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478 【あやめ】 愛を知る

遠い東のとある国に、お転婆な武家の娘がおりました。

彼女の名前は、高村あやめ。



「もうっ、あやめ様! いい加減にしてくださいませ!」

「お転婆が過ぎますよ!」


 侍女の咎める声が煩かった。

 私は、いつだってジッとしていることができない子供だった。

 いつものように外に飛び出して、木に登った。美味しそうな柿がなっていたから、それを取ろうと思って。私は必死で手を伸ばした。


「ん~……ん……あッ!!」


 体勢を崩して、地面に真っ逆さま。

 私は悲鳴を上げることもできず、ぎゅっと目を瞑った。すると……



 誰かが、私を受け止めてくれた。

 確かな腕の感触。父上かと思ったけれど、違う。

 それよりずっと細い。大人のものじゃなかった。


 恐る恐る目を開けた。



「大丈夫か!? 怪我は!?」



 やっぱり、子供だった。

 彼は、真っ黒な目で私を見つめた。

 艶やかな黒髪、きりりと凜々しい顔つき、優しい声。

 年は、私より少し上だろうか。


「あ、えと、だいじょ、ぶ……」


 私は彼から視線を逸らせなかった。

 何だか彼の存在全てが、輝いて見えて。

 彼は、私をそっと地面に下ろして、怪我がないことを確認すると、私の頭を優しく撫でた。



「よかった。次は気をつけるんだぞ」



 ほっとしたような、柔らかな表情。

 それを向けられた途端、私の脳内では――――……



 ゴーン……ゴーー……ン…………



 ああ、何と言ったらいいのだろう。

 例えるならそれは、寺の鐘が一斉に鳴り響いたような衝撃だった。

 実際には何も鳴っていないけれど。



「おーい義勝ー! 何してんだ~? 早く来いよー!」

「ああ、わかってる!」



 彼はぱたぱたと駆けていった。

 その後ろ姿を見つめながら、私はなかなかその場から動けずにいた。




「あの、方は…………」




 碓氷義勝様。




 私の、初恋だった。





 ――――――――

 ――――――――――――




「あやめ様、変わられましたねえ」

「ええ、あんなにお転婆だったのが、急に大人しくなって。奥方様も大層お喜びですよ」



 裁縫も琴も三味線も踊りも読み書きも礼儀作法も、覚えられることは全部覚えた。

 本当は苦手なことばかりだったけれど、必死で努力した。

 あの人に見合う女性になりたかった。


 下の名前だけはわかっていたから、彼がどこの誰かはすぐにわかった。 

 名門碓氷家の跡取り。

 同じ武家で、父とも懇意にしている間柄と知って、希望が芽生えた。


 と言っても、それはほんの小さな希望。


 義勝様なら、きっと縁談の話なんて五万とあるだろう。

 誰もが彼との婚姻を望むに違いないと思った。

 その中に私が入れるとは思えない。

 今まで散々お転婆をしてきたし、私より家柄の良いしっかりした女性はいくらでもいる。




 でも、もしかしたら。

 頑張っていたら、もしかしたら。


 そうして稽古に励んで数年。

 その奇跡は本当に起きた。



「碓氷家の跡取りと、お前の縁談がまとまった」



 父からその話を聞かされた時、私は何度も何度も何度も頬を抓って夢じゃないことを確認したし、一人になった時にはぴょんぴょんその場に飛び跳ねて枕に顔を押しつけながら奇声を発した。


 一生分の運を使い果たした。


 本気でそう思ったし、こんなに良いことがあると、これから何か悪いことでも起きるんじゃないかと、少し心配になった。


 彼と夫婦になれるかもしれない。

 それは間違いなく、この家に生まれたおかげだ。

 そう思うと、自分の幸運と両親に心から感謝した。




 父上と一緒に、初めて彼と対面したのは、私が12、義勝様が14の時。

 彼は、以前見た時より更に男前が加速していた。




「碓氷義勝と申します」




(あああああああああああああああああ好きぃいいいいい!!!)




