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ちょっと大人な私達の日常  作者: にしやま そう
少年の旅
45/46

少年の旅(Ⅹ) 少年の瞳に映った平和






フライブルグを出た小さなローカル列車はカタンコトンと田園風景の中を進んだ。


僕はどうしても2ヶ月前のリベンジがしたくて、あえてあの日と同じ列車でカールスルーエを後にしたのだった。


やっぱりあの日と一緒で、夕子さんはボロボロと涙を流しながら両手をブンブンと振って僕の乗る列車が見えなくなるまで見送ってくれた。


2ヶ月前のあの日、結局僕はフライブルグからシュタウフェンに向かう乗り換えが出来なくて断念した。

だけど2ヶ月が過ぎて改めて挑戦してみると、それは何てことない乗り換えだった。

僕は見事にリベンジを果たしたのだけれども、少し残念だったのは今目に映る景色は夏の昼間の風景で、あの時見た真っ赤な夕日では無かった事だった。


たった2ヶ月なのに同じ時間でもこんなに日の入りが違うのだと僕は思った。




結局夕子さんのアパートで僕が目を覚ましたのはお昼近くの事だった。

確かに前日僕達ははしゃぎ過ぎて、夜も疲れているの随分遅くまでお酒を飲んでしまった。

そりゃあお昼近くまで寝てても仕方のない事だった。


でも夕子さんは予定していた所に行けないと残念がったので、僕は勇気を出してもう一泊してもいいかと夕子さんに聞いてみたのだ。


これは僕としてはかなり勇気のいる質問だった。

もし断られでもしたら凄くショックだっただろうし、何より次会いにくいと思ったからだ。

でも、夕子さんが凄く喜んでくれた。



なので昨日は昼過ぎまで夕子さんの部屋でゆっくりとした後で、僕達はアパートの近所を散歩した。

予期せぬ2泊目だったのと、前日豪勢に祝いすぎたので結局昨夜は有り合わせの食材で簡単に済ませた。

僕達は残っていた日本酒で乾杯したけれど、前日の反省もあってあまり深酒はしなかった。



その夜は深夜の泣き声はしなかった。

でも僕がうつらうつらと目を覚ましてゴソゴソ寝返りを打っていると、やっぱり


「起きてるの?」


という声がした後に


「手を繋いで・・」


とお願いされたので、前日の夢が実は現実だったのだと僕は確信した。


繋いだ夕子さんの手はやっぱり小さくて柔らかかった。

僕は思わずその手を思い切り引き寄せて夕子さんを抱きしめてしまおうかと思ってしまったのだけれども、やっぱりその日も夕子さんの口から出た「お姉ちゃんだから」 という言葉が頭の中でリフレインして僕はその衝動を我慢した。


何度も何度も口から出たその言葉は

「いつまでも僕とこういう関係でいたい。」

という夕子さんの願いの言葉のように思えた。



その代わりと言ったら何だけれども、今朝は早くから僕達はまた飛び回ってはしゃいだ。

本当に仲の良い姉弟のようだった。

繋いだ手は少しの嫌らしさもなく自然で、それはとても素敵な事に思えた。


僕が前回と同じ列車でシュタウフェンに戻ると伝えると、夕子さんは凄く残念そうにしてくれた。 本当はもっと行きたい場所もあったのだそうだ。


でもひとしきり残念がったその後で


「やり残しがあるって事は良い事よね!?

 だってほら、次会う口実になるじゃない!?」


なんてポジティブな事を言って笑っていた。

そして


「次は私がシュタウフェンに行くんだからね。

 その時は一緒にお城登ろうね!」


と、少し涙目で微笑んでくれた。

そして別れ際に夕子さんの部屋の電話番号を僕は教えてもらった。


結局7月の終わりにシュタウフェンを出たのに、日付はもう8月2日になっていた。




バートクロイッツィンゲンで乗り換えたバスは、僕を乗せてシュタウフェンへと向かっていた。



楽しくて、少し切ないカールスルーエの旅が終わろうとしていた。

僕はバスの窓から見える崩れかけたお城を眺めながら

今の僕でも夕子さんにしてあげれる事はあるのだろうか・・


と、考えていた。















『少年の旅(Ⅹ)』

 少年の瞳に映った平和











シュタウフェンに到着する頃になって空はようやく夕焼け色に変わり始めていた。


バス停を降りた僕は真っ先に学生寮に戻る事にした。

とにかく疲れていたし、大きな荷物も下ろしたかった。

それに何よりサマータイムで辺りはまだまだ明るいけれど、実はもう夕食時を少し回っていたのだ、きっと今の時間ならアルトバウの仲間達はいつものようにパーティの真っ最中だろう。

