5. アサヒナ・ベーカリー
新卒で入社した会社を辞めることは、人生の中でも大きな決断の一つのはずだが、音無拓は僕の助言に従って、あっさりと辞表を提出した。
叔父夫婦の家は一通り何でも揃っている。身一つで行っても困ることは何もない。それでも、引っ越すとなれば、着替えや身の回りの物など必要なものがあるだろう。一緒に車で行こうと音無にさらっと提案したが拒否された。
「鎌倉にはまったく縁がないし、横須賀線でどの程度かかるか知っておきたい」それが彼の言い訳だった。相変わらず嘘が下手だ。無職の彼が僕のBMWを見たらいい気持ちはしない。そんなことは誰でもわかる。
荷物をどうするかを訊いてみたところ、「大きなバッグ一つに詰めるから大丈夫」と言われた。意外とたくましい。
「引っ越しのあいさつの時、手土産は何がいい?」音無に訊かれたが、一切不要だと返した。何をしたところで新参者は簡単には歓迎されない。僕にはどうにかできたが、彼には絶対に無理だ。できないことをやろうとしてもしかたがない。
音無には10時に来るよう伝えたが、3月の初めの日曜日、僕は朝の9時前に北鎌倉の家の庭にBMWを停めた。居候していた頃の北鎌倉の家は庭に植物が生い茂っていた。叔父が亡くなり、手入れを面倒に感じた叔母は、業者を呼んで庭にコンクリートを敷き詰めた。今は雑草の一本も生えない。
音無が到着し、一通り家の中を案内すると、僕は彼を外へ連れ出した。
「どこへ行くつもり?」彼が訊いた。
「世話になった家に軽く挨拶、一緒に行こうよ」
「やっぱり手土産あった方がよくないか?」
「拓君に恥をかかせることはしないよ」
横須賀線の線路沿いを大船方面に向かって6、7分歩いた。路地に入ると、白にピンクの縁取りをつけた、花というよりは上生菓子に見える乙女椿の花が、整然と咲き誇っていた。乙女椿の木の向こうには、土色の板を廻らせた木造の一軒家があった。手作りの木製の看板には「アサヒナ・ベーカリー」の文字が彫ってある。
僕は引き戸を引いた。定休日のため、パンの並ぶ棚が空っぽ。そのせいで多少は広く見えるが、普段はお客が五人も入れば店内は身動きが取れなくなる。音無は僕のあとに続いて中に入り、引き戸を閉めた。
奥から、60を超えた奥さんが出てきた。
「おはようございます」僕は頭を下げ、後ろにいた音無に自己紹介するよう促した。
「はじめまして、安井の友人の音無です、よろしくお願いいたします」
「明日からよろしくお願いします、どうぞ」彼女は音無に愛想もなく答えるとパンの入った袋を僕に差し出した。
「ああ、嬉しいなあ、おいくらですか?」
「結構ですよ」
「ではお言葉に甘えていただきます、ありがとうございます、今日のところは片づけがありますので失礼します、明日は朝7時に」僕は奥さんに言った。
「ええ」
先に店を出るよう音無を促した。
「失礼します」と言いながら、彼は引き戸を引いた。
外に出たところを見計らって、わざと彼に聞こえる声で、奥さんに言った。
「では、明日からこき使ってやってください」
店を出ると、彼が待ち構えていた。「今、なんて言った?」
「聞こえた通りだよ」僕は引き戸を閉めた。
「どういうことだよ?」
「この店の接客を手伝ってほしい」
「仕事しろってこと?」
「仕事じゃないよ、拓君のリハビリのための社会参加メニュー」
「聞いてない」
「いま聞いたよね?」
「おまえ、オレに働いたらダメだ、休めと言ったよな?」
「言ったよ、だからこれは仕事じゃないよ、給料ないからね」
「何だよ、それ? オレの意思はどこにあるんだよ?」
「いし? 僕が医師だけど?」
「違う、ドクターじゃなくてウィルの方の意思、インテンション」
「それはもう確認したはずだよ、拓君が住んでくれたら家のメンテになると言ったら同意してくれた、忘れたなんて言わせないよ、あのパン屋との関係は、拓君が今日から住む家にとっての大事なメンテナンス事項なんだよ」
「それ、後出しじゃん?」
「いまの拓君に疎外感を持たせるわけにはいかないよ、社会との接点が必要なんだ、薬のオーバードーズってわかる? 通称OD」
「死のうと思って大量に薬を飲むやつ?」
「その認識は少し違う、ODで実際に死ぬ人間はわずか1%だよ、死のうと思ってやるわけじゃない、薬には依存症になる成分が含まれている、世の中から疎外感を感じて苦しくなった時に、その苦しさを紛らわすためにもっと苦しいことをやろうとしてODをする、」
「知らなかった」
「結果、病院に搬送されるわけだけど、意外と知らない人が多いのは、自傷行為は健康保険の適用外、美容医療と同じで100%自費になる」
「それも知らなかった」
「高額な医療費を請求されると、『普通の人はこんなバカなお金の遣い方しないのに』とまた疎外感を感じる、ネガティブ・フィードバック・ループに入ってしまう、会社を辞めてしまった拓君は疎外感を感じやすい、だからこそ社会参加が必要なんだよ」
「『辞めてしまった』って、辞めろって言ったのは安井だろう?」
「最終的な決定はご自身でされたわけでしょう?」
「医者の口調というより詐欺師の口調だ」
「まあそういうことだから、約束は守ってよね、二つともね」




