私の理想の職場
「先の報告ではこの税率では少なすぎるという試算がなされていたはずですが?」
クララと対峙する男はぐっと奥歯を噛むように彼女を睨み返した。
「水利権は元来土地に住む者が持っているはずだ。税率を上げることは暴動を起こしかねない」
艶やかな赤茶の髪を綺麗に撫でつけた男はその整った容姿でクララを諭すように持論を続ける。しかしクララは渡された書面から顔を上げもしない。
「いくら王の直轄領で、租税の優遇が多いからといって生活の源である水の税率を上げるというのはやり過ぎではないか?」
「では周囲の領地の租税との差がどれほどかご存じですか?」
クララが書類から顔を上げもしないでいることをいいことに、男は半ば殺気さえ感じられるような目で彼女を真正面から睨んだ。
「領民の移動は制限されていませんが、税率の差が領民の移動に拍車をかけています。――オーギュスト殿は直轄領からの税収の差分をいったいどこへ回すおつもりなのですか」
顔を上げもしないクララに、男、オーギュストは黙りこむ。クララは長官補佐の立場上、いわゆる資金繰りを管理するオーギュストの仕事に意見できる立場ではない。彼に命令できるのは財務の長たる長官だけだ。
今、オーギュストは軍部の資金調達を任されている。極秘裏に進められている計画にかかる費用を彼が用立てなければ、計画の遂行はあり得ない。いくら正義だ面子だと言ったところで、金が無ければ飯は食えないのである。
しかしながらクララは極秘計画を知る地位にはない。
「そもそも直轄領において水利権は国有です。税率操作をあなた一人で出来るとお思いですか?」
つまりクララの進言は嫌がらせであった。
(なんとまぁ、お粗末な)
クララの言葉に言い返しも出来ずに財務長官室を出て行くオーギュストを見送って、彼の持ってきた報告書に目を通す。
元来彼は蛇のような周到さで資金を捻りだす男だ。普段のオーギュストであれば、無駄な予算を容赦なく切り裂き、余剰を少しずつ掻き集めるようにして資金を作りだすのである。しかしながら、今回の彼は税率を無理に操作するような形で資金を調達しようとしていた。
「長官。彼の動向について、何かお聞きおよびですか?」
オーギュストとの会話に一切入らず、執務机でのんびりとお茶を飲んでいた長官がのんびりとクララを見遣る。壮年に差し掛かろうかというおっとりとしたこの長官はまるで孫に呼びかけられたように「さぁ、どうだったかな」と小首を傾げた。
「でもまぁ、今のオーギュスト君では金策は難しいね。クララ君、きみやってみる?」
ザンバイン・フォル・トーチというこの長官のことをクララは決して侮ってはいない。彼はただでさえ秀才ひしめく財務省で実力で長官に昇りつめた男だ。
クララは一呼吸置いてザンバイン長官に答える。
「……やめておきます。これはオーギュスト殿の仕事です」
クララの返答にザンバインは「そうだね」と表情の読めない顔でにこにこと頷いた。
いつだって正解をくれない人なのである。
長官室をあとにして大部屋にある自分の机に戻ると、クララの机には報告書が山のように積まれている。これら全てに目を通し、金の動きを日々記録することが財務の基本的な仕事で、クララのもっとも基礎的な仕事であった。
クララの名前は何やら税率の改正だの汚職事件の摘発だのといった派手な仕事で目にすることが多いが、彼女の仕事は記録である。
報告書や明細にある数字を一つ一つ追い、記録していく過程で不正や不備が見つかるだけで、派手な仕事をしているのは常に他所で動き回っている他の文官たちであった。
財務省長官補佐という、それなりの高給でそれなりの地位であるクララであるが、その仕事は常に膨大である。
毎日の残業はほぼ当たり前で、同僚が恵んでくれるパンや菓子で業務をこなす日々に華やかなことはまったくない。
灰色といってもいいクララの日常に、恋で彩ってくれたくれたベネディクトはまさに彼女の癒しであった。
(ああ、また先日のスープの礼をしなくては)
スープの礼をしに行ったはずがまたスープをご馳走になってしまったのである。これは口実が出来たと勇むのは、仕方のないことであろう。
(今度こそ、彼が喜ぶものを)
ベネディクトのはにかんだ笑顔を思い浮かべながら膨大な仕事を終わらせるのは、クララにとって日常になりつつあった。
そんな風にしてクララが仕事を終えて帰ろうというある日。
