少年の旅(Ⅸ) 二人の夜
「散らかっててごめんね・・」
夕子さんはとても恥ずかしそうに、とても恐縮がってそう言ったけれど、僕が案内された夕子さんの部屋はとても綺麗でとても片付いていた。
古い木造で床もきしむようなアパートだったけれど、ドアを開けると可愛わらしいカラフルな敷物が敷いてあってその上にはスリッパが二つ準備されていて驚いた。
「なんだか土足で部屋に上がるのって慣れなくて・・」
夕子さんはやっぱり照れくさそうにそう言った。
顔が少し赤くなっていた。
学校でも寮でも、その頃になると土足で部屋に入るのが慣れていた僕には、改めてそれが新鮮でとても女性的だと思えて感心してしまった。
もちろん僕はその時点で凄く緊張していた。
夜の9時に女性の部屋に入るなんて経験は生まれて初めてだったし、そもそも「女性の部屋に入る」というのも、この夕子さんの部屋を見る限り「初めての経験」 なのだと思い知らされた。
そりゃあ中学校の頃は班での自由研究とか青年の家での研修の時も星座の係が当たったりして、あいつ、尾折の部屋で一緒に作業した事なんかはあった。
確かにその時は好きな娘の部屋だし、可愛らしいぬいぐるみなんかも飾ってあって
「女の子の部屋だ・・」
と、感動した記憶はあるのだけど、今僕の目に映るこの部屋と比べるとそれは確かに「女の子の部屋」 というよりは、むしろ「子供部屋」 だったという事を痛感させられた。
玄関というか、エントランスを過ぎるとシャワーとトイレがあって、その先に小さなキッチンとワンルームと呼ぶには少々大きめの部屋があった。
確かにその部屋もきしむ床や階段が物語るようにやっぱり古い木造建築で、見える壁や柱も角が取れて丸くなって時代を感じさせていたけれど、きちんと整頓された机やベッド、飾ってある小物や香水、化粧品にアクセサリー類はここが大人の女性の部屋なのだと僕に教えてくれた。
部屋の中央にはやはり玄関にあったのとよく似た柄の綺麗でカラフルな敷物が敷いてあって、その上には何故かピンクで可愛らしいちゃぶ台が置いてあった。
「あ、それね・・
この前デュッセルドルフに行ってついつい買っちゃったの・・
あの街凄いのね・・
日本人街があって、コタツや麻雀卓なんかも売ってたんだよ・・」
と言って、夕子さんはまた照れくさそうにしていた。
デュッセルドルフ。
聞いた事ある街の名前だった。
確か色んな日本の会社がヨーロッパの拠点としているドイツの街で、うちの学校にいる銀行から派遣されたおじさん達も語学学校が終了するとその街にある支店で働くのだそうだ。 そう言えばマウリッチオも語学研修が終わるとデュッセルドルフの銀行で働くと言っていた。
日本人街があるとは聞いていたけれど、まさかそんなものまで売っているとは驚きだった。
「なんだかね、ついつい日本風になっちゃうのよ。
可笑しいでしょ?
ドイツに来てるっていうのに。」
ちゃぶ台を見て驚いている僕に気が付いた夕子さんは少し照れくさそうな顔でそう言った。
僕は大きく首を左右に振ると
「い、いや・・
なんか凄くいいと思います・・
とっても夕子さんっぽいです!
それよりこんな時間に女性の部屋に来たことなくて
どっちかと言うとそっちに緊張してしまって・・」
と、思わず本音をそのまま溢して照れ笑いしてしまった。
夕子さんは顔を真っ赤にして
「リュウジくんは、そういう恥ずかしい事言わないの!」
と、言って僕を突くと
「とりあえずそこら辺に座ってて!
