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ちょっと大人な私達の日常  作者: にしやま そう
少年の旅
46/46

少年の旅(Ⅺ)  少しづつ変わっていく心 少しも変わらない心






イダの店で男達が抱き合って泣いていた夜から1週間が過ぎようとしていた。


八月も第二週に入ってますます太陽は強く照りつけて夏は本番を迎えている。

木々はますます葉を青々と風に揺らして、落ちる影は一層濃くなっていた。



この時期、僕の身の回りにも結構大きな変化がいくつかあって、その目まぐるしくて慌ただしい変化に気を抜くと流されてしまいそうだった。


では、どんな変化があっかと言うと、まずは二ヶ月一単位だった6-7月のコースが終わり、僕にとって2コース目となる8-9月のクラスが始まったのだ。


僕はそれまでの2ヶ月間、このグルント1を終了と同時にグルント3への飛び級を狙ってドイツ語の勉強に性を出したつもりだったのだけれども、結果は失敗に終わった。


新しいクラスの発表の時に僕の名前がグルント3ではなくてグルント2の欄にあるのに気付いた僕は学校に抗議をした。

これは正直に腑に落ちなかったのだ。

なぜならクラスの中でも僕よりも喋れない、文法だってあやふやなヤツがグルント3への飛び級に成功しているというのに、そいつよりも語学力があるはずの僕が失敗したというのは納得がいかなかった。


学校側からの返答は至って簡単な物で


「リュウジの場合は文法力が今ひとつ」


と言われただけだった。

それでも僕はかなりしぶとく食らいついてはみたのだけれども、僕のクラスがグルント3へ変わる事は無かった。

それどころか「反抗児リュウジ」というレッテルを貼られれてしまったようだ。



5コース(10ヶ月)で6クラス目まで終了。


そうなると一番飛び級の可能性が高いのがこの初級段階のグルント1から3への飛び級だった。

もちろんクラスが上になればなるほど飛び級は難しくなる、だから僕はなんとしてもここで飛び級がしたかった。


自信はあった。

夕子さんにも驚かれるくらいに僕の語学力はこの2ヶ月で伸びたし、日常会話程度ならすでに問題のないレベルになっていた。

文法だってグルント1の内容はケアレスミスでもない限りは完璧だったはずだったのに・・


僕はこのジャッジメントにかなり不満を覚えると同時に落ち込んでしまった。



実際クラスが始まるとグルント2の授業の大半はグルント1の復習と応用しかなく、僕はふてくされてしまった。

グルント2には案の定飛び級に失敗したハキムの顔もあって、クラスに入るなり抱きつかれてしまった。

青ヒゲは相変わらずタワシのようでチクチクと痛かった。



この8-9月の新しいコースが始まって生徒の顔ぶれもごっそりと入れ替わった。

8割近い生徒が前のコースが終わるとこの街から去って行き、代わりに新しい生徒達がごっそりとやってきた。

そして事もあろうか、僕は居残り組として新しい学生の案内係のような立場になってしまっていた。



ちなみに、あの学生達から煙たがられていた日本人の集団もいなくなって日本人での居残りは僕と、美大を目指している佐和子さわこさんだけになってしまった。

そう、シュタウフェンの初日の朝にマーケット広場を青い顔してウロウロと徘徊していた僕を見つけて声をかけてくれた僕の二人目の女神様だ。


これは少しだけ有難かった。

なぜなら10人いた日本人の中で唯一佐和子さんとだけは「それなり」な友好関係を築けていたからだ。

佐和子さん以外の誰かと二人ぼっち・・

そう想像するとキリリと胃が痛んだ。

そう思うと、居残ってくれたのが佐和子さんで助かった。



「なんだか皆居なくなって急に寂しくなっちゃったね・・」


2コース目の初日、語学学校のロビーで僕の姿を見つけた佐和子さんは、トコトコと僕の所まで歩いてきてそう言った。

ボブカット・・って言うんだっけ、こういう髪型。

小柄な佐和子さんの肩に付くか付かないかに揃えられた髪がサラサラと風に踊っていた。

最後の「ね・・」の言葉に合わせて少しだけ小首を傾げるようにして佐和子さんは微笑んだのだけれども、その笑顔にはあまり力がなくてなんだか「苦笑い」とか「照れ笑い」のような微妙な顔だった。


