7. 妾の母親と自慢の息子
その前日、アサヒナ・ベーカリーは臨時休業だった。市内在住の古くからの友人が先週急逝し、朝比奈夫妻は葬儀に参列した。
特にすることのなかった音無は、10時過ぎに家を出て鎌倉を散歩した。毎朝手伝いに向かうルートを歩いて、一歩入った路地に目をやると、黒いコートの腰のベルトを垂らしたモデル体型の背の高い男が、アサヒナ・ベーカリーの前で腕組みをしていた。
どう見ても、この前店に現れた、今までの人生で出会った中で最も美しい顔の男だった。
店にはウェブサイトもインスタもない。葬儀が決まったのは、彼が最後に来た日より後だ。パンを買いに来て「臨時休業」の張り紙に戸惑うのも当然だった。
音無は小走りで彼に近づき、声をかけた。
「申し訳ありません」
彼がこちらを振り向いた。その顔だけで音無はドキッとして、走るのをやめて言った。「今日は臨時休業です、明日からは普通に営業します」
「そう…」彼は少し考えて言葉を継いだ。「明日は一日外出できない、近くだから届けてもらえない? 明日の閉店後でかまわないから」
音無は少し考えてから「はい、大丈夫です」と返事をした。
その時に、彼の住所と、「さめがい」が漢字では「左女牛」と表記することを教わった。
アサヒナ・ベーカリーはたいてい16時過ぎには商品が売り切れて閉店となるが、彼が来る日は一時間ほど前倒しになる。その日最後に焼いたパンが店頭に並ぶのは午後の13時半だが、彼が店に来る日はその前に一度店のパンが全部なくなるからだ。オーナー夫婦は朝の4時前から仕込みをしているというのに、自分は8時半頃に眠そうな顔で店に現れ、店の前を軽く掃除するとあとは接客をしていれば午後の15時か16時には解放される。パンを好きなだけ食べていいと言われている以上、給料までもらったらあまりにも申し訳ない。音無はすでにそんな気持ちで毎日を過ごしていた。
今日の夕方16時過ぎに、音無は教えられた住所に向かった。
その家は白い塗壁の高い塀で囲まれていた。塀の上には黒い瓦が積んであるが、手を伸ばしても瓦まではとても手が届かない。2.5メートルくらいはあるだろう。黒檀色の門扉はさらに背が高く、二本の門柱に横木を渡し、重厚な二枚の扉が内と外を遮っている。門を全開にしたら、黒塗りの高級車はもちろん、小型トラック程度なら楽に通れそうだ。敷地の中は塀の外からはうかがい知れない。「女を囲う」とはこういう家に住ませることなのかと、言葉の意味を実感させる外観だった。それでも、白と黄色と緑の間の色のような花を密集させた、恐ろしく背の高い木が敷地の中から空に伸びているのだけは見えた。
右の門柱に横書きで「左女牛/SAMEGAI」と書かれた表札がある。半信半疑だったが、本当にこんな苗字が存在した。表札の下にはインターフォンがあり、音無はボタンを押した。
「はい」女性の声が応答する。あの人の母親だろう。
「アサヒナ・ベーカリーから参りました」
「左側の建物にいらしていただける?」
その言葉が終わると同時にインターフォンの通話が切れるような音がした。それを合図に重厚な扉がゆっくりと自動で内側に開いた。石畳の道がまっすぐ延び、やがて左右に分かれ、どちらにもレンガ造りの二階建ての建物があった。二つの建物はどちらも一階部分にシャッターの閉じたガレージがあり、似たような外観ではあったが、左側の建物の方がクラシカルで右側の方が軽快な雰囲気がある。その左右に分かれる石畳の上に立ったまま、音無は敷地の中央に広がる庭を見ていた。庭というよりも森の一部をそのまま持ってきたかのように木々が並び、塀の外からも見えた花を密集させた背の高い木が悠然と伸びて彼を見下ろしていた。
「お気に召して?」
声の方を見ると、建物のドアの前に女性が立っている。やや茶色がかった艶のある髪の毛、緑色のモックネックのニットの上に鮮やかなオレンジ色のガウンのような丈の長い服を着て、幅の広いジーンズを履いている。彼の母親ならきっと自分の母親と年齢はそうは変わらない、50代か60代か。40に見えないこともない。大物政治家に囲われていて、あんな綺麗な顔の息子の母親だ、綺麗な人だろうとは想像できたが、人間としての格が、今まで目にしたどの女性よりも明らかに上だと感じられた。