私は夕食の準備するから!」
と、慌ててキッチンへと消えてしまった。
僕は言われるがままにベッドを背もたれにするようにちゃぶ台に向かって座ったのだけれども、なんとも女性の部屋というものは緊張して居心地が悪い。
ついつい無意識に色んな所に目が行ってしまうのだけれども、どこを見ても何だか悪いような気がして慌てて視線をちゃぶ台の上に戻した。
だけどやっぱりそうやって無言で俯いているのも段々息苦しくなって、また色んな所に目がいってしまった。
色んな物が目に映った。
本棚には沢山のクラシックのCDや楽譜のような物がギッシリと並んでいて、やはり夕子さんは音楽家なんだと改めて思わされた。
ただ、意外な物も本棚には並んでいた。
それは妹の部屋でも、尾折の部屋でも見たことのある物。
そう、少女漫画の単行本の列だった。
8つも年上で、26歳の綺麗なお姉さんの夕子さんでもやっぱり少女漫画は読むのかと思うと少し緊張がほぐれて、なんだか夕子さんがもっと身近に感じられた。
僕がベッドを背もたれにしたのには理由があった。
もちろんここまで重い荷物を持ってきたので疲れて何かにもたれたいという気分だった事もあるけれど、それより何よりここ以外の場所に腰掛けると、否が応でもベッドが視界に入ってしまうからだった。
こんな時間に独身で一人暮らしの夕子さんのベッドをまじまじと見るのはなんとも精神衛生上良く無かった。
思わず色んな事を妄想したり興奮してしまいそうだったので、僕はあえてこのベッドが視界に入らないように背もたれに選んだ。
窓辺には和風の一輪挿しが見えた。
そこには小さな花が文字通り一輪だけ活けてあった。
やっぱりそれは和風で、清楚な夕子さんによく似あっていた。
キッチンからはカチャカチャと楽しそうに料理をする音と、夕子さんの鼻歌が聞こえていた。
鼻歌はやっぱりクラシックだった。
整頓された木製の古い机の上にはやっぱり楽譜のような物が積んであった。
そしてその横にある細長い箱にはフルートが入っているのだろうか。
ふと、机の上にいくつかある写真立てが目に入った。
次の瞬間僕は大慌てでそこから視線を思い切りずらした。
急に心臓がバクバクと高鳴って、僕は嫌な汗をかいてしまった。
僕の目に飛び込んできたのは金髪の男性と頬をすり合わすように笑い合って写っている夕子さんの写真だった。
ほんの一瞬視界に飛び込んできただけだったからハッキリとは判断できなかったけれど、金髪の男性は笑いながら夕子さんの頬にキスをしていたようにも見えた。
それはとても気になる写真だったのだけれども、僕にはもう一度その写真を見直す勇気はなかった。
僕の心臓は相変わらず早鐘のように鼓動を打っている。
もちろん憧れのお姉さんのそういう写真を見たのもショックだったけれど、それ以上に夕子さんのプライベートな部分を覗き見てしまったようで凄く申し訳のない気持ちになった。
僕がしばらくの間ピンクのちゃぶ台の中心辺りを見つめて固まっていると
「リュウジくん?
退屈だったらMTVとか見ててもいいんだよ?」
と、言いながら白いワンピースから部屋着とエプロン姿に着替えた夕子さんがやってきてテレビのスイッチを入れてくれた。
「や、やっぱり僕もお料理手伝いますよ!」
僕は座っているとついつい色んな物に目が行ってしまって・・
というか、またさっきの写真が気になって見てしまいそうだったので、夕子さんにそう提案したのだけれども、夕子さんは
「えー?