佐和子さんという女性は少し不思議な女性だった。

何が不思議かと言うと、とっても普通の女性だったのだ。

何と言うか、物静かで優しくて、少しオドオドした印象だった。



まあ、僕がドイツで知り合った日本人の人というとこの学校に居た前の集団と夕子さんしかいないのだけれども、佐和子さんはその誰とも雰囲気が異なっていたように思う。


夕子さんはいつも明るくて元気だし、前のクラスまでこの学校にいた日本人の人達も何と言うか「元気な人」が多かった。

それはまあ、お世辞にも「良い意味」ばかりではないのだけれども、何と言うか

気位やエリート意識が高かったり、性格がキツかったりと一癖も二癖もある人が多かったのだけれども、そんな「出る性格」の人の中で佐和子さんだけが「引く性格」のように思えた。


それは日本では当たり前によくいる人なのだけれども、前の集団がとくにドギツかったからかも知れないけれど、物静かな佐和子さんは逆に浮いた存在のように思えた。



そんな佐和子さんだったけれど、前のコースでまだドイツに不慣れだった僕を何かと気に留めてくれた唯一の日本人でもあった。

それは第一印象の僕が本当に頼りなく見えたからというのもあるだろうし、前のコースで僕の次に年齢が若かった佐和子さんからして見れば唯一「お姉さん顔」の出来る相手が僕だったから。 というのもあったのだと思う。


休み時間になると佐和子さんはいつも日本人の輪の中にいたのだけれど、何度と無く違う外国人の輪の中にいた僕の方をチラチラと気にするように見えてくれて、目が合って小さく手を振ってくれる事も多かった。


「ねえ隆二君・・

 今晩の夕食、アルトバウにお邪魔してもいいかなぁ・・」


サラサラとしたボブカットを揺らしながら、なんだか照れくさそうに佐和子さんがそんな事を聞いてきた。


「あ、あのね・・

 私、ずっと日本人の人達と一緒に晩御飯食べてたじゃない・・?

 皆居なくなっちゃったし、同室の子も帰っちゃって

 一人で食べるのが寂しいんだよね・・」


そう言って佐和子さんはまた少しだけ小首を傾げるようにして照れ笑いをした。


「もちろん大歓迎ですよ。

 マウリも美人好きだから喜ぶと思います!」


と、僕が笑顔で答えると、佐和子さんの顔は真っ赤になって頭から湯気が出ているようだった。


「わ、わ、わ、、わたし、そ、そんなび、美人じゃ・・」


なんて言いながらアタフタモゴモゴしている・・


しまった・・

どうやらイタリア男のマウリッチオの有り難いご教示が知らない間に身についてしまったようだ・・。 と言うか、普段外国人とばかり接しているからこの手の世辞は社交辞令のように思い込んでいたけれど、いつも日本人とばかりいた佐和子さんにとってしてみたらとんでもない事を僕は言ってしまったのかもしれない・・


『ダメだよ! リュウジくん!

 女の子に簡単に優しい言葉とかかけちゃ!

 まあ、私はお姉さんだからいいけれど・・』


ふと夕子さんの言葉が思い出された。

ああ・・こういう事を言われたのだな僕は・・


それに気付いて僕も照れ笑いをしてしまった。



僕にとてつもない衝撃を与えた湾岸戦争の開幕だったけれど、蓋を開けると皆が心配したような事態には至らなかった。

ハキムの話しによると、コースが終わって国に帰るやつらは多いが戦争が理由で帰国するヤツは居なかった。 のだそうだ。

どうやらこれはアメリカを始めとする多国籍軍が圧倒的に優勢だったのが理由みたいで、各地で小さな小競り合いのような戦闘は続いてはいるものの、戦火が拡大するような流れには至らないようで僕は胸を撫で下ろした。



