第107話 服飾店主は白き地獄に哭く ~店主視点~
私の名は、シュヴァン・ノワール。
王都一と謳われる最高級服飾店『シュヴァン・ノワール』の店主である。
自分で言うのもなんだが、私の外見は職人というよりは、戦場帰りの傭兵か、あるいは裏社会の刑執行人に近い。筋骨隆々の体躯に、左頬を縦に走る古傷。そして顔の半分を覆うような、熊のごとき黒々とした強面の髭面。初対面の貴族令嬢が私の顔を見て失神するのは、もはや日常茶飯事である。
だが、その威圧感こそが『誰にも文句を言わせない圧倒的な美』を創り出す私の武器なのだ。
そう、今日この日までは……。
今、私はその失神した令嬢たちよりもよほど悲惨な境遇に立たされている。
場所はヴァルゼイド公爵邸、重厚な図書室。本来なら知性と静寂が支配するはずのその空間は、今や山のような純白の布地、最高級のレース、そして目が眩むほどの宝石が散乱する白き戦場へと化しているのだ。
事の始まりは、サリア様の婚礼衣装選びであった。
しかし、エレイン様の一言により、話は想定外の方向へ転がり落ちた。
「将来、二人が並んだ時のバランスを見たいわ。サリアが嫁ぐなら、いずれ隣に立つリーゼロッテさんも今から準備しておくのが効率的でしょう?」
慈愛に満ちた発言により、ユウ様の婚約者であるリーゼロッテ様までもが強引に呼び出され、図書室は『ダブル婚礼衣装試着会』の会場へと変貌したのである。
「店主、この衣装は少し光沢が強すぎるわ。あの子が朝日に目を細めてしまったらどうするの?このレースの編み目は?万が一にもあの子の指が引っかかるようなことがあれば、この店を王都から消して差し上げるわよ」
エレイン様の注文は、服飾の域を超えていた。もはやそれは衣服の制作ではなく、一種の聖域の構築に近い。
数時間に及ぶ連続試着と、エレイン様の妥協なきダメ出し。これには若く強靭な魔力を持つサリア様とリーゼロッテ様も、ついに限界に達した。お二人は青白い顔でソファに手を取り合って崩れ落ち、もはや指一本動かせぬといった様子で、荒い息を吐いている。
ようやく休憩か……。
私は震える手で、冷めきった茶を啜ろうとした。だが、その甘い考えは一瞬で打ち砕かれる。エレイン様の熱狂は、冷めるどころか、主役がいなくなったことでさらに純度を増して加速していた。
「……待って。二人が休んでいる間に、衣装の細部の揺れを確認しておかなくては!」
冷徹な響きを帯びた声。エレイン様の鋭い視線が、部屋の隅で納品書の陰に隠れて震えていた私を射抜いた。
「……店主。あなたが着なさい」
「はい?……は、はいいいいい!?お、恐れながら、私はこの通りの強面!しかもこの髭面にドレスなど、神への冒涜にございますぞ!」
「関係ありませんわ。今の二人には美を維持する体力が欠けているのよ。店主であるあなたが、理想の動きを見せなさい。さぁ!早くなさい!」
抗う間もなかった。私は瞬く間に公爵家の屈強な侍女たちに捕らえられ、壁際へと追い詰められた。サリア様が着るはずだった最高級のベールが頭に被せられ、リーゼロッテ様のために用意された、純白のシルクにドラゴンの鱗を裏打ちした重装婚礼ドレスが、職人の手つきで強引に着せられていく。
鏡の中にいたのは、豪華なレースとフリル、そして繊細な刺繍に包まれた、凶悪な髭面の巨漢であった。
鋼のような胸筋でドレスの布地ははち切れんばかりに膨らみ、ヴェールの隙間からは鋭い眼光が放たれている。客観的に見て、これ以上の地獄絵図がこの世にあろうか。だが、エレイン様の瞳に一切の迷いはない。
「さあ、もっと幸せな花嫁になりきって歩きなさい!ユウに見つめられた時の、あの蕩けるような、それでいて凛とした微笑みを浮かべるのよ!」