 声を聞いただけで鼻血が噴き出そうになった。




「お会いするのは、初めてですね」




(私はあの時助けていただいたおなごでございますぅううでもあの時のお転婆が私だとは何があったって思われたくない絶対に!!! きゃあああああああああああ好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好きいやああああああああ目の前にほほほほほ本人があああ目の前にぃいいい!!!)




 荒れ狂う、脳内。

 私は平静を装うのに必死だった。

 ここで粗相をしたら、私の本性を知られたら、最悪破談になるかもしれない。

 全神経を集中して、にやけそうになる頬を引き締め、叫びそうになる喉に力を込めた。



「あやめと、申します。ふつつか、者です、が、何卒、よろしく、お願い、いたします」



 その後、何を話したかは全然覚えていない。

 基本的に、私の父上と義勝様のお父上が和やかに話されていて、私のことも「素晴らしいお嬢様」とかいろいろ褒めてくれて、でも私は義勝様をこれ以上直視すると死んでしまいそうだったからずっと心を無にしてお父上の方ばかり見ていて……


 無事終わった後は、ぐったり疲れてしまった。

 粗相はしなかったはずだし、父上もご機嫌だったから大丈夫だろうと思っていたけれど、時が経てば経つ程、不安になった。

 「やっぱり破談」と言われたらどうしようと、生きた心地がしなかった。

 私の態度は本当に大丈夫だったのか? とか、そう言えば義勝様とはほとんど会話をしていないし、とか、心変わりされたら、とか、考え出すとキリがない。



 不安は尽きなかった。でも、楽しくもあった。

 稽古に一層励みながら、義勝様との楽しい日々を妄想しては、脳内できゃあきゃあ悲鳴を上げていた。


 思えば、あの頃の私は、恋に恋をしていたのだと思う。


 彼の人となりなんてほとんど知らない。

 数える程度しか会っていないし、会話らしい会話も、ほとんどしていない。

 なのに夢中になって、一人で舞い上がっていた。


 私は、恋も知らない未熟な娘だった。

 それが一目惚れをして、その相手が許嫁になった。

 こんな運命的なことがあるだろうか?

 いつか結婚し、子を産み、夫を支えることは、私の人生の大きな目標だった。

 顔も知らない相手に嫁ぐことも、普通にあった時代。

 私はとても幸運だった。



 ただ、義勝様がどう思っているかを考えると…………いつだって自信はなかった。



 あの人が、金の髪の麗しい人と、並んで歩いているのを見たことがある。

 偶然。本当に偶然のことだった。義勝様は私に気づかなかった。

 背の高い人だった。青い目に真っ白な肌、きりりとした顔立ちの男性。

 いつか耳にしたことはあった。剣の腕に秀でた、鬼のように強い門下生がいると。



「ようし義勝、競争だ! 団子は早い物勝ちだからな!」

「おい待て! ずるいぞ! 刀士郎の分は取っておけよ!? おい!」



 とても仲が良い様子だった。

 義勝様は怒っているように見えて、楽しそうだった。あんな優しい顔、見たことがない。

 あの人があんな風に砕けた口調で話すのは、相手が男性だから?