そうそう、その日の学校帰りに佐和子さんと夕食の買い物をしていた時に

「ソイツは日本人だ!」

と、イダの店で僕に喧嘩まがいの言葉を浴びせてきたトルコ人のムスターファに呼び止められてアイスクリームを奢られる事になった。


意外と律儀なヤツで佐和子さんの分も奢ってくれた。

僕よりも全然ガタイのいい男が背中を丸めてモジモジしながら小声で

「あの時はすまなかった・・」

なんて言うもんだから思わず笑えてしまって、大きな背中をバンバン叩きながら

「気にすんな!」

と笑い飛ばしてやった。


そしてその晩はムスターファも呼んでの大パーティとなってしまった。


普段は日本人の人とばかり一緒に居た佐和子さんにはそのパーティの光景は新鮮に映ったらしく、楽しそうに皆とドイツ語でお喋りをしていたのが何だか微笑ましかった。



そんないつもと違う慌ただしい8月を迎えた僕達とシュタウフェンの街は、少しづつだけれども平穏な日常を取り戻しつつあった。


たった1つだけを除いて・・


あの晩以来、それまで週に何度もかかってきた夕子さんからの電話は1度も無かった。

夕子さんの声を聞かなくなってからすでに1週間が過ぎようとしていた。











『少年の旅(Ⅺ)』 

少しづつ変わっていく心

少しも変わらない心












「3日間もありがとう!リュウジくん!」


「あのね、あのね!

 今度来た時は絶対に植物園に行こうね!」


「あ、そうそう!

 リュウジくん、Tシャツ忘れてたよ!

 これどうしようか!?

 今度私がシュタフェン行く時に持って行こうか!?」



湾岸戦争が始まった夜、受話器の向こうから聞こえる夕子さんの声はとても楽しそうで、そしてとても幸せそうだった。

僕もその夕子さんの声を聞いて心が踊りかけたのだけれども、ついさっきイダの店で見た光景や、マウリッチオが語ってくれた平和の真実、さっきから響き渡っている女の子達の鳴き声を思い出すと自分だけがこんなに楽しい思いをしているのがとても不謹慎なような気がして心が傷んだ。


「ねえね!

 聞こえてる!リュウジくん!?」


「う、うん・・」


今日までお3日間ずっと僕と一緒にいたし、部屋に戻ってテレビを見ていたとしてもいつもMTVでミュージックビデオを見るのが習慣の夕子さんは戦争が始まった事を知らないのだ・・

僕はそう思った。


僕だって語学学校に通っていなかったら・・、帰りがもう1日遅かったらたぶん知らないままだったのだと思う。

だから夕子さんは悪くないし、不謹慎でもない。

ただ単に僕と一緒にいた3日間が楽しくて嬉しくて電話をかけてきてくれたんだ。


僕は受話器の向こうから聞こえてくる夕子さんの楽しそうな笑い声を聞きながら、自分に何度も何度もそう言い聞かせるのだけれども、やっぱり笑う事は出来なかった。


一人の女の子が受話器を耳に当てている僕の姿をじっと見ている。

僕の部屋まで電話がかかってきた事を教えに来てくれた女の子だ。

しきりに腕時計を気にしながら僕が話す姿を眺めている。


おそらくこの子も国のご両親が心配してかけてくる電話を待っているに違いない。

親切で電話を取って僕を呼びに来てくれたのではなくて、自分への電話かと思ったら僕への電話だった。 という事なのだろう。



「あのね、あのね!

 それでねリュウジくん!」


そう言いかけた夕子さんに対して僕は


「ごめん・・夕子さん・・

 電話待ってる子がいるから、今日はもう切るね・・

 僕も3日間楽しかったです・・

 ありがとう、夕子さん・・」


と、浮かない声のまま手短にそう言うと受話器を下ろしてしまった。



受話器を置いてしばらくもしないうちにまたベルが鳴り、いよいよ私の番だと女の子が走ってきて受話器を取った。

女の子は泣きながらどこの国の言葉ともわからない叫び声をあげながら電話をしていた。



せっかく夕子さんが電話をしてきてくれたのに、僕はあまりにもそっけない態度で電話を切ってしまったのではないだろうか?

