429 腑に落ちる
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カンカンカン、と鐘の音がする。
大勢の人が集まっていた。騒然として、あちこちから怒号が飛んでくる。
火と煙の臭い。火の粉が飛んでくる。熱い。苦しい。頭がクラクラして吐き気がする。
……俺、こんなに火が苦手だったっけ?
いや、火が得意とか訳わかんないけどさ。
火事を見るのは初めてじゃない。
子供の頃に見たことがあった。
火の不始末が原因とかで家が燃えてて、あの時は水を被って取り残された人を助けに入ったんだ。
俺は無事子供と母親をおんぶして脱出した。死んだ人はいなかった。
いっぱい感謝されてすごく誇らしかったのを覚えている。
先生には「無茶しちゃだめだよ」って言われたけど。
俺は人より頑丈で力持ちだ。
俺の力は、こういう時に発揮されるべきものなんじゃないかって思ったんだ。
なのに、今は……
恐怖で足が震えて、あんな火の中に飛び込むなんてとても考えられない。
怖い。
俺なら何かできるはずだって、何かやらなきゃって、夢中で走ってきたのに。
俺はぎゅっと拳を握り締めて、建物を舐め尽くすような炎から視線を逸らした。
「ほむら様!? ど、どうしてここに!?」
「あ……」
橙色の髪の人と目が合った。あの人、確か紫の王子様の従者……だっけ?
その人は、焦った様子で人混みを押しのけ、こっちに走ってくる。
橙色の人がいるってことは、じゃあ近くに紫の人もいるのかな?
俺は思わず踵を返して逃げようとした。
紫の人をぶん投げたこと、そう言えばまだちゃんと謝ってないし、気まずいし、ここにいることが知られたら何となく怒られそうな気がするし……
いや、でも、ここで逃げて良いのか?
俺、何のためにここに来たんだ?
何のため……何のためって……約束を果たすために…………約束…………あれ? 約束?
約束って、何だっけ?
ここに来る前に、部屋で誰かと話した。そう、だよな……? 話したん、だよな? あれ? 覚えてたはずだ。はっきり覚えてたはずなのに、今はどうも薄らいでいる。
声も朧気になって、言葉も霞んで、やっぱり何もかも夢だったんじゃないかって思えてくる。
俺は寝ぼけて、何か夢を見ていたんじゃないのか?
「でも……確かに…………」
誰かが、いたはずなんだ。
この胸の苦しみも、あの時零れた涙も、偽りなんかじゃないはずなのに。
俺、どうしちまったんだ?
ついさっきまでのことがどうして思い出せないんだ?
ああもう、訳わかんない……。やっぱり変だ。ふわふわする。まるで現実じゃない、夢の中にいるみたいだ。
「ほむら様!」
橙色の髪の人が呼んでる。俺は何だか怖くなって、逃げるように反対方向へ足を進めた。
よろよろ人混みをかき分けていると、見たことのある顔が目に映る。
刀士郎によく似た……そうだ、おじさん二号。
「わざわざこの屋敷に火を点けるなんて……一体何を考えているんだ」
誰かと話している。
おじさん二号も寝起きなのか、髪はボサボサで顔色も酷かった。
「何か企んでのことだろう。あいつがこんなに簡単にあの画を手放す訳がない。火を点けたのはあいつ以外の誰かかもしれない。あいつを誘き寄せるために、我々以外の誰かがそうした手段を取ったのかも……」
「しかし…………。いえ、もし仮にそうだとしたら、あの火の中に皇帝が……?」
「…………あり得る。あいつは……ヒューゴは、この場所そのものに酷く執着していた。画だけでも取り戻そうとするか、それとも…………」
“ひゅーご”
ハッとした。ピンと来た。
ほとんど忘れかけていたはずなのに、その名前を聞いた途端、ぽん、とおじさんの顔が浮かんだ。
ひゅーご。そうだ、ひゅーご・ふぁーとぅむだ。
それはおじさんの名前だ。
「あのあのあの! おじさん二号さん!」
「!? え……ど、どうして君がここに!? て言うかおじさん二号って……」
おじさん二号は俺を見てぎょっとしていた。
俺は構わず、必死で口を動かした。
「なあ、あの屋敷の中におじさんがいるのか!? いないのか!? 教えてくれ! これって一体どういう状況なんだ!?」
「そ、それは…………私たちにもまだ何もわからない。そんなことより、君はこんなところにいるべきじゃない。ここは危険だ。今すぐ屋敷に戻りなさい。何なら皇宮でも――――……」
「嫌だよ。あそこにおじさんがいるかもしれないんだろ? 帰れないよ! 俺、おじさんと話したいこといっぱいあるんだ。おじさんを死なせる訳にはいかないんだ。おじさんを――――」
その時、ゴオッと激しい唸り声を上げながら風が吹き荒れた。