悪いからいいよー
リュウジくんはお客さんなんだから座ってて!」
と、微笑んでそれを拒否されてしまった。
僕はしかたなく夕子さんがつけてくれたテレビでMTVを見ていると、やっぱりどうしても目線の中にさっきの机が見えてしまって焦った。
でも、気が付くとさっきの写真立てはいつの間にか倒されてしまっていた。
『少年の旅(Ⅸ)』
二人の夜
「乾杯!」
「かんぱーい!」
そう言ってワインのグラスを合わせた僕達の前には、ちゃぶ台いっぱいのご馳走が並んでいた。
天ぷらに唐揚げに、焼き魚。
ご飯に味噌汁、サラダに、驚いた事に小鉢に入ったキュウリとワカメとタコの酢の物や、茶碗蒸しまであった。
とんでもなく和食のオンパレードだった。
ドイツに来てからの2ヶ月間、そりゃあたまには和食も作ったりしたけれど、基本的にはカレー・ハンバーグ・スパゲッティで育った世代でもある僕は無理に和食にこだわらなくても問題無かったので、普段はわりとあるもので適当に作って食べていた。
だから今目の前に並んだ和食の数々に思わず僕は驚いてしまった。
唯一の洋食、本来今夜のメインディッシュで、二人で色々相談して買ったはずのソーセージはちゃぶ台の端っこの方で天ぷらと唐揚げに隠れながら申し訳無さそうに小さなお皿の上に乗っている。
結局夕子さんは料理を作り出したらエンジンがかかってしまったようで、あれもこれもと増産を始めてしまった。
僕もずっとちゃぶ台で座っているのが申し訳なくなって結局途中から料理を手伝い事にした。
ただし極力簡単な下ごしらえだけを手伝った。
子供の頃から旅館の板場で手伝いをしてきた僕は、あまり女性の料理に手をだすべきではない。
そう思っていたし、実際痛い経験もあったからだ。
夕子さんは包丁を持つ手も野菜を押さえる添え手も自己流で何をするにも基本に忠実では無かったけれど、それでも不思議と危なっかしさのような物は感じなかった。
それどころか独特な手付きなのにとても手慣れた感じすら見ていて伝わってきた。
たぶんこの人は普段からちゃんと自分で料理をする人なのだ。
僕は簡単な手伝いだけしながらウキウキと夕子さんの作るお料理を僕は眺めていた。
よくよく考えると、
「若い女性に料理を作ってもらっている。」
というのも初めての経験だった。
そう思ったら心が踊って仕方がなかった。
夕子さんのエプロン姿も可愛かった。
部屋着も初めて見るズボン姿だった。
何もかもが新鮮で僕は料理を食べる前にもうすでに蕩けてしまいそうだけど、ふとさっきの写真立ての事を思い出してしまって複雑な心境になってしまった。
結局料理を凝りに凝った夕子さんがその全てを完成させたのは夜も11時近くになっての事だった。
「ごめんねぇ、リュウジくん・・
頑張り過ぎちゃってこんな時間になっちゃった・・・」
夕子さんが時間に気付いてションボリし始めたので
僕は
「うわ!
なんですかこのご馳走!
ちゃぶ台に乗り切らないですよ!
めちゃくちゃ美味しそうです!」
と、感動してみせた。
夕子さんの顔はまた笑顔に戻っていた。
僕達は夕子さんと一緒に選んだドイツ産の白ワインで乾杯した。
ワインもお互い2杯目になると、夕子さんの頬はピンク色に染まっていた。
「私ダメよねぇ・・
ついつい和食ばかり作っちゃうのよ・・
ドイツに来てるって言うのにね・・
リュウジくんなんて伸び伸び頑張ってるのに
お姉ちゃんの私がドイツに馴染めず、これじゃあダメよねぇ・・」
と、夕子さんは少し酔ったのかちょっとだけ怪しいろれつで寂しい事を言ったので、僕はテーブルの上の唐揚げを美味しそうに頬張って
「いいえ
あおかげで美味しい唐揚げが食べれて幸せですよ!」
と、微笑んだ。
夕子さんはほろ酔い加減で片手に白ワインのグラスを持ったまま頬杖をついて
「ほんと、リュウジ君は優しいいんだから・・
でもだめだよ!あんまり気安く女の子にそういう事言ったら!
