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接触Ⅰ⑰

「痛っ」と思わず声を出してしまったが、痛みを感じていられたのは実際にはほんのわずかな間だけだった。ただの呼吸音はもちろんのこと、肺胞において酸素と二酸化炭素とが交換される音さえ聞こえてきそうなほどの至近距離に、一人の中年女が立っていた。正確な年齢などもちろん知っているはずもないし、わかりたくもなかったが、いきなり姿を現した人物についての「像」を授受した私の脳みそは、ソイツが既に人生下り坂に差し掛かって久しい所謂「斜陽族(≒中年)」であるとの判断を下したようだった。

 初めに意識されたのは頭を中心として広範囲に張り付く黒々とした縮れ毛である。所謂「国民的」アニメ『サ●エさん』の「サ●エ」そっくりだったと言えば伝わるだろうか。というよりも、敢えて似せたかのように、髪質だけでなく、「巻き糞」を彷彿させる全体的な形状までそっくりだった。化粧気のない顔面はしなびたように妙に長細く、対照的に中央付近に鎮座まします団子鼻の穴が心なしか妙に大きく見えて、私は気づけば、ダンゴムシを何匹そこに詰め込めるだろうかという目算を開始していた。体形もどちらかと言えば「痩せすぎ」の部類に入り、そのため皮膚が骨に張り付いたようになっていて、例えばシミだらけの首の付け根の辺りはスコップか何かで大きく抉られたかのような様相を呈していた。もちろん同情の余地などないが、事実として、悲惨ではある。衣類は上下揃いのルームウェア(七分丈)で、藍色の地になぜか小さな猫の顔が無数に散りばめられているという有様は、存在しているだけで他人にストレスを与えるという「人影」特有の能力と明確に合致していた。

 そしてそれら全ての外見が、口から発せられる強い納豆の臭いによりまんべんなく彩られていた。率直に言って勘弁してもらいたいという感想を即座に私が抱いたのも、当然の流れと言えるだろう。

 だが「中年女」改め「Z」の真骨頂は、もちろん「外見」ではなく、「言動」にこそ存した。つまり、まともな人間としての挙措が悉く欠落しているということであり、ここでも、「とりあえず一刻も早く視界の外に出ていっていただきたい」とする私の心からの願いを全く勘案せず、さらにわけのわからないことを立て続けにまくし立て続けてくれた。

「そういえばこの前ノビタの誕生日だったんだけど、知ってる? 8月7日、知ってるわよね、テレビで誕生日の特番やってたから録画しといたわよ、ハードディスクの容量いっぱいになっちゃうから、できるだけ早く見といてね、……そうだっ、何もやることないなら、今から見る? それがいいわ、名案だわ、容量いっぱいになっちゃうから、あんたたちのために、私が録画したのはほとんど消したんだからね、それでもすぐ容量が足りなくなっちゃうから、今から一緒に見ましょ、だけどその前に、リヴィングに散らかしてある人生ゲームまず片付けなさいよ、あーあ、いっつも何でもやりっぱなしなんだから」

「……」

「そうだっ!! そういえば、あんたうがい手洗いはしたのよね? こっそりそこで悪いことしてたみたいだけど、さすがにうがい手洗いぐらいは済ませたわよね? 外出した時は雑菌を極力家の中に持ち込まないように、帰ったらすぐ、うがい手洗いするように、ちゃんと鼻の中まで洗浄するように、あれほど教えてやってきたんだから、大丈夫よね? ねえ? ……オラアッ! 大丈夫なら、返事ぐらいしくさりやがらんかいゴラアアッ!!」

「……完全に、イッてるな……」 

 さすがに限界だった。本来であれば、私たちがお互い全くの無関係であることを何とかして知らしめたうえで、このうえない不快感を植え付けられたことを初めとする様々な被害に対して謝罪と慰謝料とを要求するのが筋と思われたが、まともなやり取りの通じる相手でないことは明白だったので、私はひとまず立ち上がると、Zの脇をすり抜け、洗面所へ向かった。わざと大きな音を立ててうがいと手洗いを敢行する。つまり「言われた通りのこと」をしたわけだが、もちろん従順さはうわべだけの「飾り」にすぎない。とりあえずそうして怒りの矛先を逸らしておいて、その間にこれからどのようにすべきなのかを熟考するつもりだった。

 だが考えがまとまるより前に、リヴィングの方から、『ドラ●もん』の主題歌が聞こえてきた瞬間、私は「名探偵」特有のひらめきに襲われ、唐突に全てを理解した

「……そうかそうか、そういうことか、危うく手遅れになるところだった……」

 鏡の表面には水滴の白い痕が無数にこびりついていて、そのせいで湿疹に覆われたみたいになった自分の顔面を見ながら私はそう呟くと、意を決して駆け出した。

 もはやお分かりのことだと思われるが、私がここで把捉したのは、初手での自らの「推理」の微妙な誤りである。そう、外面的にはほんの少しの間違いであるが、決して見過ごすわけにはいかない重大な間違いだった。つまりここは世間一般の偉い偉い人間様のうちの「誰か」を「監禁」するための場所じゃない。初めからこの私を誘い込み、閉じ込めるためにのみ用意された、言わば「名探偵」専用の「封印領域」だったのだ。


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