ひょっとしたら今晩は自炊しなくてもパーティのおこぼれを頂けるかも知れない。

なんて少し卑しい事を僕は想像していたのだ。


ところが僕が学生寮のドアを開けるとそこはモヌケの殻のようにシンと静まり返っていた。


僕は慌てて腕時計に目をやると、やっぱり時間は夜の9時あたりだった。

いつもならこの時間は賑やかに笑う学生達の声がそこら中から聞こえてくる時間なのに、本当に不気味なくらいに学生寮は静かで気味が悪かった。


僕は不思議に思いながらも自分の部屋のある3階の201号室へと向かったのだけれども、道中の階も静かだったし、僕の住む階も人が居なくなってしまったかのようだった。


201号室のドアノブを回すと鍵はかかっていなかったのに、部屋の中は真っ暗だった。

マウリッチオはどうやら留守のようだったけれど、彼にしては鍵も締めないで外出するなんて珍しく不用心だと僕は思った。


僕はどうせ皆、イダの店に行っているのだろうと思った。


今日もいい陽気だったし、たぶん今頃皆はイダの店のビアガーデンでビールでも飲んでいるのだろう。


2泊3日の旅は夕子さんの部屋に泊まったり、一緒に料理を作ったりと節約しながらの旅ではあったのだけれども、それでも普段よりはお金を使ってしまった。

願わくば今晩はあまりお金は使いたく無かったのだけれども、寮に誰もいないのなら仕方ない。 いまから自炊する元気も無かったので僕は15マルクの出費を覚悟した。


10マルクでイダの店の日替り夜定食と、5マルクでビールが1杯だ。

まあ、ビールの出費は余分なような気がするけれど、お水が出ないドイツなので何かしらの飲み物は注文しないといけない。

寝酒にビール1杯飲みたかったし、これはこれで仕方ないかと僕は思った。


僕はそう決断すると、201号室の電気は点けないまま重い荷物だけ部屋の中に放り込むんでドアを閉めて鍵をかけた。




寮を出た僕は石畳の道をイダの店のある駅に向かって歩いた。

よくよく注意して見ると、街の雰囲気も少しおかしい事に僕は気が付いた。


いつもならこの時間まだまだ外は明るいし、夕食後の散歩なんかをする人達の姿や走る車なんかも目につくはずなのに今日に限って誰の姿どころか、走る車さえ見えなかったのだ。


