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382 【ジーク】 許さない





「…………え?」



 見間違いかと思った。

 雨でも降ってきたかと思った。

 でも……違う。何度見ても間違いない。こんな近くに顔があるんだ、見間違いなんてある訳がないし、雨が降ってきて兄さんだけが濡れるなんてこともあり得ない。



 兄さんの目から、透明な滴が一滴、二滴…………零れていた。



 思考が澱む。

 何だろう、あれ…………










 ………………………………あ、ドライアイ?



「それともただ眠いだけか?」

「…………は?」

「まあ子どもはとっくに寝る時間だからな。ふッ、いくら大人ぶっても体は子どもということだ。今いくつか知らないが、まあ12、3と言ったところか? 所詮大人の時間には起きていられな――――」

「その子どもに胸倉を掴まれて動けずにいるのはどこのどいつだ!!」


 ガン、と頭突きが飛んでくる。


 …………が、その痛みで地面に倒れ藻掻き苦しんでいるのは、僕ではなく兄さんだった。



「ぐ……うう……このッ……石頭……!!」

「僕の頭が硬いんじゃない、お前の頭が軟弱なんだ」

「黙れ!!!」


 銃口が空に向かって火を噴いた。

 その音に思わず怯みそうになったが、落ち着け落ち着けと念じながら壁に沿って移動し、兄さんから十分に距離を取る。


 兄さんはイライラと立ち上がり、目元を拭った。



「このッ……気色悪いッ……どうして、僕が――――」



 何か混乱しているのか、ブツブツ言いながら強く顔を擦り、赤くなった目をこちらに向けた。



 ……ドライアイは辛いからな。

 僕も経験がある。涙が止まらなくなったこともあれば逆に涙が全く出ずに乾いたりゴロゴロと違和感があったり、本当に辛いものだった。


 まあ、お前がその症状に悩んでいるとて、僕は手助けする気なんてサラサラないのだが。



 兄さんの目からまた涙が伝う。

 兄さんは理解できないと、また荒っぽく目元を擦った。……そんなに強く擦らない方がいいと思うぞ、本当に。



「お前のせいで……お前のせいで僕は――――……お前さえいなければお前さえお前さえお前さえッ……――――――」



 兄さんは髪を掻きむしり、それから僕に向けて銃を向けた。

 今度は躊躇いなく撃った。


 窓ガラスが割れる。

 僕は壁に身を隠した。兄さんは癇癪でも起こしたのか、ひたすら銃を撃ち続けている。

 地面がガラスの破片で埋め尽くされた。ガラスの向こうに置かれていたらしい瓶も割れて、中に入っていた液体が血のようにじわじわと広がっていく。



 ……悲鳴が僅かに聞こえる。

 この建物の住人かもしれない。足音は近づいてこなかった。尋常じゃない銃声音に怯え、今頃裏口からでも逃げているのだろう。

 彼らには申し訳ないことをした。後で直すからどうか許してくれ。



 やがて銃声が止み、カチ、カチ、と手応えのない音と共に、兄さんの荒い息づかいが聞こえた。

 僕は壁からそっと様子を窺った。



「気に入らない……お前は……お前はいつも……いつも誰かに守ってもらって……父さんにも、母さんにも愛されて――――――」

「愛? あれが愛されていたって言えるか?」



 僕が壁から姿を現すと、兄さんはぎろりと凶暴な目をこちらに向けた。



「当然だろう!! お前は愛されていた!! 両親から名前をもらって大事にされて綺麗な服も美味しいものも食べさせてもらって…………なのに僕は、お前のペットのような扱いを受けて…………!!!」

「ハッ、だから僕を恨むのか? そうしたのはあの人たちだろ? 僕じゃない」

「違う、お前がそうさせたんだ!!」

「僕はあんなこと望んじゃいない!! 何度もあの人たちに掛け合った。あんたを……あんたに名前を与えてほしい、枷なんてつけないでほしい、何度も何度もそう頼んだ!!」

「嘘だ!!」

「嘘じゃない!! 僕は――――――」

「僕のこと見下してたんだろう!? いい気味だって思ってたんだろう!! だからお前に与えられたのは当然の罰なんだ!! お前は身の丈に合わない力を手に入れて好き勝手酷いことばかりして僕を見下していた。だからッ――――」

「当然……。あれが、当然、か」



 僕が静かに息を漏らすと、兄さんの目に僅かに動揺が走った。



「肉を削がれ、目の前で食われた。あれが当然の罰か」

「そ、れは…………」

「何度も何度も。……死にたいのに死ねなかった。あの頃の僕にとっては、死が何よりの救済だった。あの暗い檻の中で、僕はずっと死を願っていた。それが僕に与えられた当然の罰? あれだけの痛みと苦しみと絶望を与えられねばならない程に、僕は罪深い子どもだったのか?」



