9. RMTの開発者
今日の昼前、アサヒナ・ベーカリーの狭い店内で接客をしていた音無拓は、店内の雰囲気が数分前とは明らかに変わったことに気がついた。店内にいた5人のお客がすべて入れ替わったところで、ざっくりとしたからし色のニットを着た左女牛和真が店の中に現れた。
自分だったら絶対にあんな色の服は買わない。絶対に似合わないからだ。自分だけじゃない。あの服を着こなせる人は自分の知っている限りではどこにもいない。目の前の左女牛和真を除いては。
和真は、バゲットとクロワッサン、レーズンパン、クルミパンを2つずつトレーに載せ、レジの前に立った。
「ゲームを作られているそうですね」音無は小さな声で言った。彼と会話をすれば、店内のお客が一斉に聞き耳を立てるだろう。接客のタイミングでは時間も限られる。RMTという言葉は出さないと決めていた。
「母から?」左女牛和真は目を合わせずに小さな声を出した。
「数週間前までゲーム会社にいました」音無は頷きながら答えた。
「ゲーム見てほしい」左女牛和真はさらりと言った。
音無は驚いて言葉が出ず、首だけで頷いた。
「あまり時間取れないけど5時に来て、こちらの頼みだから絶対に手ぶらで」耳元でそう囁かれて背中がぞくぞくした。
その日の17時に、音無は高い塀に囲まれた家の、巨大な木製の門の前に立っていた。
インターフォンのボタンを押すと、機械の女性の声が応答した。「門が開きましたら、右側の建物へお進みください」
門をくぐると、咲き誇る木蓮の花が空から降っていた。彼は、左ではなく右側の建物へ向かった。入口の引き戸に手を伸ばそうとすると、自動でドアが開いた。人の気配はない。それでも、音無は「お邪魔します」と声を出し、一礼をして中に入った。
広い玄関の奥は木の格子戸で遮られている。靴を脱ぎ、用意されていたスリッパを履いた。格子戸がまた自動で開き、廊下が現れた。廊下の奥にはまた別のドアが見える。そこもまた自動で開くのだろう。そう予想しながら廊下を進むと、奥のドアにたどり着く前に右側の壁が自動で開いた。導かれるように部屋に入ると、正面には下半分にガラスが嵌められた雪見障子。振り向けば、今通ってきたはずの場所は、決して開閉しそうには見えない薄い緑色の壁で塞がれている。この部屋はリビングという名の和室。左女牛和真の母親の住まいのリビングとまったく同じ空間。緑色の壁のザラザラとした表面を見ていると、壁の中に引き込まれそうになる。ハッとして壁から離れ、雪見障子を振り返った。
そこには、昼間と同じ格好の左女牛和真と、スウェットの上下の見たことのない女が立っていた。長身の和真の隣りにいるので低く見えるが、身長は170以上ある。年齢は20代前半で間違いないだろう。美人だが、和真のように突き抜けて美しいわけではない。周囲を和ませそうな愛くるしい笑みを浮かべていた。
「いらっしゃい」和真が表情も変えずに口を開いた。「こちら、妻です」
「ようこそ」彼女は優しい声をしていた。「どうぞおかけになってください」
音無はまともな挨拶もできないまま、ソファに座った。結婚していると知って動揺を隠せなかった。左女牛和真の浮世離れした雰囲気からも、パン屋の奥さんの「引きこもり」「妾の子」という言葉からも、「結婚」「妻」「家庭」という言葉はまったく浮かばなかったし、母親も息子が結婚していることには一切触れなかった。でも、こうして美男美女が目の前に並ぶと、結婚していることを想像さえしなかったが自分があまりにも愚かに思えた。
三人がソファに座るとすぐ、頭部が銀のトレーになっている高さ1メートルほどの自走式ロボットが、ティーセットとチョコレートケーキの載ったお皿を運んできた。ファミレスの猫型ロボットの小型版だが、デザインがずっと洗練されていた。
「初めて見ました」
「妻に頼まれて作った」左女牛和真は少しだけ嬉しそうに言った。その妻は微笑んで、ロボットが運んできた一式をローテーブルに並べている。
「アサヒナ・ベーカリーのパンが好きなんだ」和真は言葉を継いだが、主語が彼なのか、妻なのか、二人なのか、音無にはわからない。
「フォルムがすごく官能的だから」和真は音無の目を見て言った。
「ええ、本当に」妻は横を向いて和真の顔を見つめた。
「ゲームはできたけど売り方がわからない、どうすればいいかな?」和真は音無に訊いた。
「ゲームの売り方ですか?」
「反応が見たくて中国のサイトに上げた、無料なのにダウンロードが全然伸びない」
音無の頭の中がぐじゃぐじゃする。個人のゲームの売り方なんてわからないし、ここに来るよう言われた時にあまり時間が取れないと言われたことを思い出した。ここで切り出すしかない。
「RMTを開発したと聞きました」
和やかだった和真の表情が引き締まった。
「その話をしていただけませんか? ゲームを世の中に広める手がかりがあるかもしれません」
和真は黙っている。
「警戒しないでください、オレはもう業界の人間ではありません、身体を壊して辞めたので、仕事関係の人間とは接するなと、医者の友人にきつく言われています」少しだけ嘘を混ぜた。「確かに多くのゲーム会社が規約でRMTを禁じています、あくまで規約違反ですから訴えられることはありません、バレたらアカウントがBANされて、つぎ込んだお金は価値がなくなる、それがわかっているのに利用者が絶えない、RMTまるで永久磁石のように人を引き付ける、だから知りたいんです」
「もう一切関わっていない、いまRMTを運営している人間はすべて僕がやり方を教えた人間たちだよ、権利をすべて彼らに売って僕は足を洗った」
「そのお金でお隣りを購入して建物を建て替えたと聞きました」
