第108話 百合の残像
あの日、ヴァルゼイド公爵邸の図書室で、強面の髭面店主が純白のドレスに身を包んで舞った白き地獄の試着会。
本来ならば、歴史の闇に葬り去り、記憶の彼方へ永久追放すべき忌まわしき怪現象なのだが、俺の網膜には、今もなお、最高級ヴェールの隙間から覗く野獣のような鋭い眼光と、剛毛の髭が蓄えられた頬が蕩けるような微笑みに歪んだあの戦慄の瞬間が、呪いのごとき鮮明さで焼き付いて離れない。
「……ふぅ。よし、この領地報告書で最後か」
公爵邸の執務室。俺は山積みになっていた書類へのサインをようやく終え、羽根ペンを置いて深く背もたれに身を預けた。
窓の外では柔らかな日差しが庭園を照らし、小鳥たちが長閑にさえずっている。向かいのデスクでは、ゼノン兄様がいつになく厳しい表情で、軍部から届いたばかりの極秘報告書と思われる束を凝視していた。
室内を支配するのは、パチパチと爆ぜる暖炉の薪の音と、時折聞こえる兄様がページを捲る硬い紙の音だけだ。公爵家の平和な、いつも通りの知的で厳格な午後の風景。……のはずだった。
「……ユウ。少し、こちらへ来い。国防に関わる重大な懸念が生じた」
不意に、ゼノン兄様が地を這うような重苦しい低い声で僕を呼んだ。
その声は普段の冗談を一切許さぬほど厳格で、まるで国境付近で壊滅的な緊急事態でも起きたかのような緊迫感に満ちていた。俺は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、椅子から立ち上がった。
「はい、何ですか?ゼノン兄様。まさか隣国との緊張が高まったのですか?」
俺が襟を正して緊張気味に歩み寄ると、兄様は報告書を机に叩きつけるように置いた。そして、組んだ指の上に顎を乗せ、射殺さんばかりの鋭い双眸で俺を真っ向から見据えた。
「昨日の演習での我が軍の騎兵連隊の動きだがな……。あまりに鈍重だ。あの時の店主に比べれば、あまりにも無駄が多すぎる。これは我が国の防衛体制に根本的な欠陥があると言わざるを得ない」
「……ブッ!?」
俺は思わず吹き出してしまった。
店主のターン。
あの、筋骨隆々の巨躯にレースを纏わせ、三十キロを超える重装甲ドレスを微塵も感じさせずに図書室の絨毯を滑るように舞った、あの髭面の旋回運動のことか。
「な、何を言ってるんですか兄様!あれは、その、母様の暴走による事故のようなものでしょう!」
「いいや、あれは至高の領域だった。ユウ、お前もこの目で見たはずだ。あの、岩をも砕かんとする屈強な脚部が、繊細なレースの裾を捌く瞬間の完璧なしなやかさを。我が軍の精鋭とて、あの百合の舞いに込められた、一歩一歩の正確な重心移動には到底及ばない。あれこそが真に追求すべき、敵の予測を完全に裏切る極限の歩法だ。私は今、本気で店主を軍の特別体術講師に招くことを検討しているのだぞ」
ゼノン兄様は一切笑っていない。それどころか、国家の命運を懸けた軍略を練る軍師のような、神聖なまでの真面目顔だ。だが、その口から出る言葉が店主のターンのキレへの異常な心酔であればあるほど、俺の腹筋は耐え難い震えに襲われていく。
「やめてください!せっかく忘れかけていたのに、思い出させないでくださいよ!」
「何を言う。私はいつだって真剣だ。特にあのヴェール越しに見えた蕩けるような微笑みだ。あれは敵の戦意を根こそぎ喪失させる究極の精神攻撃と言わざるを得まい。もし戦場で店主があの微笑みを浮かべて突撃してくれば、いかなる猛者も剣を落として膝を突き、その異形なる神々しさに祈りを捧げるだろう。それほどの衝撃だったのだ」
兄様は静かに立ち上がると、窓の外に広がる王都の街並みを遠い目で見つめた。
そしてあろうことか、店主が披露した愛しき人を待ち侘びるポーズを再現するように、逞しい片手を顎に添え、首を僅かに四十五度ほど傾けた。鍛え上げられた軍人の筋肉が、可憐なポーズをなぞる姿はあまりに不気味で、もはや視覚的暴力に近い。
「……ユウ。私は決めたぞ。次の公式晩餐会には、あの店主を特別賓客として招待しよう。もちろん、あの百合の装束でな。その際、お前がエスコート役を務めるのが最も収まりが良いだろう」
「本気で言ってるんですか!?僕が髭面のドレス男をエスコートするなんて、社交界での死刑宣告じゃないですか!」
俺は椅子を蹴立てるようにして叫んだ。
公式晩餐会。王都の貴族たちが勢揃いし、他国の使節まで集まるあの社交の場で、あの髭面の花嫁を降臨させるだと?
