第106話 密やかなる一目惚れ
ヴァルゼイド公爵邸の広大な図書室、その大きな窓から外を眺めていた俺は、正門を抜けてくる一台の馬車に目を留めた。
白銀の装飾が施された、ベルシュタイン侯爵家の馬車だ。
「……ベルシュタイン侯爵閣下?今日は何の用だろう」
「事前のご連絡はありませんでしたわね。アルフォンス様も何も仰っていませんでしたし……」
俺が小さく独り言を零すと、背後で紅茶を淹れていたリーゼロッテが、不思議そうに首を傾げた。
彼女の言葉通り、俺の学園での友人であるアルフォンスからは何の音沙汰もなかった。
かつては中立派の重鎮であったベルシュタイン家だが、今や我が家とは非常に仲が良くなっている。
とはいえ、侯爵が自ら、それもこれほど豪華な正装用の馬車で訪れるのは異例のことだった。
俺の記憶を総動員しても、この状況から導き出される政治的な意図がすぐには見えてこない。
図書室の重厚な扉が静かに開き、一人の男が姿を現した。
「ユウ、いつまで窓の外を見ているんだ。父様がお呼びだよ」
「ゼノン兄様。ベルシュタイン侯爵閣下がお見えのようですが、何かあったのですか」
声をかけてきたのは、ゼノン兄様だった。
その口角は心なしか愉しげに上がっており、何かを知っているような、含みのある笑みを湛えている。
俺の問いに対して、ゼノン兄様はただ『行けばわかることさ』とだけ告げ、俺の背を優しく促した。
俺とリーゼロッテは、ゼノン兄様に導かれるまま応接間へと向かった。
廊下を歩く間、リーゼロッテの瞳が不安げに俺を窺っている。
彼女は国王陛下より『公爵家特派監察官』に任じられており、常にこの屋敷の動向を監視する立場にあるが、その彼女ですら今回の訪問の意図を把握していないようだった。
やがて、金箔が施された重厚な扉が開かれた。
応接間には、すでに異様な緊張感が満ちていた。
上座には、公爵家当主である父様が厳然たる態度で座り、その隣には母様が優雅に扇を手にしている。
対面に座るのは、正装を纏ったベルシュタイン侯爵だ。
そしてその隣には、顔を耳の付け根まで真っ赤にして俯いているアルフォンスの姿があった。
さらに驚くべきことに、母様の隣には、いつになく落ち着きのない様子で指先を弄ぶサリア姉様が座っていた。
普段の彼女であれば、双子の兄であるゼノン兄様と同様、鋼のような理知で武装し、隙のない令嬢として振る舞うはずなのだが。
今のサリア姉様からはどこか浮ついた、熱を帯びた空気が漏れ出している。
「公爵閣下、本日は家門の代表として、重き願いを携えて参りました」
ベルシュタイン侯爵が、かつてないほど厳かに口を開いた。
「我が嫡男アルフォンスは、貴家の長女、サリア殿との正式な婚約を申し入れたく存じます。二人はこれまで密かに文を交わし、愛を育んできたとのこと。我がベルシュタイン家としても、この上ない名誉として、どうかこの婚姻をお認めいただきたい」
「こ、婚約……っ!?」
俺は思わず声を上げ、隣のリーゼロッテと顔を見合わせた。
彼女もまた、信じられないものを見たという風に、その端正な顔を驚愕に染めている。
俺とリーゼロッテは学園でアルフォンスと多くの時間を共有していたはずだが、そんな気配は微塵も感じさせなかった。
事の真相は、俺たちが通っていた『建築設計研究会』まで遡るという。
あの日、研究に没頭していた俺とリーゼロッテを迎えに来たサリア姉様。
そこで客員教授として招聘されていたアルフォンスと顔を合わせた瞬間――冷徹な才女と謳われたサリア姉様は、雷に打たれたような一目惚れをしていたらしい。
以来、二人は誰にもバレないように手紙を交わし、時に人目を忍んで逢瀬を重ねてきたのだという。
俺とリーゼロッテという、最も近くにいたはずの人間を完全に欺き通していたのだ。
だが、ガルド父様と母様の表情に驚きの色は微塵もない。
父様は深く椅子に背を預け、母様は満足げに目を細めている。
二人は、愛娘の密かな恋路を最初からすべて把握し、この申し入れがなされる瞬間を静かに待ち構えていたのだ。
この邸において、家族の情動が漏れることはあっても、主の目から逃れる秘密など存在し得ない。
ゼノン兄様が俺の肩を軽く叩き、耳元で低く囁いた。
「驚いたかい、ユウ。サリアがあれほど熱心に研究会に顔を出していたのは、君を見守るためだけではなかったということだ。もっとも、気づいていなかったのは君たちだけのようだがね」
双子の片割れであるゼノン兄様だけは、サリア姉様の僅かな仕草の変化から、その想い人が『ユウの友人』であることを鋭く勘づいていたようだった。