しばらくその事を思い悩んではみたけれど、やっぱり今の僕にはそれ以外の対応が出来たとも思えない。


戦場に駆り出されて自分は死ぬかもしれない。

ひょっとすると戦場で会った友人に引き金を引かなくていけないかも知れない。

そう言って泣き叫ぶ男達。


大好きな彼が、旦那さんが、家族がやはり戦争に駆りだされて命を散らしてしまうかも知れない。

それなのに自分はドイツに居て見送る事も何も出来ない。

離れ離れのまま今生の別れになってしまうのではないかと泣き叫ぶ女達。


そんな姿をいくつもいくつも目の当たりにしたばかりの僕には夕子さんと楽しく旅行を振り返って笑い合うのは到底無理な話しだった。


「戦争が始まって楽しい話しが出来る気分じゃない。」


そう言ってしまうのは簡単だったけれど、それではまるで楽しそうにしている夕子さんが責められているみたいになってしまう。

夕子さんは何も悪くない。

当たり前の電話を、当たり前にしてきただけだ。


夕子さんの事だ、たぶん僕が言い訳のようにして戦争の事を言わなくても明日大学に行けばおのずと知るだろう。

そうしたら次電話がかかってきたら

「あの時はごめんね、夕子さん。」

と謝ればいい。

それがいい。

無理に僕達の間に波風を立てる必要なんて無いのだから。


僕はそう考えた。



だけど、いつまでたっても、何日待っても電話はかかって来なかった・・






それから数日もしないうちに8月からのコースが始まった。

進級失敗のショックもあったし、新しい学生の懇親会やら何やらで僕はバタバタと忙しい日々をおくっていた。


予想外の事も起こった。

何人もの日本人の方々が僕の部屋をノックして挨拶に来てくれたのだ。


「はじめまして。

 このコースからシュタウフェンでお世話になるものですが、

 佐和子さんという女性の方から、学校や寮の事はリュウジさんが

 詳しいと聞きまして。」


という感じだった。

それを聞いて、出るタイプではなくて引くタイプの佐和子さんらしい判断だと思わず苦笑いをしてしまった。

自分が先頭に立って仕切るよりも仕切られたい。

後ろから付いて行きたい。

なんとも佐和子さんらしい・・



さすがに飛び級に失敗して、あまり日本人のコミュニティと日本での生活をそのままドイツに移植したような日々を送るだけの時間的余裕の無い僕だったけれど、そう言われてしまうと邪険にするわけにも行かなかった。


僕自身来たばかりの頃は色々皆に助けられたのも事実だった。

今度は僕が居残り組なのだから後々フェードアウトするとしても最初だけはちゃんとしようという思いも強かったから、その先一週間程は色んな人の案内係に徹して走り回るハメになってしまった。



夕子さんからの電話がかかって来なくなって最初の数日はあまり気にしていなかった。

だってそれまでの2ヶ月間、3日に1回は必ず電話があったのだし、まだ最後の電話から2~3日しか過ぎていない。

それはなんて事のないいつも通りの日常だった。


しかしそれが4日になり、5日になった辺りで僕は何と言うか悪い胸騒ぎがし始めた。

今まで一度たりと夕子さんからの電話がこんなにかかってこない事は無かった。

あの時の僕のそっけない態度が夕子さんを傷つけてしまったのではないだろうか?

そんな思いが巡るようになっていた。


僕は何度と無くカールスルーエで教えてもらった夕子さんの部屋の番号に電話をかけようかと悩んでメモ書きをポケットの中に突っ込む所までは行くのだけれども、その都度タイミングが悪く


「倉田くん?

 郊外にあるスーパーの場所を教えて貰いたいんだけど。」


とか


「リュウジさん?

 この街に美味しくて値打ちなレストランはないかな?」


なんて人が部屋を訪れて中々電話をかけるタイミングが見つからなかった。

その都度僕は勉強も何もほっぽり出して街の中を案内して歩くハメになっていた。


さらに前回のパーティで外国人との交流に遅咲きながら目覚めてしまった佐和子さんがちょくちょくアルトバウに遊びにきて一緒に夕食を作ったりするものだから、気が付くと僕は電話がかけれないままさらに数日を過ごす事になっていた。



「ごめんね夕子さん。

 あの時は学校の皆が戦争の事で泣いたり叫んだりで・・」



たったそれだけを伝えればいいだけなのに、1日、また1日とそれが出来ないでいるとますます電話はかけ辛くなってしまう。


「今日はもう時間が遅いから女性に電話するのは失礼かな・・」

「もし夕子さんが戻って無かったらどうしよう・・」

「気まずい電話になったら嫌だな・・」


最初は軽い気持ちで「ごめん」が言えそうだったのに、日を置く程に公衆電話が遠くなって行くのを感じて自分でも自分が情けないと思うようになっていた。



飛び級に失敗するわ

入ったグルント2は簡単すぎて面白くないわ

日本語話す余裕なんてないのに案内係で日本語漬けの毎日だわ

中々自分の時間は持てないわ

夕子さんに電話出来ないわで僕は知らず知らずにストレスを貯めこんでいたようだった。




そんなある日、いつものように夕方からのアルトバウのパーティで僕は酔っ払って倒れてしまった。

いや、本当にそんなに飲んではいなかった。

瓶のピルスナーを1本と、その後勧められたテキーラをショットで2杯一気しただけだったのにもかかわらず、2杯目のテキーラを一気飲みしてレモンの輪切りにかぶりついた瞬間目の前がグルグルと回って倒れてしまったのだ。