窓が割れ、炎が溢れ出る。……俺は思わずへなへなと崩れ落ちた。ヤバい、怖い。何だあれ。生き物みたいだ。炎の化け物が屋敷を食べてるみたいだ。
「あんな、とこに……」
あんなとこに……いるのか? おじさん。
――――――――その時、俺の知らない光景が頭に浮かんだ。
焼け落ちた道場、燃え盛る宿屋……次々と場面が変わる。絶望が、俺の中に雪崩れ込んでくる。
知らない知らない知らない……なのに、どこかで見たような気がしてしまう。
心桜と過ごした屋敷が、火に飲み込まれて灰と化す。すごく大切な……誰かがいるはずの宿屋。大地が揺れて辺りはあっという間に火の海と化した。
「だめだ……だめ、だ…………!!!」
燃やさないでくれ。
俺の大切な人たちを、想い出を、燃やしてしまわないでくれ。
頭がカーッと熱くなる。目の前がどんどん赤くなる。
視界に、どこから運ばれたのか、たっぷり水の入ったバケツが映った。
俺は迷わず、それを引っ掴んでざばぁっと頭から水を被った。
「フレア!? ま、まさかあの中に飛び込む気か……!?」
おじさん二号の悲鳴が聞こえる。
え、あの屋敷の中に? 飛び込む? ムリムリムリ。そんなの怖すぎる。
水を被ったのは頭を冷やして落ち着いて考えるためで、俺にそんな大層なことはもうできない。昔は怖いもの知らずで飛び込めたけれど、今は無理。それに子供の時に見た火事よりずっと火の勢いが激しいし、あんな中に飛び込むなんて、とても…………
その時、また目の前が真っ赤に染まった。
『ごめん……心桜……! 約束、したのに……』
『乱蔵! 乱蔵! どこにいる!? 火事だ!! 早く逃げろ!!』
『イグニス邸が……燃えて……!?』
声が聞こえる。
…………俺の、声? 誰の声?
『私の、可愛い子』
いろんな声が聞こえて、光景が浮かんでは消えて……最後にははっきりと、女性の声が残った。
『約束よ? ……私のために、あいつを殺させないで』
俺に約束を押しつけた女性。名も知らない女性。……そうだ、それが約束だ。
さっき交わした約束じゃないか。薄らいでいた記憶が、またはっきりと像を結ぶ。
彼女はおじさんのことを助けてほしいって、そう言ってたんだ。そういうことなんだ。いや、きっとそうだ。
あの炎の中に、おじさんがいるんだ。
理解した途端、居ても立ってもいられなくなった。
助けに、行かなきゃ。
今頃苦しい思いをしている、おじさんを助けてあげなきゃ。
あの女性にはそれがわかってて、それで必死で俺に教えてくれたんだ。
だから、俺は今ここにいるんだ。
水を被ったから大丈夫。俺ならきっとやれる。
怖いけど、すっごくすっごく怖いけど……大丈夫。だって俺は鬼子だから。
俺は自分を鼓舞して駆け出そうとして、おじさん二号に手を引っ張られた。
「待て! 早まるな!」
「行かなきゃいけないんだ! 行かなきゃ……」
「落ち着いて考えなさい! あんな中に飛び込んだら無事では済まないぞ!? 大体、ヒューゴが中にいるかどうかはまだ……――――」
「頼まれたんだ! 頼まれたんだよ…………お母、さんに…………」
自然と、口をついて出た。
お母さん、て。
おじさん二号の目がみるみる丸くなる。
「イザベラ、が…………?」
いざべら。
わからない。そもそもなんで俺は、お母さん、なんて言ったんだろう。
だって俺の母親は、もうこの世にはいない。
俺のこと大嫌いだった。
挙げ句の果てには、殺そうとした。
俺は鬼子だったから。お母さんは俺を抱いて川に飛び込んだんだ。
…………ちょっとだけ、覚えてる。
そうだ、あの時、俺、初めてお母さんに抱き締めてもらったんだ。すごく嬉しかった。
お母さんの腕の中はあったかくて、優しくて、いつも俺を殴るお母さんじゃないみたいで…………。
あの時、お母さんは何か覚悟を決めたような顔をしていた。
その時は意味がわからなかったけど…………荒れ狂う川に飛び込むなんて、理由は一つしかない。
お母さんは、最初から死ぬつもりだったんだなって。
俺を産んでしまった罪の意識に耐えかねて。
ふと、おじさんの顔が浮かんだ。
『人の幸せを壊す人間は…………間違いなく狂っている。……そうだ、間違いなく』
そう言った時のおじさんの顔……
ああ、そうか。すとんと腑に落ちた。
俺はあの時のおじさんの顔が、ずっと忘れられなかった。
それはどうしてだろうって、何が気に掛かるんだろうって、ずっと不思議だった。だけど……
その理由がわかった。
あの時のお母さんと、同じ顔だったんだ。
死を覚悟した人の、悲しい顔。
「ごめん。行かなきゃ」
俺はおじさん二号の手を振り払った。
背後から、俺を引き止める声がたくさん聞こえる。――――でも、それを全部聞かなかったことにして……俺は、燃え盛る屋敷の中へ、飛び込んだ。