そう言えば、さっきのバスだって乗っていたのは僕一人だったような気がする。

いつもならもう少し多い人があのバスには乗っているはずなのに・・である。


僕は少し気味が悪くなってしまった。

何か悪い夢でも見ているような気がしてホッペタを思いっきりつねってみたら、とても痛かった。



石畳の道を進むと街路樹の並木道の先にイダの店の広い庭先が見えた。

辺りはようやく夕方の雰囲気で少しだけ薄暗くなり始めていたから、イダの店先のビアガーデンの吊り下げられたいくつもの電飾の明かりがよく見えた。


イダの店へと入る入口は開け放たれていて、そこからも明るい光が漏れていた。



僕は少し胸を撫で下ろした。

どうやらイダの店は通常営業しているようだ。


たぶんどっかの誰かが

「イダの店のビアガーデンで騒ごうぜ!」

とか言い出したのだろう。

だから寮がモヌケの殻だったのだと僕は思った。


でも、一歩、また一歩とイダの店が近づいてくると、やっぱりイダの店の雰囲気も異様だという事に気が付いた。


いつもならこの辺まで歩いてくると賑やかに歌って騒ぐ仲間達の声が聞こえてくるはずなのに、不思議な事に今日はどれだけ近づいてもイダの店は静かだった。


ビアガーデンの電飾も煌々と輝いているのに、そこには誰の姿も見えなかった。



僕は背筋が少しだけ寒くなってしまった。


寮に人がいない。

これは偶然かも知れない。

僕が居なかった3日間で誰かが何かを企画したのかもしれない。

実際語学学校の地下室をディスコとして開放する事だってよくある話しで、そんな日は皆が寮から出て学校で飲んで騒ぐのが普通だった。


街行く人を見ないのだって、たまたまその瞬間人が僕の周りに居なかっただけかもしれない。


だけど、イダの店だけは説明がつかない。

だってこの店はいつだってこの時間は例外無く賑やかなのだから。



僕は恐る恐る開け放たれた入り口から、やっぱりシンと鎮まりかえったイダの店の中を覗き込む事にした。


お店がオープンしているのだから、確実にイダと娘さんはそこに居るはずだ。

僕はそう思った。


もしこれでイダや娘さんまでが消えていたら・・

そう思うとますます身の毛がよだったのだけれども、僕は二人が店にいる事を祈りながらその扉から中を覗きこんだ。










そこには人が居た。








それも一人や二人では無かった。

イダの店を埋め尽くすように沢山の男達がいた。








沢山の男達が一言も喋らず、物音すら立てないまま一箇所に固まっていたのだ。

各々の手には思い思いの酒が握られていたが、誰もそれを口にする者は居なかった。


あまりにも一箇所に固まっているから、正確には何人いるか分からなかったけれど恐らく30人くらいいたのではないかと僕は思った。


この入口を覗くその瞬間までイダの店は静まり返っていて誰も居ないものだと思っていたから、目の前に飛び込んで来たその異様な光景に僕は思わず驚いて


「ひぃっ!」


と、情けない声を出してしまった。


その瞬間一斉に男達の目が僕をギロリと睨んだ。

僕はその目にまた驚いて一歩退いてしまった。



静まり返ったイダの店にテレビの音だけが響いていた。



とりあえず僕は恐る恐る店の中を進み、イダの娘さんの所まで行くと5マルク硬貨を渡してビールを一杯だけ貰うことにした。


イダの娘さんが瓶ビールの栓を開けて僕に手渡してくれる時、

僕は


「いったいこれはどうした事なんだい!?」


と、娘さんに尋ねた。

イダの娘さんは暗い顔で首を振っただけで僕には何も答えてくれなかった。




「日本人は黙ってろ!!」



突然そんな声がイダの店に響き渡った。

僕はもちろん驚いたけれど、少しだけカチンともきた。


なぜなら今しがたイダの娘さんに質問した僕の声は大声でもなんでも無かったじゃないか。

なんで頭ごなしに「日本人は黙ってろ」 なんて言われる筋合いがあるんだ?

おかしいのはそっちの方じゃないか?

こんなに大勢で一箇所に集まって黙って背中を丸めている。

気持ちが悪いったらないじゃないか。

僕はそう思ったのだ。



僕が少し不機嫌に振り返ると、声の主は「ムスターファ」というえらくガタイのいいトルコ人だった。

何度か一緒に飲んだり遊んだりした事のある陽気で元気なミッテルクラスの男だった。


一瞬だけ僕と目が合ったのだけれども、ムスターファは僕を無視するようにまた前を向いて背中を丸めていた。


どうやらこいつらが固まって無言で見つめていたのはテレビのようだった。


よく見ると、結構馴染みの姿もそこにはあった。


同じグルント1の問題児のハキムの姿もあったし

家を売ってまで借金してドイツに来たと言っていたアフリカの黒人もいた

よく卓球をして遊ぶ中東のヤツラの姿もチラホラみえた。


イダの店に集まって無言でテレビを見つめていた集団は、全体的に中東のヤツラの姿が多かったような気もするけれど、フランスにイギリス、イタリアといった語学学校のヨーロッパ組のヤツラの姿も結構あった。