なんだか佐和子さんの何度も僕の名前を呼ぶ甲高い声が聞こえるけれど、僕は目を開けている事が出来ないままアルトバウの廊下の上に大の字に転がっていた。



おかしいなあ・・


ほんの数日前まで僕の世界はとても簡単で、目の前には

「ドイツ語を頑張る」

「そのご褒美として夕子さんと電話で話せる」

とう事だけだったのに、いつの間にかそれまで当たり前だったそんな簡単な事が出来なくなってしまっている。


おかしいなあ・・


目の前がグルグルと回っているのに頬は涙で濡れて冷たかった。





僕が目を覚ますとそこはパーティをしていたアルトバウの廊下ではなくて、見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。



「気がついたかい?

 珍しいな。

リュウジにしてはえらく簡単にツブレてしまったね。」


耳元でマウリッチオのそんな声がした。

僕はすぐには返事が出来なくてウーウーと唸っていると


「サワコは可愛いね。

 お淑やかで優しくていつも笑っている。

 彼女はリュウジよりも年下なんだろ?

 君の事をえらく尊敬してるみたいだ。」


なんて訳の分からない事を言っている。

どうやらマウリッチオも酔っているみたいだ。

僕はなんとかかんとか声を絞り出して


「いいや・・

 サワコは僕よりも3つ年上だよ・・」


と答えると、マウリッチオはえらく驚いていた。


「凄いな、本当に日本人の女性は若く見えるんだな。」


なんて言っている。

だけどそのすぐ後に、マウリッチオの声は少し低くなって


「最近毎晩のようにかかってきてた彼女からの電話が来ないね、リュウジ。

 それはサワコと関係がある事なのかい?」


なんて言い出した。

僕にはその意味がよく分からなかった。

なんで夕子さんの電話と佐和子さんが関係あるのだろう。

どうやらマウリッチオは勘違いしているのだ。

それは続く彼の言葉を聞いたらすぐに理解が出来た。


「リュウジ。

 僕はイタリア人だからね、君が電話の彼女と別れて

 すぐにサワコと付き合い出したとしても別に悪いと思わない。

 サワコは可愛いからね、むしろ祝福してあげたいと思っている。

 だけど、最近の君を見ていると少し無理をしているように思うんだ。

 なんでもかんでも背負い込むからこういう事になる。

 それは確かに「NO」と言えない日本人らしい優しさのような気もするけど

 君が倒れてしまったり、背負い込んだ物が中途半端になるのは

 良くない事だと思うんだ。

 『出来ない事は出来ない。』 

 変に期待をさせるのではなくて、ちゃんと言ってあげるのも

 優しさだと思うんだ、僕は。」

 


マウリッチオのその言葉は佐和子さんに関しては随分と的外れな見解ではあったと思うけれど、「背負い込む」という事に関しては何だか見透かされてしまったような気がする。



「マウリ?

 僕はどうしたらいいかな?

どうしたら前みたいに簡単になるのかな?」


僕が気持ち悪いのを我慢してそう言うと、マウリッチオはクスリと笑った。


「簡単さ。

 君がやりたいと思う事を優先してやればいいのさ。

  

 君がやりたいと思う事をやってしまったら残った時間で

 誰かのために何かをしてあげればいい。

 誰かのためってのは、それくらいが丁度いいのさ。


 誰かのために何かが出来る人間というのは、

 自分の事がちゃんと出来てる人の事だからね。」


そう言ってマウリッチオは笑って、その後に楽しそうにカンツォーネの鼻歌を歌っていた。



僕は何だかスっと心が軽くなったような気がした。



僕は目を閉じて、ズキズキと痛む頭で考えた。



今僕がやりたい事。


それはドイツ語だった。

飛び級が出来なくてグルント2になったのは屈辱だった。

だけどいつまでも腐っていても仕方ない。

少し破天荒ではあるけれど、次のクラスでグルント3を飛び越して

ミッテルクラスに行けばいい。

それだけの事だ。

さいわい僕の身の回りには上のクラスのヤツラは沢山いる。

だったら、そいつらと一杯話して勉強すればいい。


だいたいそれで一日の大半は終わってしまう。



それでもし少しでも時間が空いたら誰のために使う?