エレイン様の背後に立ち上る実体化したかのような圧倒的な威圧感。私はもはや、泣きながらヴェールを被り直すしかなかった。私は今、店主ではない。生きたマネキンなのだ。
「腰のひねりが足りないわ!」
「指先まで愛を込めなさい!その手の差し出し方では、あの子を包み込めないでしょう!」
エレイン様の叱咤が飛ぶたび、私は条件反射で膝を折り、ドレスの裾を翻した。三十キロ近い重量を持つドレスが足首に食い込むが、私は必死にステップを踏んだ。鏡に向かって、渾身の蕩けるような微笑みを作り出す。剛毛の髭の下で引き攣る頬が、もはや自分のものとは思えない。
すると、どうしたことか。ソファで死んだように休んでいたサリア様とリーゼロッテ様が、弾かれたように立ち上がったではないか。
「……サリア様。あの店主、屈辱を糧にして、私たちより花嫁としての完成度が高くなっておりませんこと?」
「ええ……。このままでは、あの子の隣に立つのは、あの不気味な髭店主になってしまうわ。……リーゼロッテ、ヴァルゼイドの女として、負けていられませんわよ!」
危機感を抱いた淑女お二人が、闘志に燃える瞳で再びドレスの海へと飛び込む。
「店主、そこを退きなさい!その角度の微笑みは、私こそが相応しいわ!」
「いいえ、ドレスの裾の裁き方は、私の方が研鑽を積んでおります!」
一人の強面な髭店主を理想のモデルに据え、エレイン様の美意識の暴走と二人の淑女の意地が激突する。図書室は、もはや婚礼の準備ではなく、極限の美を追求する修行場と化していた。
その時だった。
図書室の重厚な扉が、音もなく数センチだけ開いた。そこには、騒ぎを聞きつけたのか、屋敷の男衆が三人、こちらの様子を伺っているのが見えた。
「……ゼノン兄様、父様。あれは……何を?」
ユウ様が、見たこともないような複雑な表情で呟いた。その顔は引き攣り、必死に口元を片手で押さえている。
「フッ……。店主も大変だな。あんな髭面の……フッ、いや、一輪の百合……ククッ、耐えろ、私。笑えば母様に何をされるか分からんぞ」
ゼノン様は、肩を小刻みに震わせ、俯いて必死に笑い声を押し殺している。その端正な顔立ちは苦悶に歪み、既に限界に近いようだ。
公爵様までもが、拳を口に当てて視線を虚空に泳がせ、喉を鳴らして笑い声を堪えている。ヴァルゼイド公爵としての威厳を保とうとしているのだろうが、その背中が激しく波打っているのは隠しようもなかった。
ユウ様に至っては、ドレス姿で優雅にターンする私と目が合った瞬間、ついに膝から崩れ落ちそうになり、ゼノン様の肩を強く掴んで顔を埋めた。
「が、頑張れ店主……。君の……君のその……蕩けるような微笑みは、一生忘れないから……ぶふっ!」
ユウ様のその一言が、私の心に更なる絶望を灯した。
扉の隙間から漏れ聞こえる「ヒッヒッ」という押し殺した笑い声と、時折聞こえる「百合……百合の妖精が……」というゼノン様のうわ言。
それらを背景に、エレイン様の扇子が再び鋭い音を立てて開かれた。
「あら、見物人が増えたわね。いいわ店主、今の言葉に応えるように、さらに深く、情熱的なカーテシーを披露しなさい!」
私は、自分がいつ店に帰れるのか、あるいは人間としての尊厳をいつ取り戻せるのかを考えるのを止めることにした。ただ、エレイン様の扇子が動くたびに、私は誰よりも優雅に、誰よりも深く、純白のドレスを揺らして膝を突くのだった。
強面の髭面にヴェールをなびかせ、私は白き地獄で舞い続けるしかないのだ。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