「ああ。あの美しさは、ヴァルゼイド家だけで独占するにはあまりに惜しい。他国の連中に、我が国の厚い層……。物理的な筋肉の厚みと、それをドレスで包み隠す精神的な狂気の厚みを見せつけてやる絶好の機会だ。店主の背筋の伸び、そして髭を覆うヴェールの絶妙な透け感。あれはもはや、国家予算を投じて保護すべき国宝だぞ、ユウ。お前も芸術を解する心があるなら同意するはずだ」
「同意しませんよ!悪夢ですよ!招待状は僕が全部燃やしますし、その前に店主を王都から逃がします!」
笑ったら負けだ。
兄様は俺を笑わせようと、全力でシリアスな演技を継続している。だが、兄様の声が僅かに震え、その口端がほんの数ミリだけピクリと動くのを、俺は見逃さなかったからだ。兄様は俺が吹き出す瞬間を、獲物を狙う鷹のような目で見定めているのだ。
「おっと、手が滑ったな。店主の優雅さが乗り移ったようだ」
ゼノン兄様は真顔のまま、机の上のペン立てから羽根ペンを一本、羽衣を扱うように優雅に抜き取った。そして、あの日、店主が極限の精神状態で披露したステップを、重厚な軍靴の音を響かせながら、一寸の狂いもなくトレースし始めたのだ。
「……ゼノン兄様、何をして……やめて、本当にお願いだから……っ!」
「これだ、ユウ。この体重を左足に乗せ、ヴェールを模した羽根ペンを指先で弄ぶ際の色香……。そして、振り返りざまの、あの野獣のごとき眼光と髭の存在感……。ククッ、これこそが、我がヴァルゼイド家が求める究極の花嫁の完成形ではないか……!サリアやリーゼロッテも、この高みを目指すべきなのだ!」
兄様はついに、拳を口に当てて「フッ、フフフ……」と喉を鳴らし始めた。だが、目はまだ笑っていない。その不気味なほどの真剣さが、俺の笑いの限界を何度も執拗に突破してくる。
「頑張れ店主……。君のあの、蕩けるような……ブフッ、微笑みは、一生僕の夢に出てくる呪いなんだ……!」
俺のその絞り出すような一言が、ついに決壊のトリガーとなった。
扉の隙間から、いつの間にか廊下で様子を伺っていた父様が「ヒッ、ヒッ……ヒィィ、お、お腹が……!」と、酸欠寸前のような掠れた音を立てて笑いを堪えている気配がする。
「ユウ、お前も……ククッ、やってみるか?店主のあの百合の沈み込みを。今なら兄様が直々に、軍仕込みの腰のひねりと膝のクッション、そして、蕩けるような微笑みを指導してやる……ぞ……!」
「やりませんよぉぉー!!」
執務室に俺の絶叫が虚しく響き渡る。
店主が残していった強烈すぎる百合の残像は、どうやら俺の愛する家族たちの感性までも、修復不可能なレベルで狂わせてしまったらしい。
兄様が本格的に招待状を書き始める前に、何としても阻止しなければならない。
そう決意し、全力で兄様のデスクに駆け寄り、ペンを奪い取るための攻防戦を開始した。
だが、兄様の回避ステップは、あの日店主が見せたあの華麗なターンと、驚くほど似通っていたのだった。
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