それは簡単な事だった。

そんなの夕子さん以外に居ない。


勉強の息抜きに電話で話して二人で笑い合う。


夕子さんの声は僕に元気を与えてるれるし、たぶん夕子さんだって同じなのだと思う。

最初は夕子さんは僕の事を心配して電話してきてくれたのだとばかり思っていた。

でも3日間のカールスルーエでよく分かった。

たとえそれが「姉と弟」という関係だったとしても、このドイツで僕には夕子さんが居ないとダメだし、夕子さんにも僕が居ないとダメなんだと。


そう思うと、それ以外の事には手が回るはずがない。

それを考えたら思わず吹き出してしまった。


吹き出す僕の声でマウリッチオが驚いている。

酔った頭もズキズキと傷んだ。

でも不思議と嫌な感じでは無かった。

というか愉快で仕方なかった。


だって、勉強頑張って夕子さんと電話する。

それって何てことはない、つい先日まで普通に僕がやっていた事なのだから。






翌日、僕は少々二日酔い気味ではあったのだけれどもグルント2のクラスに入ると目一杯大きんな声で皆に挨拶をした。

ハキムがえらく驚いた顔をしていた。


まずは勉強を頑張る。

グルント2でも仕方ない。

3に行けないのならば2の授業を受けうつ3の内容まで網羅する。

それしかない。

それは確かに大変な事ではあるけれど、一度腹をくくってしまえば気は楽だった。



休み時間、僕がトイレに行くために廊下に出ると、いつの間にやら僕が橋渡しをした日本人の人達が固まって楽しそうにお喋りをしていた。

もちろんその輪の中には佐和子さんの姿も見えたけど話題の中心というよりは前のクラスの時と同じように、半歩後ろで皆の話しを聞いてニコニコしている。

というふうだった。


皆が僕の顔を見るなり


「倉田くん!」

「リュウジ君!」

「お疲れ様!」


なんて声をかけてくれたけど


「ごめんなさい!トイレ!トイレ!

 漏れちゃいます!」


と言って僕は駆け抜けた。

佐和子さんの顔が真っ赤になっていた。



用を足しながら僕は思った。

「急がばまわれ」

結局はこれが最短距離だったのかも知れない。


どうやら案内係の僕がストレスを貯めて走り回った事で、予定よりも早く皆が顔見知りになったようだ。

たぶん前のクラスでもそうだったように、新しく来た人達もこれからはノイバウ(新築の方の寮)で毎日ご飯を食べるのだろう。

長いものに巻かれる性格の佐和子さんも、日本の人達のコミュニティが固まってしまえば自然とそちらに流れて行くような気がした。

たぶん佐和子さんにとってもそっちの方が楽しいと思う。

何も好き好んで輪から外れてボッチになりたがる僕と一緒にいる必要はないのだから。



学校が終わって皆が一斉に廊下に出ると、やはりそこでも僕は日本人の集団に声をかけられた。


「隆二君?

 今日の晩御飯どうしよう?」


佐和子さんにはそう言われたのだけれども


「ごめんなさい!

