第022話 密室の審判
国立魔導学園の最上階、学長室へと続く廊下には、春の陽光さえも遮断するような凍てついた静寂が横たわっていた。
先ほどまでの華やかな入学式の喧騒が嘘のように遠のき、ただ重厚なオーク材の扉の向こう側から漏れ出る、人知を超えた威圧感だけが、廊下を見張る衛兵たちの呼吸を浅くさせている。
その扉が開かれた時、室内に満ちていたのは、物理的な質量を伴った憤怒である。
学長室の豪奢な赤絨毯の上には、数組の貴族親子が、まるで魂を抜き取られた抜け殻のように跪いていた。
アンスバッハ男爵、カストル伯爵をはじめとする王国の重鎮たち。そして、その背後で顔を土色に染め、震える指先を必死に隠そうとしている子息と令嬢たち。彼らはつい先刻まで、大講堂の末席で、自身の無知を棚に上げた傲慢な毒を吐き散らしていた者たちだ。
だが、この密室において、審判の剣を突きつけられているのは、彼ら愚かな親子だけではなかった。
部屋の隅、直立不動のまま滝のような脂汗を流し、自身の存在を消し去りたいと願うかのように縮こまっているのは、学園長を筆頭とした入学試験の運営責任者、そして教職員の代表たちである。
部屋の中央、学長の椅子をまるで玉座のように支配し、悠然と腰を下ろしているのは、国王エドマンド・ヴァルゼイド。その傍らには、王国最強の矛であり、ヴァルゼイド公爵家の当主であるガルドが、憤怒を氷のような冷徹さへと昇華させた姿で立っていた。その双眸は、獲物を屠る直前の猛禽のように、跪く者たちを冷たく射抜いている。
「……さて。アンスバッハ男爵、カストル伯爵。そして、そこに並ぶ未来の国家の寄生虫たちよ。貴公らをわざわざ式典の最中に、この密室へ呼び出した理由……。まさか、知らぬとは言わせまいな」
国王の低く、地を這うような声が室内に響く。それは単なる声ではなく、王の権威そのものが空間を圧迫する物理的な衝撃波であった。
アンスバッハ男爵は、額を絨毯に擦り付けたまま、引き攣った声を漏らした。
「へ、陛下……何かの間違いにございます! 我が息子たちが、学園の至宝たるヴァルゼイド家の方に対し、不敬を働くなど断じてあり得ませぬ! 何者かの讒言では……!」
「讒言、か。貴公は、余の耳が腐っているとでも言いたいようだな」
エドマンドは冷淡に言い放つと、机の上に置かれた集音魔法具を指さす。本来は学園の歴史を記録し、壇上の声を届けるための神聖な魔導具を、指先で静かに弾いた。
魔法具が不吉な鈍色の光を放ち、大講堂のざわめきとともに、忌々しいほど鮮明な、そして醜悪な本音が、逃げ場のない現実となって再生される。
『……見たかよ。あの出来損ないが主席だとさ。公爵家が金で順位を買ったに決まっている。不具者の分際で、俺たちの席を汚すなよ』
最初の一声。アンスバッハ男爵の子息の声が、静寂を切り裂いた。
父親の顔が、一瞬にして死人のように白くなる。だが、無慈悲な再生は止まらない。
『全くだわ。次点のフェルトンとかいう田舎娘も、ヴァルゼイドの腰巾着として点数を下賜されたのでしょう? 泥臭い成金が同じ空気を吸うなんて、あぁ、吐き気がするわ』
扇を落とし、震えるカストル伯爵令嬢の声。
『魔力測定の水晶を壊したのだって、本当は魔力がなさすぎて測定不能になった不細工な結果を、隠蔽しただけだろう? ヴァルゼイドも落ちたものだ』
『不憫を売りにして王の慈悲を乞うとは、公爵家も随分と浅ましい。あんな不吉な腕なしが学園にいるだけで、我らの格が落ちるというものだ』
再生が止まった後、学長室を支配したのは、死よりも深い沈黙であった。
国王の瞳には、もはや憐れみのかけらも残っていない。
「間違い……か。今この場に流れた言葉、それが諸君らが丹精込めて育て上げた、家門の誇りの正体だというわけだ。余の耳に直接届いたこの汚濁を、空耳だと断じるのであれば、貴公らの家門そのものが、真実を認識する能力を失ったと判断せざるを得まいな」
父様が一歩、ゆっくりと前へ踏み出した。その足音が、跪く親子たちの心臓を直接踏みつけるかのような重圧となって響く。
「私の息子ユウは、自身の左腕の欠損という運命を背負いながら、それを補って余りある知識を得ている。そしてリーゼロッテ嬢は、我が家がその将来を保証し、正式に後見を務める高潔なる乙女だ」
父様の声は、低く、だが鋼のような強靭さを伴っていた。
「彼女を『腰巾着』と蔑み、我が息子を『不吉な出来損ない』と呼ぶこと。それは、彼女の後見人であり、王国の盾であるヴァルゼイド公爵家への明確な宣戦布告と受け取って構わぬな? アンスバッハ、カストル。貴公らは、我が家の軍勢を相手に、その舌先だけで戦うつもりか?」
