に砕かれたのだ。彼女の絶対的な拠り所であった信仰を、利己的な隷属魔法だと断じられ、その存在意義そのものを否定された。

 人生で初めて味わう拒絶という名の激痛。それが、彼女の脆弱な自我を内側から爆発させたのである。


「……あぁ、あぁぁぁぁぁぁぁ!」


 突如、エレナは自身の美しい金髪を乱暴に掻きむしり、喉を引き裂くような絶叫を上げた。

 それは聖女の福音などではなく、地獄の底から這い上がってきた獣の咆哮に近かった。彼女は血走り、焦点の合わぬ瞳を空へと向け、激しく地団駄を踏み始めた。

 ガツン、ガツンと、石畳を蹴る不気味な音が中庭に響き渡る。

 彼女が踏みつけるたびに、純白だった法衣の裾は泥にまみれ、見るも無惨な姿へと変わっていった。


「忌々しい!忌々しいわね!あの不憫な欠陥品の分際で、私を、この私を否定したの!?ありえない!あってはならないことなのよ!」


 エレナは手に持っていた黄金の杖を、まるで幼子が癇癪を抑えきれずに玩具を投げ出すように、何度も、何度も地面へと叩きつけた。

 ゴン、ゴンという鈍い音が響くたび、精緻な装飾の宝石が剥がれ飛び、教団の権威の象徴がただの鉄屑へと成り下がっていく。

 彼女が信じて疑わなかった選ばれし者としてのアイデンティティは、ユウの言葉によって、醜悪な嫉妬と承認欲求の塊であると暴かれた。その事実から逃げるように、彼女は狂ったように何度も杖を振り下ろし、腕が痺れるのも構わずに地面を打ち据え続けた。

 粉々に砕けた宝石の破片が彼女の頬を掠め、赤い筋を作るが、彼女はその痛みさえも認識できていないようだった。


「跪けっ!謝れっ!ヴァルゼイドの出来損ない!お前のその澄ました顔を、今すぐ私の靴の下で磨り潰してやりたいわ!ああ、腹立たしい!なんて不愉快な子供なのかしら!」


 彼女は振り乱した髪を自ら引きちぎり、床に散らばった杖の破片を、狂ったように蹴り飛ばした。


 その矛先は、慌てて駆け寄ろうとした聖騎士たちにも容赦なく向けられる。

「寄るな!無能!役立たずの犬どもが!私がこれほど辱められている間、何をしていたのよ!早くあの小娘を捕まえなさい!あの生意気な小僧の首を撥ねて、私の前に差し出しなさいよ!今すぐよ!」

 エレナはよだれを垂らし、顔を真っ赤に染めて、中庭の石畳を這い回るようにして叫び続けた。


「誰も彼も私を馬鹿にするのね!教団も、世界も、全部私の足元に跪くべきなのよ!私が正解なの!私が神なのよ!それを、あの男は……あのユウ・ヴァルゼイドは、私の奇跡を笑った!殺してやる!一族郎党、一粒の灰も残さず焼き尽くしてやるんだから!」