「侯爵、貴殿の誠意はしかと受け取った。アルフォンス殿であれば、我が娘を任せるに不足はない。サリア、お前の意思を改めて聞かせておくれ」
父様の重々しい問いかけに、サリア姉様がゆっくりと、しかし確かな意志を宿した瞳で顔を上げた。
「……はい、父様。私は、アルフォンス様と共に歩みたいと願っております。彼の持つ真摯な情熱と、誰よりも深い知性に私は救われたのです」
サリア姉様の唇から零れたのは、いつもの厳しい言葉ではなく、一人の乙女としての純粋な歓喜だった。
アルフォンスもまた、張り詰めていた緊張を解き、感極まった表情で深く頭を垂れている。
二人の間に流れる、至福の空気。
それはこの邸に満ちる過保護という名の重圧さえも、一時的に塗り替えるほどの輝きを放っていた。
母様がそっとサリア姉様の手を取り、慈しむように微笑む。
「良かったわね、サリア。あなたが見守るべき愛しい弟の友人が、あなたの生涯の伴侶になるなんて。これほど素晴らしい縁はありませんわ」
母様の言葉は温かかったが、その真意は別の場所にあることを俺は知っている。
家族が増えるということは、俺を監視し、保護する目が増えるということと同義なのだ。
ガルド父様もまた、鋭い視線をアルフォンスに向けた。
「アルフォンス殿。サリアを娶るということは、ヴァルゼイドの一員になるということだ。それは同時に、我が最愛の息子であるユウの兄となる責任を負うことでもある。その覚悟はできているのか?」
「もちろんでございます、公爵様。ユウ君は私にとってもかけがえのない友であり、これからは弟として、全力で彼をお支えし、守り抜くことを誓います」
アルフォンスの言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
彼がサリア姉様を愛すれば愛するほど、彼は義理の弟となる俺のために、その知性とベルシュタイン家の権力のすべてを費やすだろう。
かつての学友であり先輩のアルフォンス・ベルシュタイン。
彼がサリア姉様の夫となれば、彼は俺の義兄となる。
ベルシュタイン侯爵家という王国屈指の権威が、血縁という不可逆の絆によって俺の周囲を全方位から囲うことを意味していた。
サリア姉様が彼を愛すれば愛するほど。
アルフォンスがサリア姉様との幸福を噛みしめれば噛みしめるほど。
彼らは俺という存在を、決して傷つけてはならない至宝として、この完成された安寧の中に繋ぎ止め続けるに違いないだろう。
俺が良かれと思って築いた友人の縁が、サリア姉様の恋心と絡み合い、俺の自由を阻むための美しい壁を、また一段と高く、分厚く積み上げていく。
「……ユウ様、大変なことになりましたわね」
リーゼロッテが、俺の耳元で震えるような声で囁く。
俺を守るために、世界がまた一歩、隙間なく作り替えられていく。
俺はその眩いほどの至福の景色の中で、逃げ場のない愛の連鎖に、暗い眩暈を感じてしまった。
応接間に響く祝いの言葉と、母様の柔らかな笑い声。
それらはすべて、俺を慈しみ、逃がさないための旋律として編み上げられていく。
サリア姉様とアルフォンス先輩が手に手を取って微笑む姿は、傍から見ればこの世の春を体現したかのような美しさだが、俺にとっては、また一つ逃げ場を失った宣告に他ならなかった。
ゼノン兄様が楽しげに祝杯を挙げ、父様が満足げに頷く。
この完璧な光景こそが、俺を縛り付ける究極の防壁である。
俺は、熱っぽい瞳でこちらを見つめるサリア姉様に、精一杯の祝福の微笑みを向けた。
それが彼女たちの愛をさらに深め、俺への執着を強める結果になると知りながら。
婚約の儀が一段落し、ベルシュタイン侯爵家が去った後も、屋敷の喧騒は止まなかった。
むしろ、これから始まる婚礼の準備という、さらに巨大な儀式に向けて、家族たちの熱量は高まっていく。
サリア姉様は、アルフォンス先輩からの手紙を大切そうに胸に抱き、何度も読み返している。
「ユウ。お前も嬉しいだろう?アルフォンス殿なら、お前のことを一生、影から支えてくれるはずだ」
ゼノン兄様が、悪戯っぽく、しかし真剣な眼差しで俺に問いかける。
俺は頷くしかない。
俺を取り巻く世界は、善意と愛情で埋め尽くされている。
だが、その密度が高まれば高まるほど、俺の呼吸は浅くなっていくような気がしたのである。
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