第120話 共振
満月の夜。王都の中央にそびえる大聖堂は、数千本の蝋燭と伝統を重んじる貴族たちが持ち寄った魔導の灯火によって、不気味なほど白々と照らし出されていた。
『聖域浄化の儀』。表向きは国の安寧を祈る儀式だが、その正体は、無駄のない理屈を突きつけて影を暴き続ける俺という異分子を、神の威光という暗がりに葬り去るための見せしめの場だ。石壁に跳ね返る重厚な音色の重なりは、もはや聖らかな歌ではなく、変化を拒む者たちが上げる断末魔の叫びのように俺の耳に届く。
大聖堂の内側、ひときわ高く、見下ろすように作られた説教壇にロシュフォール伯爵が立った。
彼は豪勢な儀礼服の重みに陶酔し、先祖から受け継いだ家柄を全身に纏っている。その表情には、自らが信じる古臭い歴史への盲信と、それを脅かす俺への剥き出しの敵意が混ざり合っている。彼の周囲を固めるのは、今回の企てに加担した有力な貴族たちだ。彼らは勝利を確信した薄笑いを浮かべ、自ら用意させた特等席という名の一番見晴らしの良い席に収まっていた。
彼らは気づいていない。俺の『眼』には、彼らが座るその場所こそが、この建物において最も脆い場所、つまり何かが起きれば真っ先に崩れ落ちる、死の座として映し出されていることに。
「静粛に!我らが神聖なる大聖堂において、今、恐るべき汚濁がこの国を侵食しようとしているのだっ!」
伯爵の怒鳴り声が、巨大な石造りの天井へと吸い込まれていく。
地下の水道に刻まれた仕掛けが、微かに、だが不快な地鳴りのような唸りを上げはじめる。彼らが用意した不安を煽るための音の細工だ。人の声に含まれる特定の震えを無理やり大きくし、集まった民衆の心臓の鼓動を早め、本能的な恐怖を植え付けるための嫌な罠。だが、その力の流れは、すでに俺の描いた図面通り、ロロの手によって別の用途に書き換えられている。
俺は、リーゼロッテと共に大聖堂の最後方に立っていた。
伯爵の声は空気の震えとなり、その震えは、俺がロロに命じて仕込ませた見えない空気の壁によって逃げ場を失う。声の跳ね返る方向はあらかじめ固定されており、この建物の急所である天井支柱のつなぎ目へと、一点に重なるよう導かれているのだ。
「見よ!ユウ・ヴァルゼイドがもたらす正しさと称する不敬な行いを!彼は神の作りし大地を歪め、千年の伝統を瓦礫に変え、我ら貴族の誇りを踏みにじった!あの男は、王国の調和を壊す悪魔の設計者だ!」
伯爵の叫びが最高潮に達したその時、俺の脳内にある計算は終わりの合図を告げた。
彼が吐き出す激しい怒りの声は、地下の仕掛けを通るたびに目に見えないハンマーのような衝撃へと膨れ上がる。大きくなった振動が、まず建物の根っこを揺らし、数百年かけて乾ききって脆くなった石材の合わせ目を内側から激しく叩き始めた。
「……始まったな。伯爵、君の自慢の喉が、君の愛する聖域を壊す金槌になるんだ」
俺が静かに呟いた瞬間、空気が引き裂かれるような悲鳴が上がった。
説教壇の真上、建国以来の歴史が描かれた巨大な丸い色硝子が、内側からの圧力に耐えかねて、その枠ごと外へと弾け飛んだのだ。厚みのある硝子が、声の響きに耐えきれず一瞬で粉々に砕け散る。月光を浴びて光る数万のガラス片が、雨となって特等席に座る貴族たちへと降り注ぐ。
だが、これはまだ始まりに過ぎない。伯爵が動揺してさらに声を張り上げ、逃げ惑う群衆を静めようと叫ぶたびに、その声は俺が置いた空気の壁にぶつかり、正確に天井の最も重要な石へと跳ね返る。
メキメキ、という巨大な怪物が骨を折るような音が響き渡る。
天井全体の重みを支えていた要の石が、伯爵の声による震えで、その場所をわずかにずらした。支えを失った数千トンもの石材が、一斉にその重圧を周囲へとぶつけ始める。その行き場となったのは、伝統派貴族たちが誇りとしていた、美しい彫刻が刻まれた太い柱である。
次の瞬間、建物の右側を支えていた主柱の一本が縦に大きく裂けた。
表面の金箔が雪のように舞い散り、内側から噴き出した石の粉が吹雪のように辺りを白く染める。続いて、ドーム状の天井を彩っていた聖人たちの壁画が、ひび割れと共に無残に剥がれ落ちていく。彼らが守ろうとした歴史そのものが、大きな塊となって彼らの頭上へ降りかかる。