まあ私はお姉ちゃんだからいいけど・・」
と言って、また一口白ワインを口に含んだ。
お酒を飲み始めてからというもの、夕子さんの言葉の端々には「お姉ちゃん」という単語が目立っていたのに僕は気付いていた。
やっぱり僕だって若い男だし、警戒されてるのかもしれないなあ・・
と、ついついそんな事を考えてしまった。
そんな改めて念を押さなくても分かっているし、分かっているつもりです。
そりゃあ、料理中から邪魔だと言って横で結んだ長い栗色の髪も、そこから覗く桜色に染まった首筋やうなじもとても色っぽくてついつい目が行ってしまうけれど、やっぱり僕達二人の間にある関係は男女のそういう物ではなくて、まるで姉弟のような健全な関係なんだと改めて僕は自分に言い聞かせた。
気が付くと僕達は、食事もまだまだ半分以上残っているのに白ワインを一本開けてしまっていた。
ちなみにドイツでは18歳の飲酒は法律で認められているので、別に僕が飲んでも問題は無いです。
「よし!リュウジくん!
次は日本酒飲みましょう!
日本酒!」
そう言って立ち上がった夕子さんはとても上機嫌だった。
ちゃぶ台から立ち上がる時に少しヨロっとよろめいたけれど、それから先はわりとしっかりとした足取りでキッチンまで歩いて行った。
さっきとは違うクラシックの曲を気持ちよさそうに口ずさんでいる。
「いつもはね、こんなにお酒飲まないんだよ。
本当よ・・
今日は久しぶりにリュウジくんに会えて嬉しいから飲むんだからね!」
そう言ってキッチンから戻ってきた夕子さんの手には、夕方カウフハウスで買った日本酒の四合瓶と、綺麗なガラス製のぐい呑が二つ握られていた。
「うわ。
そんな綺麗なお猪口どこで買ったんですか!?」
僕が思わずそう口にすると
「友達へのお土産で日本から持って来たんだけどね・・
要らなくなっちゃったから今箱開けたの!」
なんて言って笑っている。
ひょっとしたら、さっき僕に気付かれないように音もなく倒したあの写真立ての男の人に関係があるのかな・・
なんてまた想像してしまい、ちょっとだけ気まずい気持ちがした。
夕子さんは僕に片手に持ったガラス製の綺麗なぐい呑を一つ手渡すと、カリリと日本酒の瓶の蓋をひねって僕のぐい呑に注いでくれた。
僕もお返しに夕子さんの手の中にあった日本酒の四合瓶を受け取ると、ゆっくりと夕子さんの手の中にあるぐい呑に注ぐと
「おーっとっとと!」
なんて夕子さんが言うものだから、僕は思わず可笑しくなって
「なんですかそれ?
夕子さん、おじさんみたいですよ。」
と、僕は笑った。
「実はね、これお父さんの口癖なのよ。」
と、夕子さんは笑いながら教えてくれた。
どうやら町工場を営んでいる夕子さんのお父さんは、毎晩こうやって夕子さんにお酒を注いでもらって飲むのが楽しみだったのだそうだ。
お父さんの話しをしたすぐは、少しシンミリとしていた夕子さんだったけれど、その後はまた楽しそうに話しては笑って、笑っては話しながらクピクピと日本酒を飲んでいた。
僕もほろ酔いの夕子さんが聞かせてくれる話しが楽しくて、笑いながらぐい呑の日本酒を傾けた。
そう言えば、ずっと子供の頃から板場を手伝っていたお宿、そう、うちの親父が番頭をやっている西山荘でもこんな光景はよく見ていた。
小さな「吉乃ちゃん」 という女の子が、毎晩仕事が終わった大女将にコップに半分の日本酒を注ぐためだけにベッドから抜けだして来るのだ。
吉乃ちゃんが物心つく頃には、僕や尾折の事を本当の兄や姉だと思っていたみたいで、よくうちらの後をピョコピョコとついてきた。
高校2年の時、そのお宿でのバイトはさすがに居づらくて辞めてしまったけれど、吉乃ちゃんも今ではもう少し大きくなったはずだ。
確かうちらと7つくらい違っていたから、そろそろ小学校も5年生だか6年生だかになってると思う。
そう言えば、初めて夕子さんを見た時に感じた懐かしい空気。
あれは西山荘のおばあちゃん先生、大女将の物だった。
ひょっとすると大女将は昔、夕子さんみたいな女性だったのかも知れないし、
吉乃ちゃんも大人になったら、こんな素敵な女性になるのかも知れないな。
僕はほろ酔いの頭で夕子さんを見つめながらそんな事を思っていた。
「リュウジくん・・
リュウジくんがもっとドイツ語上手になって
こっちでの生活にももっともっと順応して行っても
私の事、見捨てないでよね・・」
僕が田舎の事を思い出していると、突然夕子さんはそんな事を言って涙を一粒落とした。
これはまずい。
僕が少しボーっと田舎の事を思い出してる間にどうやら夕子さん、お酒が悪い所に入ってしまったようだ。
自分でもあまり飲まないって言ってたし、たぶん今日は随分と多く飲んでいるのだろうと僕は思って少し焦ってしまった。
「まったく・・
いつも夕子さんは大袈裟なんだから。
冷蔵庫にミネラルウォーター入ってますか?