 何だか、胸がざわついた。

 二人の間に、何か並々ならぬものがあるように感じた。



 その予感は、男性と勘違いしていた金髪のその人が、実は女性だったことを知って、加速した。



 心の中に、どす黒い何かが広がっていった。

 私はますます稽古に励み、彼に相応しい女性になれるよう、必死で努力した。

 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせた。

 義勝様にとって、あの人は仲の良いご友人。恋愛感情なんて抱いているはずがない。

 あの人は孤児のようだし、粗暴だと言う噂だし、大丈夫。

 私はこんなに努力しているのだから。


 そう、何度も言い聞かせたけれど、不安はなかなか消えてくれなかった。


 いつ破談されるかと、怯えていた。




 数年後、無事祝言を挙げられることになって、どれだけほっとしたか、嬉しかったかわからない。

 全ては私の杞憂に過ぎなかった。

 涙が込み上げた。




 ――――――それから、いろんなことがあった。


 私は義勝様のことを、夫婦になってから、たくさん知っていった。


 意外に甘味が好きなこと。

 お酒を飲むと笑い上戸になること。

 頑固で、融通の利かないところがあること。

 寝癖がけっこう酷いこと。

 料理が苦手なこと。

 犬が好きで、猫はちょっと苦手なこと。

 でも懐かれるとつい可愛がってしまうこと。




 ほむらさんが、好きだったこと。




 すぐにわかった。

 義勝様は、私と夫婦になってから、ほむらさんのことを避けているようだった。

 道場の他の方とは、ずっと親しく交流しているのに。

 外で偶然ほむらさんを見かけた時も、声を掛けようとすらしない。

 ほむらさんの話題が上がった時には、不自然に話題を逸らそうとする。


 痛い程に伝わった。

 あの御方が、必死でほむらさんを忘れようとしていること。


 胸が痛んで、その度に、あの人への黒い感情が沸き起こった。




 義勝様は、私を大事にしてくれた。

 一人の女性として、妻として。



 私に優しく笑いかけてくれた。

 私にいろんな話をしてくれた。

 愛していると言葉にして、伝えてくれた。

 なかなか子供ができなくて落ち込んでいる時も、一緒に落ち込んで、話して、真剣に向き合ってくれた。ずっと傍にいてくれた。普通なら責められることなのに、彼は私を、あらゆる悪意から守ってくれた。他に女性も持たなかった。