 兄さんの目が揺らぐ。

 僕の言葉なんかに、決して揺らぐことはないだろうと思っていた、兄さんの目が。



「…………兄さん」



 びく、と彼の体が震えた。



「あれが当然の罰だったとして、僕はそれをたっぷり味わった。報いは受けたはずだ。それでもまだ……兄さんは、僕を憎み続けるのか?」

「…………………………憎しみ、を」



 兄さんの目から、また涙が流れる。





「憎しみを、持ち続けなければ…………僕は、僕でいられない……」





 信じられないことを、口にした。



「お前が悪い。全部全部お前が悪い。だから僕は悪くない……そうでなければ…………そう、思わなければ…………僕は、壊れてしまう…………」

「………………」

「知っていた。お前が、千年も孤独に耐えなければならないことを……。ルークが、死ぬ直前、僕に残した手紙に、全てが書かれてあった。だから、僕は…………お前を、救いたかった。できれば千年も経ってしまう前に。でもそれは叶わなかった。お前の手で、僕を殺してほしいとも思った。それも叶わなかった。お前は…………優しい子だったから。僕は……ずっと、それを知っていた」

「今更…………」

「そうだ、今更、何も変わらない。変わりはしない。僕らは殺し合うしかないんだ。憎み合うしかないんだ。僕のせいでお前はあんな目に遭って、ルークは死に追い詰められた。だからお前も……お前ももっと僕を憎めばいい。ああ、もしかして丸腰か? なら銃をやろう。これで撃ち合って死ななかった方が勝ちだ。簡単だろう? 好きなだけやればいい。ははッ、僕の方が小さいから有利かもしれないけど」



 泣きながら、声を震わせて話し続ける兄さんは…………何だか、とても哀れに思えた。


 この人は、僕よりもずっと過去に囚われているのか?

 過去の想いに囚われて苦しめられて……がんじがらめになって、動けずにいる。






『――――――僕の弟に触るな!!!』



 自分が奴隷として売られる時に、僕の心配をした。

 僕のために人を殺した。

 血だらけになって震えていた。

 なのに、両親から顧みられることは一度もなかった。



 あの時、兄さんの心は一度壊れてしまったのかもしれない。

 今目の前で震えているこの人と、あの頃のもっと幼い姿の兄さんが、重なった。





「…………僕は、撃たない」

「………………は?」

「撃たない。無駄な争いはやらない」

「何を…………甘っちょろい。だからお前は――――――」

「兄さんを撃ちたくない」


 息を飲む気配がした。


「バカじゃ……ないのか。なんで……」

「撃たないものは撃たない。そう決めた。やりたければ勝手にやればいい」

「…………何、で。許すって……言うのか? 僕を…………」

「許さない」



 そんなのできる訳がない。

 今更簡単にわかり合えるとは思わない。

 時間が経ちすぎた。何もかもなかったことにできる程、僕は寛大でもない。

 僕は、多分死ぬまで兄さんを許せないだろう。



「でも…………終わりにする。無駄な諍いはもう終わりだ」

「終わり…………」

「許したくはないし、許すこともできない。それは兄さんも同じだろ? そうしなければ生きていけないんだろう? それなら僕らは憎み合ったまま協力すればいい。殺し合わなければいい。無理に許す必要はない。僕らは互いを許さないまま、争わず、わかり合えないまま、死ねばいいと思う」




 そしてその憎しみは、今世で終わりにしよう。




 長い沈黙だった。

 いや、それは体感で、実際はもっと短かったかもしれない。





「…………シオン」



 ぽつりと、兄さんが僕の名を呼んだ。

 顔を上げると、頬を涙で濡らした兄さんが、じっと僕を見つめていた。



「僕だ。……カルマだ」

「ああ、嫌いな方の兄さんか」

「…………。さっきまでの僕は」

「特別嫌いな方の兄さん」

「なるほど……」



 兄さんは「酷いことをしてしまった」と割れたガラスの破片に視線を落とした。

 それからようやく、そこに流れている液体の正体に気づいたらしい。



「これは…………」

「ワイン。さっき兄さんが撃ちまくって瓶が割れたんだよ。ここ、酒屋でね。中のボトルを手に入れて頭に叩きつけようと思ってた」

「…………物騒な」

「僕の力じゃ死にはしないよ、多分。それで頭から酒を浴びたら少しはまともになるかと思ってたんだけど」


 でも、それをやる気力も途中でなくなった。

 結果的に、兄さんは勝手に人格が入れ替わった訳だけど。


「……もしかして匂いで酔った? 実はずっとカルマ……兄さんの方だったの?」

「わ、わからない。いつから僕だったのか……」


 兄さんは濡れた頬をぐいっと拭いた。

 その荒っぽさはさっきまでの兄さんとよく似ている。


「ただ……ノアの心にも、何かが響いたのは確かだろう。きっと……」

「…………そう」

「シオン、僕は…………」



 兄さんは何か言おうとして、迷い、言い淀み、それからぽつりと……









「…………ありがとう」




 僕は面食らって、小さく首を横に振った。




 その時――――――……


 近くで、火の手が上がった。


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