伯爵の足元、説教壇の床が地響きを立てて盛り上がる。地下に刻まれた仕掛けが、大きくしすぎた自分たちの声の力に耐えられず、地面そのものを突き上げ、粉々に砕き始めたのである。
「な、何だ!?何が起きている!止まれ、静まれと言っているのだ!」
狂ったように叫ぶ伯爵の喉が、最後の一押しとなった。
彼が発した鋭い叫び声が、天井中央に吊るされた巨大な燭台の鎖を直撃し、限界まで引き絞られた鉄を断ち切る。鉄の塊が真っ逆さまに客席へと叩きつけられ、その衝撃で床の石が波打つほどだった。
わざわざ外側から壊す必要などない。建物のひずみを突けば勝手に壊れていく。石造りの巨大な聖域が、自らの手足をもぐように崩れ落ちていく光景は、もはや一つの見せ物のようですらあった。
「ひっ、あぁぁぁぁ!」
説教壇が左右に真っ二つに割れ、伯爵は瓦礫の海へと転げ落ちた。俺はその混乱の中を、一歩ずつ光の中へと歩み出した。頭上から石が降り注ぎ、轟音が耳を突く中、俺とリーゼロッテだけが、あらかじめ導き出した崩れることのない安全な道筋を、一切の迷いなく進んでいく。
「伯爵。神に祈る前に物の道理を学ぶべきだったな。この建物は、君たちが勝手な増築を繰り返したせいで、すでに重みに耐えられる限界を超えていたんだ。君が地下に隠した稚拙な細工は、その限界を突き破るための背中押しに過ぎない。君たちがしがみついていた伝統という名の欠陥が、今、自分自身の重みに耐えかねて崩れているんだよ」
天井から落ちてきた、翼を広げた天使の石像が、伯爵のすぐ隣で轟音を立てて砕け散った。舞い上がる土煙の中で、恐怖に顔を歪め、膝をつく伯爵。その背後では、ゼノン兄様やウィンザー、そして父ガルドが率いる精鋭たちが、逃げ惑う貴族たちを助けるという名目で次々と捕らえていた。
「ユウ。本当にお前は、人を壊すより先に、その人が立っている世界そのものを壊してしまうのだな。私の剣が入り込む隙すら、お前の道筋で埋めてしまうとは」
飛んでくる石を剣で弾き飛ばしながら近づいてきたゼノン兄様が、恐れと喜びの混じった声で笑った。その瞳には、弟への愛を超えた、絶対的な力への信頼が宿っている。父ガルドもまた、崩れゆく大聖堂を見上げ、深い畏怖を込めた笑みを浮かべていた。
「兄様。僕はただ、古い設計の間違いを正しただけです。さあ、伯爵。君が守りたかったものは、もうどこにもない。君自身の声が、君の居場所を壊したんだ。この瓦礫の山に、これまでの利権も伝統も、すべて置いていくといい」
俺は、瓦礫に半ば埋もれたロシュフォール伯爵を見下ろし、最後の手紙としての契約書を突きつけた。契約書とは、ロシュフォール伯爵をはじめとする伝統派貴族たちが、これまで特権として握ってきた利権、土地、爵位、そして政治的な影響力をすべて手放すことを定めた文書のことである。
伯爵の震える指が、自らの額から流れた血で汚れたペンを握り、震えながら名前を刻む。その瞬間、彼が築き上げてきた伝統派という名の見せかけの勢力は、形としても政治的にも完全に解体されたのである。
騒動が収まる頃、大聖堂の派手な飾りはすべて剥ぎ取られ、剥き出しになってしまった。だが力強い石の骨組みだけが残されていた。民衆は、瓦礫の雨の中で汚れ一つなく立ち続ける俺の姿に、真の奇跡を見たのだろう。それは盲目的な祈りなどではなく、決して逆らうことのできない圧倒的な道理への畏怖なのだと思う。
リーゼロッテが俺の傍らに寄り添い、砕けた色硝子を踏み締めながら、満足げに微笑む。
「素晴らしい解体でしたわ、ユウ様。古い石積みが崩れ、ようやく先が見通せるようになりましたわね」
彼女の細い指が、俺の空いた左袖を愛おしそうになぞる。
俺は、崩れ落ちた伝統の残骸を見つめながら、次の国づくりの図面を、冷めた思考で脳内へと広げ始めていた。
伝統という名のほつれは消えた。
だが、この国のあり方そのものを、俺の意志で書き換える仕事は、まだ始まったばかりなのである。
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