確かにワールドカップのイタリア大会の時も皆が無言でテレビを食い入るように見ていたけれど、あの時はもっと賑やかだった。

息は飲んでいて皆が静かだったけれど、ワンプレイワンプレイが終る度にドっと歓声が湧き上がって皆ではしゃいでいた。


だけど今は誰も口すら開かないままだ。

それは本当に異様な光景だった。



そんな不思議そうな顔をしている僕を見つけたハキムが、座ったまま僕に手招きをして

「こっちに来い。」

と合図をした。


とにかく僕はこの異様な事態の原因が何なのか知りたくて食い入るようにテレビを睨みつけているハキムの所に近づく事にした。


「おいハキム? これは・・」


と、僕が言いかけた時に、ハキムは人差し指を口に当てて


「シッ」


と静かに言うと、しゃがんだ僕の肩に手を回してグっと力を入れた。

僕はふらりとよろめいて、抱き寄せてきたハキムと頬と頬でキスをしてしまった。

ハキムのあの青々とした頬のヒゲは、まるでタワシのようにチクチクとして痛かった。

僕が慌てて顔を離そうとすると、ハキムはまた腕に力をいれた。

そして僕の耳元に口を持ってくると、静かに僕にこう言ったのだった。















「リュウジ。

 戦争が始まるんだ・・」

















僕は思わず拍子抜けしてしまった。

もっと凄い事が起こっているのでは?

と、僕は思っていたからハキムのその言葉で全身の力が抜けてしまった。


戦争なら日本にいる時だって色んな国の内紛なんかがニュースで報道されていた。

あの気むずかしい親父だって、そのニュースを見た時は

「困ったもんだ。」

という顔をするのが関の山で、こんな息を飲んでテレビを見つめるなんて事は無かった。


確かに戦争は悲しくてダメな事だとは思うけれど、テレビでは連日どこかここかの国で起こった内紛やテロのニュースで溢れていたし、それは慢性化していてすでに代わり映えのしない日常の一場面のような気だってする。


そりゃあまあ、実際にその国に住む人にしてみたら大問題だと思うし、学校の授業やニュースなんかで見る凄惨は戦争の爪あとの映像には強く胸を刳られる思いはした。


だけどやっぱりそれは当事者には大問題かもしれないけれど、それ以外の国の僕からしてみたら、やっぱり日常的なニュースの一場面でしかないような気がした。


それにここに集まっているヤツラだって色んな国のヤツラばかりじゃないか。

ひょっとしたらこの中に戦争の当事者となってる国の人間も居るかもしれないけれど、皆が青い顔して息を飲むにはあまりにも色んな国のヤツラが集まりすぎていた。



外国人はよく大袈裟に感情表現をする。

大袈裟に笑ったり怒ったり泣いたりだ。


僕はきっとここに集まる皆もそうなのだろうと思った。


どこかの国で起きるであろう戦争。

それに心を痛めて大袈裟に皆で悲しんでいるのだろう。

と・・


そんな時、またムスターファの怒鳴り声が聞こえた。



「ハキム!

 そいつはゾルダートに行かなくてもいい日本人だ!

 説明しなくたっていい、追っ払え!」



という声だった。


僕はまたカチンときたのだけど、意外だったのは耳元から聞こえるハキムの



「そうなのか・・?」



という力のない声だった。


僕が慌ててハキムの方に振り返ると、ハキムの目は涙で潤んでいた。

そして



「そうか・・

 世界にはそんな幸せな国もあるんだな・・」



と僕に言った。

そのハキムの涙で潤んだ瞳は本当に透き通った純粋で綺麗な瞳だった。





僕はますます意味が分からなくなってしまった。

「ゾルダート」

っていったいなんだ?

そんな言葉授業で習ってないし、今までの生活では一度も耳にしたこと無いぞ。

それが無いからって僕はどうしてここを追い出されなくちゃダメなんだ?


皆友達だろ?

つい先日まで皆で肩組んで笑って泣いて授業して、一緒に酒のんで騒いで。

あんなに楽しそうにしていたのに、なんで僕は「ゾルダート」 が無いからってこんなにハブられるんだ?




そんな時、テレビのアナウンサーが何かを早口で告げた。




それと同時にイダの店が揺れた。




今まで黙りこくっていたヤツラが一斉に立ち上がると、大声を上げて泣き叫び出したのだった。

たった一人の例外。

僕を除いた全員が泣いていた。


僕は呆気に取られて、ポカンと口を開けてその光景を見ていた。

言葉は何も出なかった。

単純に驚いていたのだ。
















これが第三次世界大戦になるかも知れないと言われた

ゴルフクリーク、湾岸戦争の開幕だった。













僕よりも一回りも二回りも大きな男達が、抱き合って頬をすり寄せて泣いていた。

どの顔もすでに涙や鼻水でグシャグシャになっていたけれど、それでもそんな頬をすり寄せて男達は泣いていた。



アラビア人も、黒人も、ヨーロッパの白人だって人種を問わず抱き合って泣いていた。

抱き合って、すでにぬるくなっているだろうビールを口にするとまた抱き合って泣いた。


泣き声に混じってそこら中で叫ぶ声が聞こえた。


「俺はお前を忘れない!

