第025話 公爵の逆鱗
国立魔導学園の演習場で起きた事故の報せが、ヴァルゼイド公爵邸の重厚な門を叩くまでに、一時間もかからなかった。
学園側は、あくまで未熟な新入生と補助官の連携ミスによる偶発的な事象として、事態を矮小化し処理しようと画策していた。学園長は自身の保身のため、事実を巧妙に歪めた報告書を書き連ねていたことだろう。
だが、その稚拙な隠蔽工作が、王国最強の守護柱を自認するガルド・ヴァルゼイドの逆鱗に触れることになるとは、彼らも予想していなかったに違いない。
公爵家にとって、次男であるユウ・ヴァルゼイドは単なる後継者候補の一人ではない。左腕という欠損を持ちながらも、家族の愛を一身に受けて育った、文字通り一族の至宝なのだ。それは単なる同情や憐れみではない。彼が示す類稀なる知性と、何よりその存在そのものが、ヴァルゼイドという絆の核となっているからに他ならない。
俺がリーゼロッテを連れて馬車で帰宅したとき、屋敷の空気は既に氷点下まで凍りついていた。
石造りのエントランスをくぐった瞬間、そこには普段の温厚な表情を完全に消し去り、戦神のごとき威圧感を放つ父様の姿があった。
その背後に渦巻く魔力に威圧は、視覚化されるほどに濃密な密度を持って大気をねじ伏せている。並の魔導師や騎士であれば、その場に平伏し、呼吸すら困難になるほどの重圧である。父様の傍らには、既に公爵家直属の精鋭騎士団が、主の命一つで即座に鉄槌を下せる態勢で、まるで無機質な彫像のごとく整列していた。
俺の姿を視界に捉えるなり、父様は音もなく歩み寄り、俺の肩を強く、しかし壊れ物を扱うような繊細さで抱き寄せた。
「ユウ、怪我はないか?リーゼロッテも無事か」
その声は低く、地鳴りのように腹の底まで響いた。
父様の鋭い視線は、俺の全身をくまなく走査して無事を確認した後、すぐさま俺の背後に隠れるように立っていたリーゼロッテにも向けられた。その眼差しには、愛息が目をかけ、自らの欠損を補う存在として受け入れた少女に対する、保護者としての深い懸念が混じっている。
公爵家にとって彼女は、もはや単なる子爵家令嬢ではない。大切な息子の隣を歩むことを許された、家族の一部として認知されつつあった。
俺は小さく頷き、努めて平穏な口調で答えた。
「大丈夫だよ、父様。僕には傷一つついていない。リーゼロッテも少し驚いただけで、怪我はないよ」
俺の言葉を聞き、父様は一度だけ目を閉じ、深く重い息を吐き出した。
だが、その瞳が再び開かれたとき、そこに宿っていたのは、全てを焼き尽くす冷酷な光だった。
「そうか。お前達が無事なら、それでいい。だがな。ヴァルゼイドの名を持つ者を、ましてや我が愛しき息子と、その大切な伴を殺めようとした罪は万死に値する。学園という神聖な学びの場を、一族の卑俗な私怨のために穢した愚か者どもには、相応の報いを受けてもらわねばならん」
父様は俺の頭を一度だけ撫でると、リーゼロッテに対しても「怖かっただろう、もう安心しなさい」と、一瞬だけ表情を和らげて声をかけた。彼女は父様の放つ圧倒的な覇気に気圧されながらも、その言葉に含まれた確かな守護の意志に触れ、瞳を潤ませて深く頭を下げた。
そして父様は、氷のような冷徹さで振り返り、魔導騎士団の長へと短く鋭く命じた。
「行くぞ!バルカスという男、およびその背後で糸を引く家門。今宵のうちに、王都からその名を消し去る。我が一族に刃を向けるということが、どういうことか。そして我が息子が守ろうとした者に手を出すことが、どれほどの愚行か。骨の髄まで、魂の形が変わるまで教えてやる!」
父様が纏う威圧が、物理的な破壊を伴う重圧となって玄関ホールの装飾を震わせた。それはかつて戦場で数多の敵軍を灰塵に帰した、英雄の威圧そのものだ。
