第019話 種が紡ぐ名誉
ヴァルゼイド公爵邸の私的な応接室では、数日前までの殺伐とした余韻を微塵も感じさせない、穏やかで建設的な空気が流れていた。
あの日、アトウッド伯爵家をはじめとする有力貴族たちから浴びせられた罵倒や、路上での卑劣な待ち伏せという屈辱。それは今や、フェルトン家の立場を劇的に逆転させ、王国の権力構造そのものを塗り替えるための強固な踏み台に過ぎなくなっていた。
部屋の中央に置かれた、一級の魔導木材で設えられた円卓には、公爵家当主ガルドと、招待されたフェルトン男爵が向き合って座っている。
俺は、父様と母様の間に特別に用意された、公子専用の豪奢な椅子に深く腰を下ろしていた。
七歳の小さな身体には余るほど大きな椅子だが、そこに座る俺に向けられる家族の眼差しは、相変わらず溶けるほどに甘い。
だが、俺の視線は円卓の上の緊迫した、それでいて希望に満ちた対話に注がれていた。
男爵の表情には、かつての領地の困窮に喘ぐ焦燥感や、格上貴族に怯える卑屈な影は微塵も見られない。
それどころか、背筋を正し、ヴァルゼイドの当主を前にしても、一人の貴族としての矜持を凛として保っていた。
その変化をもたらしたのは、他でもない、愛娘リーゼロッテがユウに捧げた『ひまわりの種』が証明した、驚異的な価値であった。
ガルドは傍らに置かれた、公爵家専属の魔導技師たちによる詳細な報告書を手に取り、満足げに目を細めた。
「男爵、驚いたぞ。君の娘が持ってきた種を精査させたのだが……。その生命力の純度は、そこらの中級魔石を遥かに凌駕する数値を示した。ただの食用などと謙遜していたが、これは植物の形をした高純度の魔力伝導体だ。立派な特級の魔導資材、あるいは治癒薬の触媒としても通用する、国宝級の価値がある」
その言葉を聞いた男爵は、感極まったように深く、深く頭を下げた。その拳は、喜びと安堵で微かに震えている。
「身に余る光栄にございます、閣下。我らフェルトン家は、代々この『育む魔法』を土壌に注ぎ、名誉よりも命を慈しむことのみに心血を注いでまいりました。それが公爵家の、そして何よりもユウ様のお役に立てたのであれば、これ以上の喜びはございません」
男爵の声には、打算のない真摯な感謝が宿っていた。
自らの家系が守り抜いてきた力が、ヴァルゼイドの至宝であるユウの関心を引いた。その一点が、彼にとって何物にも代えがたい救いとなったのだ。
父様は満足げに頷くと、傍らの卓に置かれた、漆塗りの重厚な文箱を静かに開いた。
そこには、王家の紋章が金糸で刻印された、一通の爵位授与書が納められている。
「男爵。いや、フェルトン。貴殿の家系が守り抜いてきたその魔法、そしてリーゼロッテ嬢の献身は、この国の農業と魔導の常識を覆す価値がある。そこでだ、我がヴァルゼイド家は王家に対し、貴殿を子爵へと陞爵させるよう強く推薦し、即座に受理された。今日から貴殿は、フェルトン子爵だ。近々、謁見の間にて正式な叙爵式を執り行う」
突然の宣言に、男爵は雷に打たれたように硬直した。
男爵から子爵へ。それは単なる一段の昇進ではない。
実質的な影響力と、他家からの不当な介入を跳ね除ける『公爵家の公認』という盾を手に入れることを意味する。
「し、子爵……私が、ですか……? このような弱小の身が、過分な位を賜るなど……」
「当然だ。特級魔導素材の生産源となる領地を治める者が、一介の男爵であっては格がつかぬ。これは慈悲ではなく、正当な功績に対する報酬であり、我がヴァルゼイドの面目のためでもあるのだ。異論は認めん」
父様が不敵に笑うと、母様もまた、俺の座る椅子の傍らで優雅に扇を広げた。
「フェルトン子爵、あなたの領地で栽培されている農作物は、非常に清らかな魔力を含んでいるわ。これをヴァルゼイド家の専売として流通させれば、王都の貴族たちはこぞって買い求めるでしょうね。もちろん、あの日、お二人に無礼を働いた方々には、一口のパンさえ供給しませんけれど」
母様の微笑みは、フェルトン子爵領に対する莫大な経済的支援と、市場の独占権を保証するものであった。
その時、廊下から静寂を乱す騒がしい足音が響き、執事が当惑した表情で扉を開いた。
そこに現れたのは、真っ青な顔で震えるアトウッド伯爵と、その取り巻きのチェスター子爵家、ロウェル子爵家の当主であった。
彼らは護衛騎士の放った警告に形振り構わず、ありったけの財宝を抱えて謝罪に訪れたのだ。