 彼女は狂ったように笑い出し、かと思えば次の瞬間には激しい嗚咽を漏らして地面を叩いた。

 これまでの全人生において培ってきた『自分こそが絶対』という箱入りの価値観が、ユウという特異点によって完膚なきまでに破壊された代償。

 感情の振れ幅が精神の許容範囲を完全に超え、彼女の内側にある『聖女』という仮面は、もはや修復不可能なほど粉々に砕け散っていた。


「聖女様、落ち着いてください!衆人環視の中です!これ以上は教団の沽券に関わります!」

 騎士の一人が必死に肩を掴むが、エレナはその手を振り払い、彼の頬を爪が食い込むほどに強く引っ掻いた。


「沽券!?そんなもの知るか!私が屈辱を味わったのよ!私の、私だけの世界が壊されたのよ!あぁぁぁぁ!嫌!嫌よ!こんなの認めない!認めないわ!」


 彼女は周囲の植栽をなぎ倒し、装飾用のベンチを蹴り飛ばし、剥き出しの狂気を撒き散らした。

 否定されたことのない者が、初めて真っ向から真実を突きつけられた時、その精神はここまで醜く、無残に決壊するのか。

 喉が枯れ、声が掠れてもなお、彼女の口からは汚物のような罵詈雑言が溢れ続ける。

 かつて彼女を崇拝の眼差しで見ていた生徒たちの瞳には、もはや畏怖ではなく、深い嫌悪だけが宿っていた。


「見ていなさい……見ていなさいよ……。私は聖女なの……。私は特別なのよ……。あんな、あんな薄汚い欠陥品のヴァルゼイドに負けるはずがないの……」


 エレナは泥濘の中で膝をつき、壊れた杖の残骸を愛おしそうに抱きしめながら、ぶつぶつと独り言を漏らし始めた。

 その目は焦点が合わず、虚空を彷徨っている。

 急激に静かになったかと思えば、突然立ち上がり、近くにいた女子生徒に向かって掴みかかろうとする。


「貴女、今笑ったわね!?私のことを笑ったでしょ!死になさい!神の光で灰になりなさいよ!」

 もはや魔力すらまともに練れぬその手で空を掻き、彼女は自重を支えきれずに再び転倒した。

「あぁ、あぁぁ……っ!」

 エレナは地面に顔を伏せ、獣のような嗚咽を漏らしながら、爪が剥がれるほどに石畳を掻き毟った。

 彼女の指先からは血が流れ、白い法衣を赤く汚していく。

 その姿は、高潔な聖女などでは断じてなかった。

 ただ己の欲望とプライドが肥大しすぎた結果、真実に触れて崩壊した一人の哀れな女に過ぎない。

 彼女の周囲に立ち込める空気は、先ほどまでの花の香りではなく、腐敗した魔力の異臭と、絶望の混じった不快な熱を帯びていた。


「おのれ……ヴァルゼイド……ユウ……!許さない……。絶対に許さないわ……。貴方のその澄ました顔が、絶望に歪むのを見るまで……私は……!」


 エレナは這いずりながら、騎士たちが差し出した手さえも噛みつきそうな勢いで威嚇した。

 彼女の心根に巣食っていた醜悪な選民意識は、今や剥き出しの狂気となって彼女自身を蝕んでいる。

 聖教団という巨大な権威の象徴が、一人の少年の理屈によって泥に塗れる。

 その事実こそが、彼女を最も深く、再起不能なまでに傷つけていたのだ。


「連れて行け!今すぐにだ!」

 ついに見かねた教団の幹部が冷徹に命を下した。

 エレナは猿轡を嵌められ、暴れる手足を太い皮紐で縛り上げられた。


「んぐ、んんんーっ!あああーっ!」


 言葉にならない絶叫を上げながら、彼女は屈強な聖騎士たちに引きずられるようにして中庭から連れ出されていく。

 引きずられた跡には、彼女が流した涙と血、そして砕けた黄金の破片が無惨に散らばっていた。

 彼女が去った後の中庭に残ったのは、不浄な魔力の残滓と、泥に塗れた信仰の残骸だけであった。


 聖教団の栄光を背負ったはずの聖女は、学園の歴史に残る最大の醜態として、目撃した全員の記憶に刻まれた。

 夕闇が迫る中、中庭の静寂は戻ってきたが、それはかつての平和なものではなかった。


 墜ちた偶像が流した涙は、新時代の幕開けを告げる雨に過ぎない。

 エレナの癇癪は、ただの序幕に過ぎなかった。

 彼女の精神を粉砕したユウ・ヴァルゼイドという存在が、いかに世界の理を書き換えてしまったのか。

 それを知る者は、教団の中には一人も存在しないのである。

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