久しぶりに定時で帰れることになった彼女を待ち受けていたのは、
「クララ・ノース・アルベルトだな?」
覆面の男たちであった。
抵抗するなと言われて言う通りにしていると、クララは後ろ手に拘束され頭巾を被せられる。
(なかなか手際のいい人攫いだ)
がしゃんと地面に落ちた眼鏡を拾ってくれるほど親切ではなかったが。
馬車の荷台に乗せられるままクララはどこかへ連れられて行く。
案の定、男たちは抵抗らしい抵抗もしないクララに危害を加える気はないようだ。
「……騒ぎもせず、冷静なものだな」
あまりに騒がないクララを不気味に思ったのか、人攫いの男が頭巾の向こうで皮肉った。クララは応えず寝た振りをする。クララが落ち着いていられるのは、このようなことが珍しくないからだ。
良くも悪くも目立っているのは分かっている。
(今日はキリの良いところまで書類を片付けた。明日は私がいなくても政務は滞りないだろう)
そう算段をつけて馬車に揺られていると、小一時間ほどで馬車は止まりクララは馬車を降ろされる。
頭巾を被せられたまま歩かされ、続いて何処かの一室に押し込められる。
背中の方で鍵の閉まる音がしてから、クララはようやく肩の力を抜く。
これでも緊張はしているのだ。
室内にそろりと足を踏み出すと、靴のかかとが静かに反響する。それほど広くはない部屋か。
ゆっくりと部屋の中を歩くと物の少ない部屋のようだった。カビや泥の匂いはない。階段は使わなかったから地下や上階ではない。
ひんやりとした室温をかんがみると使われていない倉庫かリネン室か。
そこまで考えたところでドアの外からノックが聞こえた。
「――クララ・ノース・アルベルト、そこにいるな」
くぐもった男の声だ。あちらも声を分かりにくくするために口をハンカチか何かで覆っているのかもしれない。
しかし、クララにはその声に聞き覚えがあった。
「予算の件であれば、すでに私の手にないぞ。――オーギュスト」
ドアの外で息を呑む気配がする。
どうやら悪い方の予感が当たったらしい。
「……お前には明日の夜までここに居てもらう」
口を覆っても無駄と知ったのか、オーギュストはドアの外ではっきりとした声で言う。
「今回の件でお前ははっきりいって邪魔だ。予算案は是が非でも押し通す」
「オーギュスト」
クララの呼びかけにも応えず、オーギュストはドアの前から去っていく。
彼の気配が消えてから、クララは重い溜息を漏らした。
(少し追いつめ過ぎたな)
オーギュストは明日の会議にクララが指摘したずさんな資金集めの件をかけて押し通すつもりなのだろう。
(恐らく、長官はこの件を反対しない)
あえてオーギュストを野放しにするために、クララに「やってみるか」と言って牽制したのだ。
だからクララにはもう彼の邪魔をする気はない。
(いずれどこかでこの件が漏れれば、オーギュストと長官が困るだけだからな)
クララは彼らの企みの危うさを少しだけ指摘しただけなのだ。
(しかし、これほど早急に金の要る案件などあったかな…)
クララに回される書類は王宮内外の多岐に及ぶが、特別に印象に残るような予算はなかったはずだ。
「それにしても…」
クララは狭い部屋の端で座り込みながら、大きく溜息をついた。
(夕食は出無いだろうなぁ…)
考えることはたくさんあったが、腹が減ったのである。
――とんとん。
クララが空腹を抱えて座り込んで何時間経ったか。
予算の数字を追い掛けていたクララの耳にドアを小さく叩く音が滑りこんできた。
(……オーギュストか)
重い身を起こしてドアのそばに寄ると、こちらの気配を察したのかドア外の人が再びとんとんとドアを叩いた。
「――起きている」と答えると、ドア外の人は大きく息をついたようだった。
「良かった。怪我はありませんか」
今度はクララの方が息を呑む番だった。
その声は、思いもよらぬ声だったのである。
「べ、ベネディクト、どの…?」
自分でも驚くほどか細い声に、ドア外のベネディクトは「少しお待ちください」とがちゃがちゃとドアを鳴らす。やがてドアノブが回る音がしたかと思えば、ふわりと優しい気配がクララの鼻腔をくすぐった。それだけで、どういうわけか涙が出そうになる。
「……さぁ、もう大丈夫ですよ。お嬢さん」
少しだけ低い声でクララは自分の首元に手がかけられたことに今更自分の姿を思い出した。
(頭巾を被ったままだった…!)
