接触Ⅰ⑲
事情を呑み込むと同時に、顔面が所詮単なる「身体の一部」の分際で、それまでに経験したことのないほど強い痛みを訴え始めた。両の頬骨をペンチか何かで挟み込み、そのペンチの持ち手と紐で結ばれたサラブレットが好き放題そこらじゅうを走り回っているような感じだった。そして恐らくその「痛み」から逃れるためなのだろう、意識が飛びかけたのは一度や二度のことではない。
しかしどれだけ痛かろうが、相変わらず家の中から聞こえ続ける怪物のような叫び声を耳にしていれば、差し当たりやるべきことがこの場からの「脱出」を措いてほかにないというのはあまりに明白だった。「失神」の気配に身を任せ、意識を手放してしまうなどというのはもはや論外である。
そもそも様々な奇行を参照する限り、傲岸にも私の知り合いであることを装うその「中年女」がHの一味であるというのは既に確定された事実と化していた。つまり大局的に捉えれば、私はここでも「名探偵」としての能力を存分に発揮し、無数にあるマンションの部屋の中から、たまたま一発でHの根城を見出したということになる。まさしく神の所業というわけだが、反面そのある種の「奇跡」は、決して純粋な「幸運」と同値ではない。何しろ先に予め言明しておいた通り、この部屋は恐らく私専用の「封印領域」なのだから。つまり表面上、私は自らここを選んだようでいて、実際には何らかの方法でここを選ぶよう巧妙に誘導されたという可能性が高い。Zが為したと思しき「勝手に戸を閉める」という一見不可解な行動もまた、同様の見地を取れば整合的に理解することが可能とある。つまり単なる「迷惑行為」などではなく、私を「閉じ込める」ための初歩的かつ効果的な措置だったということだ。
……そうとわかればこうしてはいられない、このままじっとしてなどいればまさしく奴らの「思う壺」であり、ほどなく手遅れとなってしまうだろう……。
私はそう考えながら、ひどい有様になった戸を開き、ベランダに出た。室内よりも湿度が高く、息苦しさは増したが、反面、四方が開放されているということで精神的にはずいぶんと楽になった。しかし事実としてまるで床に接着されているかのように全身が言うことを聞かず、柵を乗り越えるまでにひどく苦労した。それでも「心頭滅却心頭滅却心頭滅却……」と呟きながら重い身体を引きずり、ほとんど落下するような形で「管」を逆に辿ると、私は何とか地上への復帰を果たしたのだった。
オオタニは例の草むらで「シュッ、シュッ」などと口にしながらシャドウボクシングを繰り返していた。本人的には私の言いつけを律儀に守っていることをアピールしているつもりだったのかもしれないが、私としてはただひたすら不快でしかなく、じっと見ているとまた痛みが増してきそうだったので、すぐに話しかけることをした。
「おい、ここはいったい何なんだ?」
「おお、やっと帰ってきたんすね、待ちくたびれましたよ、それで、満足しました?」
「……お前、俺をおちょくって、楽しいか?」と私は思わず本音を口にしてしまいそうになった。話が噛み合わないのはいつものことだが、この時はなぜだかオオタニが故意にすれ違いを演出しているような気がしたのだ。要するに挑発の気配がいつもよりもほんの少し色濃かったということであり、そしてだからこそ私はいつも以上に、努めて冷静に返答を行うことに注力した。
「惚けなくていい、お前とあのイカれた依頼人が、この場所と深いつながりがあることはよくわかってる、だから、敢えて聞くが、ここはいったい何なんだ?」
オオタニはそこでようやく動きを止め、手首のあたりで額を拭いながら言った。
「もしかして、会いました?」汗の膜で不完全に覆われた顔面が、少し離れたところに立つ街灯に照らされて不鮮明に光っている。
「え?」
「『サ●エ』すよ、キクチさんがあいつの家のベランダに入ってくように見えたから、もしかしてって思ってたんすけど、やっぱりそうすよね、あいつは本当にヤバいすよ」
「……」
「だいぶ前なんすけど、家に電話かかってきたことあって、何の前触れもなくいきなり、夜の11時ぐらいだったかなあ、当然何か緊急の要件かと思って、こちらとしては滅茶苦茶構えたんすけど、それで何て言うかと思ったら、『望遠鏡で外覗いてたらぁ、向かいの家の外壁にぃ、スズメバチの巣があるのが見えたのぉ、どうしたらいいかしらねえ』と来た、ふざけるのもマジで大概にしておけよという感じすよね、まず夜の11時に望遠鏡で外を観察してるってところからいろいろ間違ってるだろ?」
「ちょっと黙れ」
私はさすがに堪え切れず、口をはさんだ。オオタニが何か言う前に続ける。
「俺が聞きたいのは、だからなんでお前はそんなにこの建物について詳しいんだってことだよ」
こちらとしては結構突っ込んだつもりだったが、オオタニは何でもなさそうに答えた。
「え? 当たり前じゃないすか、ここに俺、住んでるんすよ」
「は?」今度は私が困惑させられる番だった。
「というか前に来たことありますよね、いきなり『野球ゲームやりたい』とか言い始めたから、俺の家で一緒のプレーしたじゃないすか、もう忘れたんすか? やっぱり働きすぎはよくないっすよ」
「……へえ、ああ、そうですかそうですか、ご忠告どうも、アハハハ、アハハハハハハハハハ」
私は苦心して作り笑いを漏らしたが、もちろん何一つ、面白いことなどありはしない。
※
これが初めの「接触」の概要である。初っ端から常軌を逸した出来事が数多く発生しすぎて、当該時点における私は、逆に大事なところの細部にまで目を止めることができないでいた。しかし今から振り返ってみれば、実際にはこの時既に、私は問題の核心に迫っていた。だがそのことを悟るには、もう少し時間が必要とされる。
そしてだからこそ私は次にいくつかの別の出来事について、ひとまず言及していかなければならない。
事態が急転したのは数日後、ちょうど9月に入ってすぐのことであった。