 お前はイイ奴で最高の仲間だ!」


「俺もお前を忘れない!

だけど許してくれ!

 もし戦場でお前と会ったら俺はお前に向かって

引き金を引かなくちゃならない!

許してくれ!」


「俺もお前を殺したくなんてないんだ!」


「俺もだ!

 招集がかかれば戦場にいかなくちゃならない!

 嫌だ!

 死にたくない!」



そんな叫び声ばかりだった。



僕は大きな勘違いをしていた。

僕以外のここにいるヤツラ全員が当事者だったのだ。



ついさっきまで僕の隣に座っていたハキムも、今はよその国の奴と抱き合いながら泣き叫んでいた。



あれほど静かだったイダの店には、もう無数の男達の泣き声しか聞こえなかった。

イダの娘さんも、腰の曲がったイダだって涙を流しながら男達にビールを注いでいた。


僕はそんな光景を見ている事しか出来なかった。

それは僕のすぐ前、すぐ後ろ、すぐ横で起きている出来事で手を伸ばさなくたって触れる事が出来る程の距離なのに、僕と泣き叫ぶ仲間達との間には目には見えないもの凄く遠く離れた距離があるのだと感じた。


見知った友達が沢山いた。

一緒に遊んだ仲間が泣いている。


だけど僕は声すらかけることが出来なかった。

だって僕は当事者じゃないのだから・・

「ゾルダート」

その分からなかった言葉の意味は辞書を調べなくても目の前の光景を見たら分かった。

「兵隊」の事なのだ。


たぶんこの戦争が拡大すると、ここで泣いているヤツラ全員国に呼び戻されて兵士として戦場に出なくてはならない。


僕はそういう事なんだと理解した。

理解するとますます声をかけて慰めてあげる事も出来ないのが悔しかった。


兵隊に行く義務がない日本人の僕はこいつらと痛みを共有できないんだ。

そんな僕が慰めの言葉をかけちゃいけないんだ。


そう思うと僕の目からも涙が出ていた。

悔し涙だった。


カールスルーエでの夜、うたた寝をしながら頬を涙で濡らす夕子さんを僕は抱きしめてあげれなくて悔しかった。

でも、あの時は弟役として手を握る事は出来た。


だけど今、僕の目の前で起きている事の事態に僕が出来る事は皆無で、そう思うとやっぱり悔しくて涙が出た。









僕は項垂れながらイダの店から寮へと続く石畳の上を歩いていた。

辺りはいつの間にか夜になっていた。


少しづつ遠ざかって行くイダの店からは、まだ男達の泣き叫ぶ声が響いていた。



次第に寮が近づいてきて、道路から見える僕の201号室を見るとやはり明かりは消えていた。


寮にたどり着いて扉を開くと、さっきまで人っ子一人いないと思われるくらいに鎮まり返っていた学生寮からはそこら中で泣き声が聞こえていた。

もちろんイダの店同様男達の泣き声も聞こえたけれど、寮では甲高い女達の泣き声の方がより響いて目立っていた。



僕はヨロヨロと力なく階段を登ると3階の自分の部屋へとたどり着いた。

この階の他所の部屋からもいくつもの泣き声が聞こえていた。



鍵を開け部屋に入ると、僕は明かりを点けた。


驚いた事に無人だと思った部屋にはマウリッチオがいた。

ベッドに座って一人静かにウイスキーを飲んでいた。



「やあ、リュウジおかえり。

 楽しかったかい?」



マウリッチオは力なく笑うと僕にそう挨拶をした。

僕はここでもかける言葉を見失って立ち尽くしてしまった。


そんな僕を見たマウリッチオは、やはり力なく手にもったウイスキーのグラスを僕に向かって掲げると


「どうだいリュウジ。

 飲みたい気分なんだ、一緒にやらないかい?」


と微笑んだ。

僕も力なく頷いてマウリッチオが座るベッドに近づくと彼の手からグラスを受け取った。



