第026話 嵐の後
昨夜、王都の闇を揺るがした苛烈な粛正劇は、一夜明けた学園の空気を根底から塗り替えていた。
国立魔導学園の正門を潜ると、そこには異様なまでの静寂が広がっている。
いつもなら廊下の隅や中庭で繰り広げられていた、名門貴族の子弟たちによる高笑いや、他者を見下すような傲慢な囁き声は、どこにも存在しなかった。
代わりにあったのは、何者かの影に怯えるような、湿った視線と張り詰めた緊張感だけだ。
俺とリーゼロッテが連れ立って廊下を歩くと、前方にいた生徒たちが、まるで割れた海のように左右へと退いていく。
彼らの顔には、昨日までの侮蔑や嘲笑の欠片もない。
あるのは、自分たちの家門さえも一瞬で消し飛ばされかねないという、剥き出しの恐怖だった。
「見てください、ユウ様。皆様、まるで私達を怪物でも見るような目で……」
リーゼロッテが不安そうに、しかし毅然とした態度で俺の隣に寄り添う。
「気にしなくていいよ。彼らはようやく、自分たちが立っている場所の危うさを理解しただけだろうさ。昨夜の件で、ヴァルゼイドに牙を剥くことが何を意味するか、嫌というほど思い知らされたんだろうね」
学園の掲示板には、数名の生徒の退学と、二つの伯爵家の『国家反逆罪による爵位剥奪』が冷徹に公示されていた。
それがバルカスと共謀した者たちへの報復であることは、語らずとも全員が察している。
教室に入ると、さらにその変化は顕著だった。
俺が席に着こうとすると、近くにいた男子生徒が椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、最敬礼に近い角度で頭を下げた。
「おはようございます、ヴァルゼイド様!あ、あの、昨日は……、あの、その、失礼な態度を……!」
彼が震える声で口にした失礼な態度とは、昨日の演習中、バルカスが俺たちを追い詰めていく光景を、娯楽でも見るかのように嘲笑いながら眺めていたことだろう。あるいは、俺の左腕の欠損を不具と呼び、リーゼロッテを成り上がりの腰巾着と蔑んだ、数えきれないほどの陰口のことか。
俺は彼を見据えることもせず、ただ静かに席に着いた。
「謝罪は不要だ。君が何を思い、何を口にしようと、僕の日常には何の影響もない」
俺の淡々とした言葉は、冷たく彼を突き放す。
彼にとって、俺に無視されることは、いつでもその首を撥ねられる猶予を与えられたに等しい恐怖だったのだろう。
崩れ落ちるように座り込む彼を横目に、俺は教科書を開いた。
講義が始まると、教壇に立つ教師たちは至って普段通りの振る舞いを見せた。
彼らは教育者として、あるいは国家公務員として、特定の家門の騒動に過剰に反応することを禁じられている。
粛正された家門についても、何事もなかったかのように授業を進めていく。
その徹底した公務としての態度は、却って昨夜の惨劇が国家の意志であったことを暗に示しており、生徒たちの恐怖をより一層深いものへと変えていた。
昼休み、学園の食堂へ向かうと、そこにはさらなる壁が待ち構えていた。
高等部の最高学年に位置する、ゼノン兄様とサリア姉様が、食堂の入り口で腕を組んで立っていたのだ。
二人の周囲には、近づくことさえ許されない真空のような威圧感が漂っている。
「ユウ!無事だったか!」
ゼノン兄様が俺の姿を見つけるなり、周囲のテーブルをなぎ倒さんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
彼は俺の肩を掴み、その全身を隈なく確認し始める。
「兄様、おはようございます。見ての通り、怪我一つありませんよ」
「当たり前だ。もし掠り傷一つでもあれば、今頃この学園は半分になっていた。サリアがどれほど荒れていたか、お前は知らない方がいい」
ゼノン兄様が視線を送った先には、氷の女神のような冷徹な笑みを浮かべたサリア姉様が、ゆっくりと歩み寄ってきていた。
「ユウ、リーゼロッテ。昨夜は本当に……、ごめんなさいね」
サリア姉様は俺の頬を優しく撫で、そのままリーゼロッテの頭も引き寄せた。
「サリア様……。昨夜は公爵様やエレイン様が守ってくださいました。私、本当に……」
リーゼロッテの言葉を遮るように、サリア姉様はその瞳に深い闇を宿らせた。
「分かっているわ。父様が全て片付けたことも、あの無様な連中が地下牢で何を囁いているかもね。でも、それでは私の気が済まないの。ねえ、ユウ。今日、放課後に少し時間をもらえるかしら?」