俺はそれを引き止めることもしなかった。この世界の法において、強者が弱者の悪意を蹂躙するのは当然の帰結だからだ。むしろ、中途半端な慈悲こそが毒となり、さらなる歪みを生むことを俺は知っている。
父様たちが嵐のように屋敷を去った後、俺とリーゼロッテは、母様が待つ奥の広間へと案内された。
ゼノン兄様とサリア姉様は、まだ高等部の講義が終わっておらず帰宅していない。彼らがこの騒動を知れば、事態はさらに苛烈を極めるだろう。特にサリア姉様の俺に対する執着と保護欲は、時として父様さえも凌駕する凶器となるのだから。
広間に入ると、そこには眉間に深い皺を刻んだ母様が、幽鬼のような静かさで待ち構えていた。
「ああ、ユウ!なんてことなの……!リーゼロッテ、あなたも大丈夫?二人とも、あんな恐ろしい目に遭って……。お母様、今すぐあそこを、あの忌々しい演習場ごと更地にしてしまいたい程だわ!」
母様は俺を壊れ物のように抱きしめながら、その手でリーゼロッテの肩も優しく引き寄せた。彼女の温もりは本物であり、そこには一切の計算も偏見も介在しない、純粋な愛である。公爵夫人の地位にありながら、身分の低い子爵家の娘であるリーゼロッテをこれほど慈しむのは、彼女がユウの隣に立つ資格を認めた証拠でもある。
「私のような者のために、これほどまでの……。ありがとうございます、奥様」
リーゼロッテは絞り出すような声で感謝を述べた。彼女にとって、フェルトン家という小さな枠を越え、ヴァルゼイドという巨大な輪の中に招き入れられたこの瞬間は、何物にも代えがたい救済であり、忠誠の誓いをより強固なものにするだろう。
その頃、夜の帳が下りた王都の一角では、公爵の逆鱗に触れた者たちが地獄を見ていたはずだ。
バルカスが所属していた伯爵家、および彼と共謀した上級生たちの実家には、国王エドマンドの命を受けた憲兵隊と、公爵家の精鋭騎士団が同時に突入した。 表向きの罪状は『魔導具の不正利用と国家反逆罪の嫌疑』。
だが、その実態はヴァルゼイド家の私刑に近い。公爵家の『不憫な公子』は、決して手を出してはならない逆鱗そのものなのだ。
夜明けを待たずして、二つの家門が取り潰しを宣告され、関係者全員が地下牢へと消えた。彼らが再び日の光を浴びることは、万に一つもなかろう。
――翌朝――
ゼノン兄様とサリア姉様がようやく事の次第を知ることとなった。
朝食の席で、取り潰された家門のニュースを聞いたサリア姉様の手から、銀のフォークが不穏な音を立てて床に落ちた。
「父様、どういうことかしら?昨夜、ユウがそんな目に遭っていたなんて。なぜ、なぜ私を呼んでくれなかったの?」
サリア姉様の瞳には、透き通った殺意が静かに宿っている。その魔力は、隣に座るリーゼロッテの肌を焼くほどの鋭さを帯びていた。
「サリア、お前を呼べば跡形も残らんだろう。昨夜の件は私が既に処理した。ユウもリーゼロッテも無事だ」
父様の淡々とした言葉に、ゼノンもまた無言で拳を固く握りしめた。
「父様、次は、絶対に私に行かせてください。私の守るべき弟が傷つけられようとしたのです。騎士としての矜持にかけて、次は必ず、その一族ごと断ち切ります」
家族全員の守護という名の、狂気にも似た過剰なまでの情熱。
俺はそれを受け止めながら、隣でまだ緊張が抜けきらないリーゼロッテの皿に、彼女の好物である果実を載せてやった。
「リーゼロッテ、たくさん食べなよ。今日からは、もっと自由に学べるようになるはずだからね」
「はい、ユウ様。私、精一杯頑張ります。公爵様達のご期待に応えられるよう、何があってもユウ様をお支えいたします」
不憫な公子という皮を被りながら、俺は確実にこの世界という理を掌握していく。
窓から差し込む朝日は、かつてないほど明るく、俺たちが進むべき最適化された未来を鮮明に照らし出しているようだった。
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