その言葉に、室内の空気は完全に凍り付いた。ヴァルゼイド公爵家への宣戦布告。それは、王国内における貴族としての社会的、経済的、そして物理的な抹殺を意味する最上級の警告である。
伯爵夫人は耐えきれずにその場にくずおれ、子息たちは恐怖のあまり失禁し、絨毯に醜い染みを作っていた。
「国王陛下。学びの聖域を醜悪な嫉妬で汚し、真に実力ある者を不当に貶めたこれら四家に対し、臣として厳正なる処分を具申いたします」
父様の冷徹な裁定が、断頭台の刃のように振り下ろされた。
「対象となった生徒の即刻入学取り消し。さらに、彼らの領地においてどのような歪んだ教育が施されてきたのか、王家直属の特選監査団による徹底的な家宅捜索を要請します。ヴァルゼイド家は本日、この瞬間をもって、これら四家との一切の交流、交易、および相互支援を断絶いたします」
「認めよう。ガルド、貴公の具申は極めて妥当だ。余も、自身の甥であり、この国の宝を侮辱した輩の存続を許すほど寛大ではない」
エドマンドは立ち上がり、絶望の淵で震える親子たちを、道端の石ころを見るような冷めた一瞥で射抜いた。
「去れ。二度と余の視界に入るな。貴公らの家門に明日があるかどうか、先祖の墓前でせいぜい祈るがいい。衛兵! この者たちを引きずり出せ!」
絶望の叫び声を上げる親子たちが、衛兵の手によって無造作に部屋から排除されていく。重厚な扉が閉じられ、再び静寂が戻ったが、部屋の中に漂う緊張の糸は、むしろより鋭く張り詰められた。
国王の視線が、隅で石像のように固まっている学園長らへと向けられたからだ。
「……さて、学園長。そして運営委員諸君。貴公ら教職員の怠慢についても、じっくりと話をせねばなるまいな」
学園長は呼吸を止めたまま、崩れ落ちるように膝を折った。
「は、陛下、申し訳ございません……! しかし、数千の生徒一人一人の私語までを把握するのは、物理的に不可能に近く……」
「言い訳は不要だ。不可能ではない、それはただの怠慢なのだ。会場全体が、あれほどの悪意に満ちた波長に包まれていたにもかかわらず、諸君らはそれを制止することも、生徒たちの倫理を正すこともできず、ただ漫然と型通りの式次第を進めていた。教育者として、この国の指導者を育てる資格が自分にあると、まだ思っているのか?」
エドマンドは、手元の魔法具を学園長の足元へ投げ出した。
「試験結果への不信がこれほどまでに蔓延していたのは、学園側が試験の正当性と、ユウ・ヴァルゼイドの圧倒的な実力を、誰の目にも明らかな形で示せなかったからに他ならぬ。筆記の点数と実技の数値。そんな表面的な指標だけで人を測るから、このような浅ましい嫉妬を招くのだ」
国王は机を強く叩き、身を乗り出した。
「今後、国立魔導学園の入学試験には、必ず、面接試験を取り入れよ。数値化できぬ人間性、志、そして他者への敬意。それを余や公爵、選抜された厳しい審査官の前で直接問う機会を設けるのだ。魔導の才があれど、魂が腐った者に国の礎を担わせるわけにはいかぬ。今回の不祥事に関わった運営教員は全て更迭せよ。国立学園の名に胡坐をかき、真理を見極める眼を失った者に、教壇に立つ資格はない!」
「御意にございます、陛下。直ちに、選抜基準の抜本的な見直しに着手し、全教職員の講習を徹底いたします」
学園長は震える声で答え、深々と頭を下げた。彼の地位さえも、今や風前の灯火であった。
一通りの断罪を終えた国王は、ようやくその険しい表情を緩め、窓の外を見つめた。
「ガルド。あの子……、ユウは、自分に向けられたこれほどの悪意を、まるで春風を浴びるように受け流していたな」
「ええ。あの子は、我々が案じている以上に遥かに高い場所から、この歪な世界を眺めているのだと思います。親として、頼もしくもあり、同時にその孤独を想うと、胸が締め付けられる思いです。ですが……」
父様は、ユウの隣を歩くリーゼロッテを見つめ、どこか誇らしげに目を細めた。
「あの子には、寄り添う者がおります。ヴァルゼイドが認めた真の絆が。それを穢そうとする雑音は、私が、そして王家が、この手で一つ残らず刈り取っていきましょう」
密室で行われたこの審判は、翌朝には全学園、そして王都全土に戦慄とともに広まることになるだろう。
『不憫な公子』という仮面の裏側で、真の支配者が歩み始めた。その第一歩を邪魔する雑音は、王と公爵の手によって、影も残さず、冷徹に、そして完璧に排除されたのだった。
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