一杯持ってきますね。」
立ち上がった僕はそう言って、少し慌てて冷蔵庫へと向かって歩き出すと
背中の方から
「ごめんねリュウジくん・・
私お姉ちゃん失格だよね・・」
という声が聞こえた。
時計を見ると、もうすでに時間は12時半になっていた。
僕達は少し名残惜しいけど今日の再会を祝う会をお開きにする事にした。
冷蔵庫にあったミネラルウォーターをコップに一杯注いだ僕が夕子さんの元に戻ると、夕子さんは少し酔いが回ったみたいでちゃぶ台で頬杖をつきながらコクリコクリと眠そうにしていた。
確かに今日は僕達二人、よく歩きよく笑って、よく喋った。
その上夕子さんはこんなに豪勢な夕食まで作ってくれたのだ。
疲れてない訳がない。
僕はうたた寝をしている夕子さんを起こさないようにこっそりとちゃぶ台の上の料理達をキッチンへと運んだ。
残ったお料理を一番大きなお皿に盛りなおしてラップをかけて、僕は冷蔵庫へと片付けた。
空いたお皿達は元気のあるうちに全部洗ってしまおうかとも思ったのだけれど、こんな時間に皿を洗う音は古い木造の建物だとご近所迷惑になりそうだったし、何より気持ちよさそうに眠っている夕子さんを起こしてしまいそうだったのでシンクの中に片付けると朝になって乾いて汚れがこびり付かないように、上から軽く水をかけておいた。
僕が再びちゃぶ台まで戻ると、夕子さんは寝息を立てていた。
僕はまたベッドを背もたれにして座ると、飲みかけだった日本酒の入ったガラス製の綺麗なぐい呑をチビリチビリと口に運んで傾けた。
僕も早朝からの旅行で動きまわったので体の方はすでにクタクタだった。
目の前には夕子さんの寝顔があった。
普段はあんなに綺麗で大人で、でもおちゃめな人なのに寝顔はまるで少女のようだった。
頬が涙で濡れていた。
今日一日、夕子さんは楽しそうに笑って、機関銃のようにいっぱい話しをしてくれた。
その笑顔は僕にとっては本当に女神様のようでとても綺麗に見えた。
僕はこの笑顔があるからこの2ヶ月頑張ってこれたのだ。
と、改めて実感した。
でも、そんな楽しそうな夕子さんだったけれど、時々寂しそうに笑顔が曇る瞬間もあった。
僕のドイツ語の話しの時がそうだった。
「私もちゃんと語学学校で勉強しようかな・・」
そんな事を寂しそうに言うもんだから、僕は二人で買い物をしていた時も思わず夕子さんの喋るドイツ語に耳を傾けてしまった。
夕子さんのドイツ語は相変わらず凄かった。
それは僕からすれば、どこを悲観するのか理解出来ないレベルだった。
夕子さんは僕の知らない単語や文法を使って、僕よりも豊かに自分の思いを店員さんに伝えていた。
僕は素直に
「やっぱり夕子さんは凄い・・」
と、改めて感心してしまった。
ただ、何と言うか違和感は少しあったかもしれない。
2ヶ月前は僕は全然ドイツ語が分からなくて単純に凄いと思った夕子さんのドイツ語は、改めて聞いてみると文法や単語力は凄いのだけれども、やっぱりカタカナを読み上げてるような日本風ドイツ語だった。
これは夕子さんも言っていたけど大学の授業で勉強したのが会話重視ではなくて、文法重視のドイツ語なので仕方がないのでは?