「はい」音無はぼうっとして返事をすることさえ忘れていた。
「木蓮よ、あそこまで背の高い木蓮はとても珍しいわ」
「木蓮…」
「どうぞ、こちらへ」彼女は微笑んで軽く頭を下げた。音無は恐縮し、パンの入った袋を提げたまま駆け寄らざるを得なかった。
廊下を通り、下半分にガラスが嵌められた障子の引き戸を開くと、そこはフローリングの床に黒い革張りのソファの向かい合わせに配置された、リビングという名の和室だった。障子のすぐ脇には、繭のような形をしたほぼ人の背の高さの間接照明が白く光り、無垢の天井とフローリングが薄い緑の壁面を上下から挟みこんで、先ほど眺めていた庭の森を思い出させる。ソファの間の白みがかった木製の低いテーブルにはエスプレッソマシーンと二人分のデミタス、さらに焼き菓子のカップが置かれていた。
「お支払いがまだと伺っております」
「お金は受け取れません、ご愛顧いただいておりますのでお礼です」
「デリバリーするとは言えなかったでしょう?」
「え…」
「彼が店に来ればお店を早く閉められる、デリバリーはメリットがないわ、それに気づいたあなたは自分のために取り置きしたものを持ってきた、つまりこれは商品じゃないってこと」
すべて図星だった。が、一つだけ腑に落ちない。「彼」というのは昨日会った「彼」のことで間違いないが、その「彼」が彼女の息子ではなく「彼」なのか?
「申し訳ありません」音無は謝るしかなかった。
「経緯なんてどうでもいいの、美味しいパンがいただければ十分ですわ、気を遣わせてしまったわね、せめてお寛ぎなさって、若い方にご遠慮されると、立つ瀬がありませんから」
彼女は落ち着いた笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます」音無は従うしかない。
「コーヒーはお好き?」
「大好きです」
「正直な方」
彼女はエスプレッソマシーンのスイッチを入れ、無言でお皿に焼き菓子を取り分けた。音無は彼女の手元をじっと眺めていた。手は年齢を表すというが、若々しく美しい手をしている。その手でデミタスにエスプレッソを注いでくれた。
「どうぞ」彼女はデミタスと、焼き菓子をのせた皿を音無の前に置いた。
「ありがとうございます」
「ミルクとお砂糖お使いになる?」
「大丈夫です」
「お名前は何と仰るの?」
「音無拓といいます」
「拓さん、いいお名前ね、それで、パン屋のご夫婦は私のことどう言ってるのかしら? 聞かせてくださらない? 噂というものが、どう尾ひれや背びれがついて伝搬するものなのかとても興味があるの」
彼女は「わたくし」と発音した。
「どうぞ、包み隠さず教えてくださいな、誰の妾の家ですって?」
「国会議員のお妾さんだという話でした」
「あら素敵、それならそのままでいいわ」
「違うんですか?」
「噂を訂正しないと約束してくれるならさわりだけ」
「約束します」
「絶対よ、その人は政治家ではないの、政治家を利用する側の人間よ、この家はその人が建ててくれた、生活もみていただいたわ、それも昔の話、関係が続いていた時間よりその後の方が今では長いの、で、息子の和真のことは何て?」
「息子さん、和真さんってお名前ですか?」
「彼」が「彼」ではなく「息子」だったことで音無はほっとした。
「あの人の名前を一文字もらったの、どうぞ、お続けになって」
「ずっと引きこもりで、妾の母親の脛をかじって生きている、とお聞きしました、…でもいらっしゃるとあっという間にパンが売り切れるの、店が早く閉められると喜んでいました」
「あははははは」母親が手をたたいてケタケタ笑い出した。「ほら、申し上げた通りでしょう、現金な人たち、母親の脛かじりって、私の脛はそんなに太くありませんわよ」彼女は笑いながら言葉を継いだ。
「和真は父親の血を引いてビジネスの才能があるのでしょうね、私はあの人に言われて株式投資をかなり昔に始めたの、家にお友達がいらした時、株の話で盛り上がったことがあったのよ、中学生だった和真がたまたまその話を耳にして、パソコンで作ってくれたのよ、株式投資のプログラムを」