「そう、三億で売れたんだよ」
「三億…」
「僕がRMTを作ったことを知っている人間が数人いる、おそらく彼らの誰かを経由したのだろう、何度かインタビューを申し込まれたことはある、…全部断った、…誰にも話したことはないんだ、話すのは苦手だから」
「失礼ですが、いま会話している限りでは、そうは感じません」
「それは意外だな、…誰にも言わないと約束してくれるなら話してもいい、少しだけなら」
「もちろん約束します」
「たぶんほとんどのことを感覚的にやっている、感覚的なことを質問され、その答えを言語化するというのはとても難くて辛い、僕自身が言語化できず断片でしか伝えられないことを、僕の話を聞いた誰かがそれを再構築して伝えようとすれば、それはきっと、もともと伝えたかったものとは別のものになるだろう、それならば初めから僕の中に留めておきたい、誤って伝わったことが自分に返ってくるのは嫌だ、…言いたいこと、わかってもらえるか?」
「はい、わかります」
「それが、誰にも話してほしくない理由、…君はRMTを作ったわけじゃないよね?」
「え…? 和真さんが作られたんですよ…」音無は、この時初めて和真の前でその名を口にした。
「もし君自身もRMTを作れたなら、僕の言うことをすべて理解できるだろう、…そうだとしたら、僕の話を聞くまでもない、…もともとゲームが大好きだった、始めると時間がたつのを忘れて集中して、夜になったことにとも気がつかない、学校に行くと今度は眠くてたまらず授業中に寝るしかない、家に帰ればまたゲーム、だんだん身体がしんどくなって、いつしかゲームをすることが面倒くさくなった」
「面倒くさい?」
「そう、アイテムは欲しいけど自分でやるのは面倒くさい、だったら自動でやればいいと思った、寝ている間にもゲームができるし、それでパソコンを何台か繋いで自動でゲームをやるシステムを作ってみた」
「それは中学生の頃ですか?」
「小学生、機械にゲームをやらせて、それを見るだけだととても楽なんだ、全然疲れないし」
「楽しいんですか?」
「楽しい」
「そうなんですね、ゲーム動画の配信見てると楽しいですけど、でもあれは他人がやっているゲームを見ている、でも機械がやるゲームを見ていたんですよね? ずっと先を行っていた、…プログラミングは誰かに教わったのですか?」
「教わる? 自然にできるでしょう」
「できませんよ、普通は! 最初から全部一人でやったんですか?」
「家にパソコンが何台かあった、つなげればできると思った」
「今まで、アイデアは思いついたけど、コードが書けなかった経験ありますか?」
「ないよ」即答だった。「思いつくことはすべて実現できる」
「神の領域という感じがします」
「僕ができるくらいだ、同じことができる人間はいくらでもいる、君がいた会社にもね」
「いませんよ、そんな人、あなたは特別です」
「そうなの?」
「はい」
「まあいい、…しばらくして、母親が株式投資で儲かったという話を聞いて、やり方を教わった、これは絶対に自動化した方がいい、そう思ってシステムを作った、僕は何でも自動化したい、根が面倒くさがり屋だよ」
「自動化へのこだわりですね? システムを作る方がよほど大変だと思います」
「そうかな?」
「はい」
「とにかく、ゲームの自動化で手に入れたアイテムが手元にあって、反対にお金を払ってでもアイテムを欲しがる人が確実にいる、だったら証券取引所みたいなシステムを作ればいい、そう思いついた」
「思いつけば必ず実現できる、それがRMTの始まりですね?」
「最初はいいものができたと本気で思っていた、ゲーム会社に嫌われるとは想像もしなかった、だんだんと楽しくないことが増えて、ノウハウを何人かに売って一切手を引くことに決めた」
「確かにゲーム業界はRMTを目の敵のように扱っています、ほとんどの会社が規約で禁止していますし、最近は犯罪につながる問題も増えています、実は知り合いが一人、RMT絡みの詐欺に遭っています、でも誤解しないでください、これは恨み言では決してありませんから」
「僕を恨んでもしかたない、僕が作らなくても必ず誰かがRMTを作っていた、世の中の発明品のほとんどはそういうもの」
「恨むなんてそんな…」
「いまは一日中ゲーム開発に没頭したい」
「そうですよね」
「でもゲームは作っている間は一円にもならない、生活費を稼ぐために株の自動売買を停めるわけにはいかない、僕は小心者で、トレードする局面を見ていないと心配になる、ログを見ると修正を加えたくなる、バックテストには時間もかかる、ゲームなら見ていなくてもいいけど、株はそういうわけにはいかない、昼間はそちらが優先で、ゲーム開発に没頭できるのは夕方から」
「楽はできないですね」
「楽をしたいわけじゃない、自動化がしたいだけ、…ああ、もうこんな時間」和真は妻の腕時計を見て言った。「ついしゃべり過ぎた、時間がなくなってしまった、とりあえずゲームをやってもらえるか?」
「ぜひ」
「中国のサイトからダウンロードするのは嫌?」
「できれば…」
「アドレス教えて、ファイル送っておく」
「わかりました」
「このゲーム、妻はすごく喜んでくれた」
和真はまた音無の目を見て、真剣な表情で言った、彼の妻が横を向き、和真に微笑んでいる。和真は音無から目を離し、妻の顔を見て、立ち上がるとリビングから引っ込んでしまった。
妻に見送られて音無は左女牛家を辞した。
空はまだ明るい。だが、通りは陰になり、来た時よりもずっと空気が冷たく感じられた。坂道を下っているとGmailに通知が来た。和真からゲームのファイルが送られていた。




