接触Ⅰ⑱
玄関がどこにあるのかわからなかったので、最初に足を踏み入れたあの「子供部屋」へと向かった。
Zが『ドラ●もん』の主題歌に合わせて楽しそうに口ずさむ声が聞こえてきて、BGMのようにしてどこかからずっと流れ続けていた「般若心経」と合流する。まさしく「カオス」と表現されるべき状況であり、それに伴って、いつの間にか意識外へ追いやられていたはずの種々の痛みや悪心が一挙に蘇ってきたが、もちろん足を止めるわけにはいかない。
幸いなことに私は、「侵入」に際してカーテンは閉めたものの、戸の方は開けたままにしておいたはずだった。……最悪の場合に備えてのいつものルーティンだったが、今回はそれが見事にハマったというわけだ、我ながら、自身の「名探偵」っぷりにはいつも驚かされるよ……。
私は改めてそう考えながら、敢えて「子供部屋」の中央付近に立ち止まると一息ついた。そしてそれから助走をつけ、毛羽立ち、埃に覆われ、前にいつ洗ったのかわからないような色合いの、日に焼けた布に向かって勢いよく飛び込んだ。
凄まじい音が鳴り響いたのは次の瞬間だった。
気づくと「子供部屋」の床にうつ伏せに倒れ込んでいた。そして「気づく」のとほぼ同時に、全身が悪寒に襲われることが始まった。小刻みな震えが止まらず、満足に呼吸すらできない……。
私はもちろん何が起こったのかさっぱりわからなかったが、とにかく深呼吸を繰り返しながらしばらく動かずにじっと耐えていると、その「悪寒」が顔面の、鼻から上の辺りのぼんやりとした一帯に端を発しているらしいということがかろうじて知れた。実際、左手で「患部」に触れてみると、妙にぬるっとした感触があって、血が流れているのだとわかった。状況はほんの少しだけ把握できた……だが本当に、いったい何が起こったというのだろうか……?
何もかもが不明瞭で埒が明かず、ほどなくして顔の中央付近から気が遠くなりそうなほどの痛みが兆し出したが、同時並行的に「アンタナニヤッテンオオオオオオオオオオオオオオッ!」という大声が聞こえてきたところで、恐らく「名探偵」の本能なのだろう、私は何もかもを顧みずに反射的に立ち上がった。跳ねるようにしてベランダの方へ向かい、カーテンを引き開ける。
「……クソヤロウが……」
思わず汚らしい捨て台詞を吐いてしまったが、それもムベなるかなという感じだった。なぜなら私が開けておいたはずのガラス戸が、あろうことか最後まで閉め切られていたからだ。そしてそのガラスには、記憶にないぐらい大きな穴が空いている……。視点を近くに移し、床に目をやると、ガラスの破片が大量に散らばっているのが目に入った。
要するに、と私は思った。
……要するに俺が侵入した後、頼んでもないのにあのクソババアか誰かが律儀に戸を閉めくれたという寸法なわけだ、もちろん俺はそんなことを知る由もなく、開いているはずだと思い込んでダイビングしてしまい、体重100キロの巨体でガラスに突っ込んでしまった結果、やはり跳ね返され、「脱出」を防がれるという帰結が齎された、顔面の痛みは、その最中にどこかで鼻の辺りを強く打ち付けたことによって刻み付けられたものだろう、「侵入」時に一部を叩き割っておいたおかげで、ガラスにはそれなりのダメージを与えられたようだが、そんなことはもちろん全く何の慰めにもなりはしない、……まったくどいつもこいつも、やってほしいことは何もやらねえくせに余計なことばかりしてくれやがる、いったいどこまで俺の邪魔を気が済むのか、いくらHの手先とは言え、やっていいことと悪いことの区別ぐらいはつけてくれよ……。
そう考えながら、半ば無意識のうちに頻りに指先を服の端で拭っていた私だったが、こびりついた血のひどく嫌な感じには全く薄れていく気配がなかった。