「中学生が作ったんですか?」
「そうよ、私、これでもかなり投資のセンスがあると思っていたのよ、でも彼のプログラムはモノが違う、銘柄選びもタイミングも洗練されているの、私も暇ですから彼のプログラムに勝とうと頑張っておりますけど、お話になりません、いいわよ、脛かじりだと思わせておけば、彼も気にしないでしょう」
「ずっと株式投資で生活されてるってことですか?」
「私の方はいつやめてもいいのよ、売ったり買ったりしなくたって配当だけで十分暮らしていけるの、でも彼は違うのよ、ちゃんとやりたいことがあるみたい」
「何ですか?」
「ゲームを作り、拓さんはゲームをされる方?」
「もともとはゲーム会社の社員でした」
「あら、そうでしたか、ならご存じかしら、RMTって?」
「まさかリアルマネートレードですか?」
「よくご存じね、あれ、発明したのは和真なの」
「え!!!!」
「そんなに驚かれること?」
「だってまさかRMTを作ったのが日本人だったなんて…、ちょっと待ってください、RMTって20年以上、いやもっと前からありませんか?」
「そうでしょうね、彼が中学生の時でしたから」
「日本の中学生がRMTを作った?」
音無はスマホを検索した。
「検索しても出てきませんわ」
「どうやって作ったんでしょう?」
「さあ、…私が聞いても理解できないでしょうね、彼は小学生の頃からゲームとパソコンが大好きでしたの、あの人が買い与えてくれたパソコンでずっと遊んでいたわ、学校なんてサボってばかり」
「心配じゃなかったですか?」
「勉強はできましたの、学校の授業は物足りなかったのでしょうね、パソコンを独学する方が楽しかったのでしょう」
「すごいですね」
「すごいのかしら、どうでしょう? 子供は頭の柔らかいでしょうから、学校に行かずに一日中パソコンをいじっていたら、ああなりませんか? もともと他人と話をするのが好きではなく教わることが苦手な子でした、自分の興味があることのほかはこだわりもなくて、冬の間毎日同じ格好をして過ごしたこともありましたわ、『さめがい』って名字、初めての方はまず読めないでしょう? どうせ読めないなら漢字なんてどうでもいいなんて言って、反対の漢字を使って苗字をよく書いていましたわ」
「反対の漢字って何ですか?」
「『さめがい』って、『左』に『女』に『牛』って書きますでしょう? 『左』の反対は『右』、『女』の反対は『男』、『牛』という字だけは、気に入っていたのか反対を思いつかなかったのかそのままにして、『左・女・牛』ではなく、『右・男・牛』と綴っていました」
母親は嬉しそうに話すが、音無には何が面白いのかさっぱりわからない。それでも初めてフルネームを知った左女牛和真の顔と、彼の言葉を思い出した。―「左女牛」は「left、woman、Taurus」、略してLWT―
音無は頭の中で考える。「さめがい」が「右・男・牛」なら、「right、man、Taurus」、略したら…RMT! まさか、RMTってもともとは自分の苗字だったのか? その略語に当てはまるように、リアルマネートレードなどというそれっぽい英語を持ってきただけ? このネーミングがしっくりこないのはこういう理由か? 音無は知りたくてたまらなくなる。
「RMTという言葉は、もともとは『right、man、Taurus』の略だったんですか?」
「何ですか、それ?」
「ああ、いえ、…あの、和真さんとお話させていただくことはできませんか?」
「今日は無理でしょう。没頭していますから、もう一つ建物があったのに気づかれました?」
「ええ」
「和真はあちらに住んでおります、もともとはお隣りの敷地でしたが、その方の足腰が悪くなりましてね、この辺りは坂道がたいへんですから、私どもが買い取って、お引越しをお勧めいたしました、とても喜んでくださいましてね、それまでのお住まいは取り壊して、敷地を一つにして、新しい建物を建てた、和真が稼いだお金で建てた家です」
「RMTで稼いだお金ですか?」
「本人に訊いてみたらいかがでしょう? 和真は自称コミュニケーション障害ですけど、ゲーム好きのあなたになら心を開くかもしれませんわ」