「本当はグラッパみたいに強いお酒が飲みたいんだけどね

 あれはいい酒でこんな気分の時に飲む物じゃないんだ。

 こんなクソッタレなバーボンしか無いけれど勘弁してくれよ、リュウジ。」



そういってマウリッチオは僕のグラスにバーボンをストレートで注いでくれた。

マウリッチオはいつも知的で陽気で優男で、汚い言葉なんて使う男じゃなかったけれど、そんな彼の口から出た「クソッタレ」 という言葉はとても悲しく聞こえた。


僕はマウリッチオと少し距離を置いた反対側の壁にある自分のベッドに座って黙って彼の言葉を聞いていた。



「リュウジ。

 僕はね、新婚なんだ。

 大学時代から大好きだった娘でね、何度も断られたけどそれでもメゲずに

 アタックしたんだ。

 OKをもらった時は嬉しかったなあ。」


そう言ってマウリッチオはバーボンのグラスに口を付けた。


「プロポーズを受けてくれた時も嬉しかった。

 それがどうだい?

 結婚1年目でドイツ派遣だぜ?

 笑っちゃうだろ?」


僕は言葉に詰まってしまって何も言えないまま、マウリッチオと同じようにバーボンのグラスを傾けた。

焼けるような焦げ臭い風味が口の中に落ちてきて、少し痛かった。



「今回の戦争は少し大きくなりそうでね。

 第三次世界大戦になるんじゃないかって皆が騒いでいるんだ。

 アメリカが動けば多国籍軍として色んな国のヤツラが戦場に駆り出される。

 僕は職業軍人じゃないからすぐに戦場に出る事はないけれど、

 それでも国の義務である兵役へいえきは終わらせている。

 この戦争が拡大してもしイタリアが戦火に巻き込まれたら

 たぶん僕も戦場に出る事になるのだと思う。」



そう力なく言ってコクリとバーボンを一口飲むとマウリッチオは寂しそうに


「そうなったらもう奥さんに会えないのかなあ。

 大好きなんだけどなあ。」


と、小さく呟いた。


ミッテルのマウリッチオの話す言葉の中にはグルント1の僕では理解出来ないような単語が一杯混じっていたけれど、彼は身振り手振りを加えて僕でも理解出来るように説明してくれた。



「リュウジ。

 君たち日本人にとって「平和」って何だい?

 原爆を落とされた国の君の言葉が聞きたいよ。」



彼はまた力なく笑った。

僕は少しだけ考えて


「平和は願う物で、そうあって欲しいと祈る物だ。」


と素直に答えた。

僕のその言葉を聞いてマウリッチオは凄く驚いた顔をしていた。


「これは驚いた。

 それは凄く幸せな答えだ。

 君たち日本人にとっての平和は祈って願う物なんだね・・」


その言葉は皮肉でも何でもなくて、本当に感心したという顔をマウリッチオはしていた。



「僕達にとっての平和はね「守るもの」 なのさ。

 誰かが、じゃなくてその国に住む一人一人が守るものなのさ。

 リュウジ。

 君は兵役のない世にも珍しい国の人間だ。

 そんな君から見たら、成人男性が兵隊の訓練を受けなくては

いけない法律ってどうなんだんだい?

僕達にとっては当たり前の事なんだけど、君はどう思う?」



「凄く野蛮で間違った法律だと思う。

 まるで戦争の準備をしているみたいだ。」


と、僕は素直にそう答えた。

マウリッチオは「なるほど」 という顔をした後に少しだけ考えて今度は違う質問を僕にしてきた。


「リュウジ。 

 君の国にはほら、ジュードーとかカラテってあるだろ?」


僕がその言葉に頷くと


「君はそんなジュードーやカラテの達人に喧嘩を挑みたいかい?」


とマウリッチオは続けた。

僕は即答と言うよりも、言われてすぐに首を思い切り何度も横に振った。


「そうだろ?