と、僕は思った。
それよりもあんだけ色々喋れるのにどうして落ち込むのか?
の方が僕には不思議に感じていた。
文法が今ひとつの僕にしてみたら、羨ましい限りの悩みなのだから。
日本の生活を引きずってると自嘲していた時も少し寂しそうだった。
そしてやっぱり写真立ての人の事も気になった。
僕はぐい呑の中の日本酒を一気に飲み干した。
瞼を閉じると温かい春の日差しを受けてカタンコトンと揺れる車窓が目に浮かんだ。
ぽてちを片手に笑い合う僕と夕子さん。
「あのね、あのね、リュウジくん!
うちのお父さんが一回りも年上のおじさんとの縁談を勧めてくるのよ!
それがね!
中年太りで頭だってもうツルツルなんだよ!
『見た目はアレだけど、本当に中身はいい人だから。』
って何よね、って思わない?
だからね、私、日本を逃げ出しちゃった!」
そう言って夕子さんは小さく舌を出してウインクした。
「偶然ですね!
僕も似たような物で日本を逃げ出して来ちゃいました。」
僕もそう言って笑った。
日本を逃げ出して来た僕と夕子さん。
僕の場合、逃げた先には新天地があるかと思っていたら本当に大変で、どれだけ自分が日本に居た時に親に甘えていたのか痛感させられた。
何も知らない。
何も出来ない。
そんな子供の僕は毎日ドタバタと苦労の連続だ。
確かにそれは慌ただしくて、辛い事や悔しい思いも沢山あるけれど、それでも不思議と嫌だとは思わなかった。
それはたぶん語学学校にいる色んな国から集まった仲間達のおかげだと思うし、何より夕子さんのおかげだと僕は思った。
少なくともこの2ヶ月間はジタバタしながらも何とかなって来たような気がするし、最近はこの国が好きになりかけている自分もいる。
だけど、ひょっとしたら夕子さんにとっては少し違うのではないだろうか・・
逃げ出して来た先のドイツで、もっと辛い事になっているんじゃないだろうか・・
僕は思わずそんな想像をして胸が苦しくなってしまった。
『私はお姉ちゃんなんだから・・』
そんな夕子さんがついさっきまで頻りに口にしていた言葉が頭の中でリフレインした。
それは僕達の関係を的確に表す言葉。
そんな事は十分分かっている。
夕子さんは僕よりも8つも年上で色んな事を経験してきてて、僕なんかでは逆立ちしたって手が届かない。
だから僕は夕子さんに「これ以上」 なんて望まないし、こんなに親切にしてもらってるだけでも奇跡のような話しだ。
それにもし僕が「これ以上」 を夕子さんに求めてしまったら、多分僕達はもう会えない・・
あの時のように。
僕はなんとなくそんな気がした。
だけどその関係を再確認すると、やっぱり胸が傷んだ。
だって目の前にいる夕子さんの頬は濡れていて
なんだかドイツでの生活だって辛そうなのだから
こんな時姉弟じゃなくて恋人同士だったなら・・
強く抱きしめて
「大丈夫だよ
心配いらないよ」
って言ってあげれるのに、弟の僕ではそれがしてあげれない。
この感情は純粋な恋愛じゃないのかも知れないけれど、やっぱり隣で女の人が泣いているのに何もしてあげれない頼りない自分が情けない。
そう思うと少し辛くて、とても切なかった。
僕は空になったぐい呑にもう一杯日本酒を注ぐと
「これだったら姉弟でも許されるかも知れない。」
そう思って、寝ている夕子さんの手にそっと自分の手を重ねると優しく握りしめてまた日本酒を口にした。
夕子さんが選んだ日本酒は、ねっとりと甘くて美味しかったけれどやっぱりどこか寂しい涙の味がした。
「・・・くん?