 幸福な人生だった。

 義勝様に出会えて、夫婦となれて、私はこれ以上なく幸福だった。




 けれど、時代は変わっていった。

 あの御方は悪夢に魘されるようになった。

 道場の門下生が次々に捕まったり、殺されたりしている。酷いことが、国中で起きていた。

 私は何もできなかった。


 噂だけは、毎日のように聞いていた。

 特に親しいご友人だった天馬様が亡くなったことも……ほむらさんが、拷問を受けていたことも。

 全部知っていた。

 苦しい、先の見えない、悪夢のような日々だった。



 義勝様が死を覚悟して戦場へと旅立った時、本当は引き止めたかった。

 死なないでほしい、と。

 どんなに惨めでも、私と一緒に生きてほしい、と。


 でも、それはできなかった。

 私は、義勝様の妻。誇り高い武士の妻なのだから。



 それから、本当に辛い日々が始まった。

 いつ恐ろしい知らせが届くかと、毎日怯えていた。

 戦場にいるあの御方のことを想って、夜度一人で泣いていた。

 こんなことではいけないと自分を奮い立たせた数刻後には、強烈な不安に襲われた。



 そんな時だった。

 貴方が、私の元を訪れたのは。




『ほむらと申します』




 対面したのは、それが初めて。

 顔中に傷跡があって、目は片方しかなく、歩く姿も違和感があった。

 どれだけ酷い拷問を受けたのか、想像しただけで体が震えた。




『私は義勝殿を死なせたくありません』



 彼女は、きっぱりとそう言った。



『私はあなたの愛する人を、安らかな極楽浄土ではなく地獄に引きずり落とそうとしています。ですからどうか私を恨んで下さい』



 表情に、言葉の一つ一つに、彼女の覚悟が滲んでいた。



『私はこれから戦場に向かいます。もし義勝殿が生きていれば助け、死んでいればその骨を持って帰ります。義勝殿が嫌だと言ってもむりやり連れて帰ります』



 真っ直ぐな目をしていた。

 私は、彼女を非難した。

 あの人を邪魔しないでほしい、戦場で潔い死を迎えるなら、それも本望だろう、と。



 けれど、本当は、縋っていた。



 あの人にもう一度会いたい。

 あの人を殺させないでほしい。

 あの人を連れて帰ってほしい。




 ……身勝手なものだと思う。


 私は、ほむらさんに嫉妬していた。

 長い間、ずっと嫉妬していた。貴方のことが悔しかった。羨ましかった。


 良き妻となるための努力なんて何もしてなくて、粗暴も荒くて、孤児で……なのに、あの御方の心を捕らえて離さない。

 私にないものをたくさん持っている。

 私のやれないことを易々とやってしまう。

 真っ直ぐで、正直で、強くて、美しくて、そして……


 私の知らない義勝様を、たくさん知っている。


 私は家柄に恵まれて、運良くあの御方の妻となれた。

 けれどあの御方は、本当は……



 考えれば考える程、私は、貴方に醜く嫉妬していた。



 その貴方に、私は縋ってしまっている。

 義勝様に会わせてほしいと、心の底では望んでいる。


 自分の浅はかさを呪った。



 そして、ほむらさんは、本当に義勝様を連れて戻った。

 あの人はぼろぼろだった。ぼろぼろだったけれど……生きていた。人前だと言うのに、とうとう涙は堪えられなかった。




 平穏とはほど遠い、怒濤の日々が始まった。

 義勝様は新しい政府の元で働くことになった。

 命の危険に何度も晒された。

 その度にほむらさんが剣を振るった。



 やがて、待望の我が子が生まれた。


 もう子供は諦めていたのに、まさか今になって持てるなんて。

 どんなに嬉しかったか。どんなに愛おしかったか。

 赤子の温もりを、何度も何度も確かめた。その度に涙が込み上げた。



 ……同時に、あの人のことを想った。


 もし、ほむらさんが義勝様を連れ戻さなければ、この子は生まれていなかった。

 私は生涯子を持つことはなかっただろう。

 こんな幸せを噛みしめることはできなかっただろう。


 なのに、当のほむらさんは家庭を持つことも、友人を作ることもせず、剣を振るい続けている。

 いつも真っ黒な着物を着て、祝いの場に呼ばれても辞退して、人目を嫌って。宴会の時はひっそりと警備に回り、一人でいることを選んでいた。


 私に、気を遣っているようにも思えたし、もうそういう風にしか、生きられないようにも見えた。

 昔のあの方は……遠目から見たことしかないけれど、あんなによく笑っていたのに。




 もし、時代が違ったら。

 もし、ほむらさんが良家の生まれだったら。

 もし、義勝様との結婚に何の障害もなかったら。


 二人は、きっと結ばれていた。

 私が選ばれることは絶対になかった。





 義勝様が倒れた時、病床で口にしたのは、ほむらさんの名前だった。


 嫉妬はなかった。

 もう、そういうものは私の中に残っていなかった。

 それより、義勝様の声が、酷く苦しそうなことが心配だった。甘やかな響きがあればまだよかったと思うほど。


 きっと、彼はまた恐ろしい悪夢を見ている。

 そう思うと、胸が酷く苦しくなった。




『どうか、最期の時はあなたが隣にいてあげてください。……あの方も、それを望んでいます』



 私はほむらさんを呼んで、頼み込んだ。



『私は、十分過ぎるほどたくさんの時と、幸せをもらいましたから』



 本心だった。

 私は幸福だった。

 義勝様のおかげで、息子や孫のおかげで……そして、ほむらさんのおかげで。


 義勝様は、私を愛して下さった。親の決めた婚姻だったのに。他に、心を寄せる人がいたのに。静かに、穏やかに。それは燃えるような恋ではなかったかもしれないけれど、優しくて深い愛だった。




 だから、最期は貴方の傍で。

 燃えるように恋をした、貴方の傍で、安らかな夢を見てほしい。




 涙を堪えて、そう願った。




 その後、義勝様は、眠るように亡くなっていた。

 穏やかな表情を見て、これでよかったのだと、私は心底ほっとした。



 どうか、今世の苦しみはここに置いていって。

 来世では、もっとたくさんの、優しい幸せが、貴方に訪れますように。



 ずっと、お慕い申し上げております。

 私の大好きな旦那様。



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