 僕だってそうさ。

 わざわざ喧嘩の強いヤツに喧嘩を売るバカはいない。

 だから僕達も国の義務で喧嘩を勉強するのさ。

 喧嘩するためじゃないよ。

 そもそもの喧嘩が起きないようにさ。」


そう言ってまたバーボンを一口飲むとマウリッチオは力なく笑った。


「皆が喧嘩の達人になれば、喧嘩はなかなか起こらない。

 自分も強いけど、相手も強いからね。

 喧嘩をしたら自分だって大怪我さ。


 そうだリュウジ。

 君はスイスって国を知ってるよな?

 ここから50キロくらい先にある国さ。

 君はあの国をどう思うかい?」


今度はそんな事を聞いてきた。


僕は

「スイスは永世中立国で平和な国だ。」

と答えたかったけれど、肝心の「永世中立」という言葉が分からなくて思わず手元にある辞書で調べて、そのままそのページをマウリッチオに見せた。


マウリッチオはそれを見て笑っていた。


「リュウジ、知ってるかい?

 あの国にもちゃんと軍隊も兵役の制度もあるんだ。

 しかもわりと強いんだぜあの国。

 もちろんイタリアほどじゃないけどな。」


と、笑っている。


「永世中立って事は、裏返すと『味方も居ない』って事なんだ。

 いざどこかの国がスイスに攻めて来たら、誰も助けてくれないんだ。

 凄い話しだろ?

 あの国は一匹狼なのさ。

 だからあの国はいざ戦争となると、道路は滑走路になるし

 『(アルプスの少女)ハイディ』みたいなのどかなアルプスの納屋から

鉄砲や戦車が出て来るんだぜ。

腰の曲がったような「おんじい」ですらいざとなったら立派な兵隊さ。


イタリアには旨い料理が沢山ある。

まあ、ドイツにもフランスにもそれぞれ旨い郷土料理はあるよな?

だけど君はチーズフォンデュ以外にスイスの名物料理を聞いた事があるかい?」


そう言われれば、「スイス料理」というものの明確なイメージは湧きにくい。


「あれはその年取れた麦や主要な食料は1年間国庫に入るからなのさ。

 それなら敵国がせめて来ても1年は国が籠城出来るだろ?

 だからあの国はには旨い物がないのさ。

 なんたって古い麦しか国民の口に入らないんだからな。」


と、笑っていた。

僕はずっと平和のシンボルのような国だと思っていたスイスに、そんな軍事的な強い一面があるのかと知らされて驚きを隠せなかった。



「僕はね、リュウジ。

 君たち日本人に不公平だから戦場へ行け。

 兵役をやれ。

 って言いたい訳じゃないんだ。

 『兵役がない』てのは本当に素晴らしい事さ。

 でも、それが当たり前だと思わずに感謝する気持ちを持って欲しいのさ。

 戦争が起こる度に、日本以外の国ではこうやって皆が泣いている。

 リュウジ、耳を澄ませてごらん。

 女の子達の泣き声が聞こえるだろ?

 戦争に行かない彼女達だって泣いているのさ。

 愛する夫や彼氏が戦争に駆り出されて死んでしまうかも知れない。

 そう考えると泣かずには居られないんだ。

 君たち日本人が祈って願って手に入ると思っている平和の裏では

 こうやって世界中で泣いてる人達が沢山いるって事を

若い日本人の君にはちゃんと知ってて欲しいのさ。

そして今ある平和がこの僕達の涙と血の上に成り立ってる事を

知って欲しい。」



そう言ってマウリッチオは涙を流した。


廊下からはひっきりなしに電話のベルの音がした。

その音がする度に廊下を大急ぎで走る足音がして、けたたましく話す女の子達の声がした。

それはもちろんドイツ語じゃなくて、彼女達のそれぞれの国の言葉だったので僕には何を喋っているかは理解出来なかったけれど、その電話が何のためにかかってきたのかだけは痛い程よく分かった。


皆の家族が遠くドイツに住んでいる我が子を心配して電話してきているのだろう。


そんな中、僕の部屋がノックされて僕は名前を呼ばれた。

慌てて扉を開けると今度は僕への電話がかかってきたのだった。


マウリッチオは

「いっといで、リュウジ。」

と微笑んでくれた。










僕が慌てて受話器を取ると、そこから聞こえてきたのは夕子さんの優しい声だった。








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