リュウジくん?」
トントンと肩を叩かれる感覚で目を覚まして顔を上げると、そこにはパジャマ姿の夕子さんがいた。
黄色に茶色の小さな柄の入った可愛らしいパジャマだった。
髪にはバスタオルが巻かれていたけれど、そこから濡れた長い髪が束になって胸元の膨らみの上に落ちてカールしていた。
お風呂あがりのシャンプーのいい香りがした。
「ありがとうリュウジくん・・
私が寝てる間にお皿片付けてくれたんだね・・」
と、夕子さんが恐縮そうに言うもんだから、僕はテーブルに俯せたまま
「だって、夕子さん気持ちよさそうに寝てたから
起こしちゃ可哀想だと思って・・」
と、半分寝ぼけた声で答えた。
「もう・・
リュウジくんはすぐにそういう優しい事を言う・・」
という少し呆れたような、でも少し嬉しそうな、でもやっぱりどこか悲しいような夕子さんの声が背中から聞こえた。
「私は先にシャワー浴びちゃったから
次はリュウジくん使ってよ?
ね?」
という夕子さんの優しい声が聞こえたような気がしたのだけれども、僕はもうお酒と眠気で目を開けているのも辛かったので
「ごめんなさい夕子さん・・
僕はこのまま寝ます・・
おやすみなさい・・」
とだけ伝えてそこで記憶が途切れた。
この夜は少し変な夢を見た。
・・ような気がする。
ひょっとしたら夢では無かったのかも知れないけれど実はあまり確信が持てない。
夜中に女の子の泣き声がしたような気がした。
暗い闇の中に小さな泣き声と嗚咽が聞こえていた。
僕は真っ暗な天井をボーっと見つめながら起きているのか寝ているのかも分からないままその女の子の泣き声を聞いていた。
最初は尾折の泣き声かと思った。
またあの夢を見たのかと思って、胸が苦しくなった。
そう、コペンハーゲンへと向かう飛行機の中で見たのと同じ夢だ。
しばらくするとその泣き声も嗚咽も聞こえなくなった。
そしてまた記憶が曖昧になりかけた時に
「起きてる・・の?」
と、声をかけられた。
「たぶん寝てます・・」
と返事をすると
「手・・
握って・・」
という声がした。
僕はなんとか体に力を入れて突っ伏していたちゃぶ台から体を起こすと、そのままバタリとベッドにもたれかかった。
ベッドからは小さくて綺麗な手が布団の隙間から出ていたので、僕はその手を握りしめた。
凄く小さくて柔らかい手だったような気がするけれど、そこで僕の記憶はまた睡りの中に落ちていた。
あれが現実だったのか、夢なのか正直分からない。
でも、記憶が途切れる最後の瞬間に何か柔らかい物が僕の唇に触れたような気がしたのだけれども、それも夢だったのか現実だったのかは分からない。
現に翌朝目を覚ますと、夕子さんはすこぶる元気だった。
いつの間にかベッドの脇に倒れこむようにして眠っていた僕は夕子さんに布団をかけてもらったようで、布団からは夕子さんの甘い香りがしていた。
それ以外にも懐かしい香りがした。
眠い目をこすりながらちゃぶ台の上を見ると、焼き鮭に味噌汁、そして白いご飯があった。
昨日の残り物もいくつかお皿の上に乗っていた。
「おはよう!
リュウジくん!!」
窓辺から差し込む夏の日差しを受けて、微笑んだ夕子さんの笑顔が眩しかった。
その笑顔があまりにも屈託がなくて優しくて明るくて、僕はやっぱり昨日の泣き声は夢なのだと確信した。
こうして僕達二人の初めての夜が明けた。