アトウッド伯爵たちは部屋に入るなり、貴族の矜持をかなぐり捨てて床に膝を突き、額を絨毯に擦り付けた。
「ガ、ガルド閣下! そしてフェルトン男爵……殿! 先日の息子の無礼、万死に値すると猛省しております! この通り、家宝の魔石や領地の利権書、あわせて金貨五万枚に相当する詫びの品を持参いたしました! どうか、慈悲を……!」
差し出された目録には、一つの家系を傾けかねないほどの莫大な慰謝料が記されていた。
だが、ガルドはそれに見向きもせず、氷のような一瞥をくれた。
「アトウッド。貴公は根本的な勘違いをしているようだな。詫びを請う相手は私ではない。この、我がヴァルゼイドが認めた高潔なる友、フェルトン子爵にであろう」
「し、子爵……?」
アトウッド伯爵は、絶望に顔を歪めた。
爵位の格付けこそ伯爵が上だが、公爵家との親密度においては、完全に逆転を許してしまったのだ。
かつては容易に踏み潰せる存在だと見下していた男に対し、今や命乞いをしているのは、上位貴族であるはずの自分の方だった。
「アトウッド伯爵。私個人への侮辱であれば、私は耐えられたでしょう」
子爵の態度は、大地に根を張る大樹のような、揺るぎない威厳を纏っていた。
「しかし、あなたは私の愛娘リーゼロッテの心を踏みにじった。さらには、ユウ様へ献上された品を泥と呼び、公子を自らの虚栄心のために利用しようとした。その無礼、到底許せるものではありません」
冷え切った沈黙が流れる中、ガルドがふと、部屋の隅にある萎れかけた観葉植物に視線を向けた。
「フェルトン子爵。君たちの『育む魔法』がどれほどのものか、改めてこの場で見せてはもらえないか。あの日、ユウが興味を示したその力の真価をな」
父様の重厚な言葉に、子爵は深く頷き、隣に座っていたリーゼロッテの手を優しく引いた。
リーゼロッテは緊張に身を固くしながらも、父の信頼に応えるべく、植物の前に立った。
彼女が震える手を、枯れかけて茶色く変色した葉にそっと触れさせる。
その瞬間だった。
リーゼロッテの手から、春の陽だまりのような柔らかな緑の光が溢れ出した。
茶色く変色していた枝が、目にも止まらぬ速さで水分を湛えて青々と蘇り、さらには季節外れの白く可憐な花が、音を立てるかのような勢いで瞬く間に開花したのだ。
殺伐とした応接室に、春の野山を思わせる芳しい香りが立ち込める。
「あら、なんて素晴らしいの!リーゼロッテさん、あなたの魔法はこれほどまでに清らかに、命を呼び覚ますのね。流石だわ」
母様が感銘を受けたように声を上げると、父様も満足げに頷いた。
アトウッド伯爵たちは、目の前で起きた植物の蘇生という奇跡に言葉を失う。
自分たちが泥と罵り、価値がないと断じたものが、公爵家が喉から手が出るほど欲する至宝であったことを突きつけられ、彼らは絶望のあまりその場にくずおれた。
「決まりだな。フェルトン子爵、今日から貴殿の家を、ヴァルゼイド公爵家の公認『特等魔導農園』として認定する。今後、貴殿の領地に指一本でも触れる者は、ヴァルゼイド全ての軍勢を敵に回すと心得よ。アトウッド、貴公らは持ってきたものを置いて、即座に立ち去れ。二度とその顔を私に見せるな!」
冷酷な追放宣言と共に、アトウッド伯爵たちは騎士たちによって引きずり出されていった。
子爵は、公爵夫妻に再び深く頭を下げ、それから俺の方へと向き直った。
「ユウ様、ありがとうございます。あなたが娘を信じてくださったおかげで、私たちは救われました。これからも、リーゼロッテの良き友人として、どうかよろしくお願いいたします」
俺は椅子から身を乗り出し、その不器用で温かな優しさに応えるように、小さな右手で彼の指先をぎゅっと握りしめた。
リーゼロッテもまた、父親の誇らしげな姿を見て、ひまわりのような満開の笑顔を見せた。
不憫な公子という立場を利用し、俺はこれからも、この温かな家族と、新たに見つけた絆を守るための布石を打っていく。
その夜、王都の社交界では、アトウッド伯爵家の凋落と、フェルトン家の驚異的な陞爵が、最も衝撃的なニュースとして駆け巡った。
しかし、その中心にいる幼き『不憫な公子』が、どれほど冷徹に、そして優しくこの事態を操作していたのかを知る者は、まだ誰もいなかった。
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