予算の計算に没頭していてすっかり自分の姿を失念していたが、頭巾を被ったままときめいていたなど滑稽が過ぎるというものだ。
急に恥ずかしくなって「あ、あの…!」と口をぱくぱくさせたが、ベネディクトはクララに被せられたままの頭巾をふわりと取り払ってしまう。
(そういえば今どんな顔をしているんだ。仕事で疲れた顔じゃないのか)
厚化粧ではないが身だしなみとして軽く化粧ぐらいはしているのだ。それがぼろぼろに崩れているのではないかと思うと、クララはこのまま身を隠してしまいたくなるほどの恥ずかしさに見舞われた。
だが、ベネディクトは思っていたより長い指でそっとクララの乱れた髪を梳く。
「あ、あの…髪…」
「怖い思いをされましたね」
優しくあやすような手付きにクララは卒倒しそうになっていた。
眼鏡がないからベネディクトの顔もぼんやりしているのがせめてもの救いだ。彼が今浮かべているであろう、憐れむような顔を見なくて済む。
「おーい、見つかったか?」
廊下から聞き覚えのある男の声がして、ベネディクトはさっとクララの髪を整えると「ここですよ」と応えた。
そして懐から何か取り出したかと思えば、クララの耳につるをかけてくれる。眼鏡だ。
「落とし物です」
そうようやくさっぱりと見えたベネディクトはいつもの穏やかな笑顔である。そのことにほっとしていると「おお、本当に居た」と金髪の男が驚いたように覗いてくる。
「……どうして、ここに? イクシオン殿、ベネディクト殿」
クララが見上げるとベネディクトは少し難しい顔をしたが、彼女をゆっくりと部屋から出してくれる。その腕が後ろ手に拘束されていることを見とめて少しだけ眉根を寄せ、縄を解いてくれた。
「巡回中にあなたの眼鏡を見つけたのです。それから不審な馬車が普通ではない速さで走っていくという話を聞き、追い掛けました」
「それから、この使われてない屋敷に入っていくのが見えてね。応援を呼んで踏み込んだわけだよ」
ベネディクトの少し不機嫌そうな声を引き継いだイクシオンが「それで、何があった?」と訊いてくるのでクララは考えをまとめようと口元に指をあてる。
この件は財務の問題だ。オーギュストの資金集め自体、正直いって法に抵触するかもしれない。
「――助けていただいたことには感謝いたしますが、この件は伏せていただけませんか」
クララの返答は予想の範疇だったのか、イクシオンは片眉を上げただけだったが、
「伏せる、とは?」
思いのほか低い声にクララの肩が思わず跳ねた。
顔を見るのが怖い。怖いが目を見て話さなければとクララはベネディクトを見上げたが、すぐ後悔した。彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべながら、底冷えのするような冷気を放っていたのである。
彼は、地味で間抜けな小娘の身に起こった珍事を心底心配して怒ってくれているのだ。こんな時でなければなんて優しい人だろうとうっとりするところだが、これはクララの領分での話だ。
「……この件で動いていただいた騎士の方々には申し訳ないと思いますが、これは私の仕事の一環です」
「頭巾を被せられ縛られて閉じ込められるのが?」
あまり常識的とは言い難い字面にクララも眩暈がしそうだが、オーギュストのことを口にすることは出来ない。
「――もしかして、この件の犯人を庇っているのですか?」
鋭い。
普段のふんわりとした雰囲気からは想像もできない鋭さだ。
ベネディクトの観察眼に舌を巻きながら、クララは難攻不落と評判のの鉄仮面をつけて対峙する。
「私は監禁されたのではありません。連れてこられただけです。少し身の自由を失って」
「……つまり、公に訴え出るつもりはないと」
まるで腕利きの外交官と接しているようだ。
またベネディクトの新たな面を知った。しかしここで浮き立つわけにはいかない。
「犯人探しは私の望むところではありません。ベネディクト殿のご厚意は感謝してもしきれないほどですが…」
「僕が欲しいのはそんなものではありませんよ、お嬢さん」
つ、と肩にかかる髪に長い指が触れる。
(……そういえば、この人は私がご自分の名前を知っていたことにも驚かない)
髪の細い房を長い指が遊ぶように絡むのを思わず視線で追い、クララは身の内に言いようもない激情が湧き上がるのを感じた。
「僕はあなたのようなお嬢さんが、このような目に遭うことが許せないのです」
かっとクララの頭に血が昇る。
(ああ、どうしよう)
ぐずぐずと熟れ過ぎた野菜のように真っ赤になってクララの仮面が容易く剥がれていく。
(ひどい、ひどいわ)
恥ずかしくてたまらない。
逃げ出したい。
ベネディクトという人はどうしてクララがどうにか繕っている弱い部分を突くようにして言葉を選ぶのだろう。
クララだって怖くなかったわけではないのだ。
見知らぬ男に攫われて、もしかしたら殺されるかもしれない恐怖に少しばかりの義務感と虚勢を被せていただけだ。
それをベネディクトはあっさりと破ってしまった。
クララの浅はかな小細工も虚勢も全て見破られているようだ。
――ぐぅ。
ひどい音が鳴った。
クララの羞恥を煽っていた長い指がするりと逃げていく。そしてくすりと溜息が聞こえてくる。
「とにかく、帰りましょうか」
優しい声に顔を上げるとベネディクトがいつものように穏やかな顔で微笑んだ。
どうやら応援は屋敷には踏み込まず、ベネディクトとイクシオンだけがクララを探しに来たようで、帰りはベネディクトの馬に乗せてもらい帰ることになった。
そしていつかのように屯所でベネディクトはスープを振舞ってくれた。
その甲斐甲斐しい様子はいつもと変わらず丁寧だったが、「これもどうぞ」と小さなカップケーキがその日は添えられた。
まるでご機嫌をとられているようだ。
クララが思わず微笑むと、ベネディクトは「召し上がってください」と微笑み、
「お疲れ様でした。お嬢さん」
やはりこの人を婿にしたいとクララは思いを新たにした。
投稿分の長い方です。