 今日はちょっと用事があるんで、皆さんでどうぞ!」


そう言って僕は学校の扉を開けて芝生の上を走りだした。

なんとも体が軽くて、まるで羽でも生えてしまったのではないかと思えた。


僕はそのままマーケット広場にある銀行まで走って行って両替をした。

手元にあった10マルク札数枚を全部5マルク硬貨にしてもらった。


うん。

今晩僕は夕子さんに電話をかける。


僕は掌の中の5マルク硬貨の山をグっと握りしめた。







その晩僕は何度も何度も学生寮と、その隣にある公衆電話とを行き来するハメになった。

「夕子さんに電話する」

そう覚悟は決まったものの、改めて考えると僕から夕子さんに電話をするのは初めての事だった。

しかもすでに10日近く声を聞いていないから、やっぱり何とも気が重かった。


何度も寮の部屋を出て公衆電話の前に行き、その都度時計を見て


「まだ早いかな?」


とか


「今54分か・・なんかキリが悪いな・・

 6分後にまた来るか・・」


なんていう訳の分からない押し問答を一人でしてしまった。


結局晩御飯が終わって7時位から公衆電話と寮を行き来して、本格的に覚悟を決めたのは夜9時の事だった。


受話器を取って5マルク硬貨を投入すると、僕はポケットから夕子さんの部屋の電話番号が書いてある紙を取り出した。

ゴクリと息を飲み込んで紙を見ながら最初の数字をプッシュしようとしたら時間切れで5マルク硬貨が戻って来てしまった。


何度か同じ事を繰り返してるうちに、すっかりその番号を覚えてしまった。


僕は何度目かの覚悟を決めると、何回も何回も覚えた番号を口ずさんだ。


そしてまたゴクリと息を飲み込むと5マルク硬貨を公衆電話に入れて、間髪入れずに一気にその番号をプッシュした。


1回、2回とコールが進んでいく。

僕の胸はドキドキと高鳴って、夕子さんが出たら何て言おう・・

どうしよう・・

と心の中で呟いて焦っていた。


3回、4回とコールは進む。


そして5回、6回、10回とコールが進んでも夕子さんは電話には出なかった。


僕はガクリと肩から力が抜ける気がした。

折角頑張ったのに思い切り空振りしてしまったような心境だった。

こうなると、次またこのテンションまで自分を持ち上げるのには骨が折れそうだ・・



そう思って受話器を公衆電話に戻そうとした時に、遠くから


「ハロー?

 ハロー・・?」


という聞き慣れた声がしたような気がした。


僕は慌てて受話器を耳元に戻すと


「ひょっとして、リュウジくん・・なの・・?」


という夕子さんの声が聞こえた。


「うん・・」


夕子さんに電話したらあんな事を話そう。

こう謝って、仲直りしよう。


色んな言葉を考えて準備していたはずなのに、いざ声を聞くと全部頭から飛んで行ってしまって「うん・・」以外の言葉が出てこなかった。



「ごめんね・・リュウジくん・・

 私無神経で・・

 あの夜、戦争始まったんだよね・・」



「うん・・」



「次の日大学に行ったら、大学も凄い騒ぎになってて

 私それまで全然知らなくて、本当に無神経な電話しちゃってごめんね・・」



「ううん・・」



「そっちも凄い騒ぎだったの・・?」



「うん・・・」



「そうかぁ・・

 ごめんね、本当にごめんね、リュウジくん・・」



夕子さんの声はいつの間にか涙声に変わっていた。

それを聞いて僕は覚悟を決めた。



「謝らないで夕子さん・・

 あれは夕子さんのせいじゃないよ。

 僕からだって電話出来たはずなのに、こんなに遅くなってごめんなさい・・

 でも、夕子さんの声がまた聞けて良かったです。

 ずっと電話したくても出来なくて本当にごめんなさい。」



僕がそう言うと、受話器の向こうの夕子さんは泣き崩れてしまった。


受話器からは夕子さんの鳴き声と嗚咽ばかりが聞こえていて、僕はしばらく聞いていたのだけれども、大きく息を吸って



「また今までみたいに夕子さんと電話で話したいです。

 夕子さんにもまた会いたいです。」



そう伝えた。


夕子さんは泣きながら


「いいの?

 私なんかがまた電話していいの!?

 またリュウジくんに会ってもいいの!?」


と涙声で言った後に


「もう電話出来ないかと思ったの。

 もう会えないかと思ったの。

 ずっとずっと一人ぽっちで心細かったの・・」


と言ってまた泣き崩れてしまった。


「もう、夕子さんはいつだって大袈裟なんだから。

 僕が夕子さんの事嫌いになるわけ無いじゃないですか?

 僕の一番大事なお姉ちゃんです。

 大好きですよ!夕子さん!」


と、頑張って笑顔を作って伝えると夕子さんは何度も何度も電話越しに


「ありがとう・・」


って繰り返してくれた。

そして


「私もリュウジくんが大事!

 一番大事だからね!」


と笑いながら言ってくれたのだけれども、やっぱり言葉の終わりにはグスっという鳴き声が聞こえた。



空を見るともうすでに夕焼け空で、爽やかな夏の夕風が吹いていた。










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