彼女は食堂を見渡すと、震えながら食事をしていた生徒たちを、凍てつくような眼光で一掃した。
「諸君。聞いているわね?我が弟、ユウ・ヴァルゼイド。そして私達が家族として認めたリーゼロッテ・フェルトン。この二人に次に不敬を働く者がいれば、家門の存続などという生温い話では済ませないわ」
サリア姉様の宣言は、魔力による増幅を伴い、食堂全体を物理的な重圧で震わせた。
高等部の最優秀生徒にして、次期宮廷魔導師筆頭と目される彼女の言葉は、絶対的な『死の宣告』に等しい。
生徒たちは持っていたカトラリーを落とし、ただただ王族に跪くような姿勢で沈黙を守った。
「サリア、これくらいにしておけ。ユウが困っている」
ゼノン兄様が苦笑しながら制したが、彼の腰にある愛剣からは、鋭利な気が放たれている。
「ゼノンも同じでしょう?昨日、ユウが狙われた現場を見てた警備担当の騎士たちを、今朝一人残らず叩きのめしてきたのは誰かしら」
サリア姉様の指摘に、ゼノン兄様は気まずそうに視線を逸らした。
俺は彼らの過保護ぶりに内心で溜息をつきながらも、その根底にある深い愛を拒むことはできなかった。
「兄様も姉様も、ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。僕は自分で自分の居場所を守れますから」
俺がそう告げると、二人は誇らしげに目を細めた。
「そうね。ユウは私達が思うよりも、ずっと強くて、気高い子だもの。でもね、甘えることも忘れないで。姉様達は、そのためにここにいるのだからね」
放課後。サリア姉様に伴われ、俺とリーゼロッテは学園の奥にある旧校舎の裏庭へと向かった。
そこには、昨日の事件の際に動かなかった警備担当の騎士数名が、サリア姉様の影魔法によって床と影を物理的に縫い付けられていた。
「さて、ユウ。彼らは昨日の緊急事態に際し、保身のために見て見ぬふりをした者たちよ。学園の規則では罰せられないけれど、ヴァルゼイドの基準では失格だわ」
サリア姉様の声には、一切の感情が乗っていない。
「ユウ、あなたならどうする?彼らを許す?それとも……消し去る?」
これは、俺に対する試練のようなものだ。
俺はゆっくりと歩み寄り、絶望に目を剥く騎士たちの前に立った。
彼らの瞳には『助けてくれ』という卑屈な哀願が浮かんでいる。
だが、昨日、俺やリーゼロッテが命の危険に晒された際、彼らが同様の冷淡さで俺たちを見捨てた事実を、俺は決して忘れない。
「命は取らない。でも、あなたたちは騎士の矜持を学び直したほうがいいでしょうね」
「素晴らしいわ、ユウ。死を与えるよりもずっと、ヴァルゼイドらしい示し方だわ」
サリア姉様は俺の肩を抱き寄せ、夕日に照らされる学園の回廊を見渡した。
彼女は俺の言葉を汲み取り、騎士たちの魔力回路を一時的に封印する呪いを刻んだ。力を奪われ、ただの人間として一からやり直す屈辱。それは彼らにとって死よりも重い罰かもしれない。
「さあ、帰りましょう。料理長が最高の晩餐を用意して待っているわ。リーゼロッテも、今日はあなたの好物を作らせておいたから」
「あ、ありがとうございます、サリア様!」
リーゼロッテは俺とサリア姉様の横顔を交互に見つめ、そのあまりにも巨大な力の片鱗に戦慄しながらも、その光が自分を守るためにあることを確信し、深々と一礼した。
嵐は去った。
しかし、その後に残ったのは、かつての平穏ではなく、俺という絶対者を中心とした新たな世界の秩序だ。
不憫な公子という仮面の下で、俺の左腕は、今日も静かに世界の因果を弄び、家族という名の揺り籠を完璧なものへと整えていく。
俺たちは沈む夕日に背を向け、温かな公爵邸へと馬車を走らせた。
窓の外を流れる景色を眺めながら、俺は次の手を考えていた。今回の騒動で、俺の存在は学園内で不可侵のものとなった。ならば、次はこの力を使って、学園の腐敗した構造そのものを、俺にとって都合の良い形へと作り替える時期じゃないだろうか。
物語の歯車は、止まることを知らない。
明日からの学園生活は、これまで以上に静かで、そして俺の野望を叶えるための完璧な舞台になるはずに違いない。
きっと、そうなるだろう。
馬車は夕闇迫る街道を照らしていたのだった。
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