表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ちょっと大人な私達の日常  作者: にしやま そう
少年の旅
41/46

少年の旅(Ⅵ) 語学学校での日常






「夕子さん、ちょっと聞いてくださいよ。

 ブラジル人、あいつら反則ですよ・・

 結構いい年のおじさんだし、『医者だ』って言ってたくせに

 あれ、絶対に嘘ですよ・・ 

 リフティングしたまんま相手ゴールまで笑いながら走り抜けるんですよ!」


「え?

 ほんとに?

 リフティングって、あの足でボールをぽーんぽんってするヤツよね?

 凄いね、ブラジル人って・・」


「まったくですよ・・

 サッカーはちょっと自信あったのに・・」




夕子さんとのこの電話は「日課」という訳ではなかったのだけど、週に2~3回は語学学校の寮に夕子さんから電話がかかってきた。


夕子さんはよほど僕の事が心配なのか、それとも僕の話しを聞くのが好きなのか、電話をかけてくる度に


「リュウジ君?

 今日はどうだった?

 どんな事があったの?」


と、楽しそうに尋ねてくるものだから、僕はその日あった事や授業の事なんかについてよく話した。


田舎の高校を出たばかりの18歳の僕にとって26歳の夕子さんは凄く大人で

『親戚の中に一人はいる、綺麗で憧れのお姉さん。』

という感じの存在だった。

とにかく僕の事をよく心配してくれて電話をくれた。


実際ドイツ国内で語学学校を除けば「僕の知人」と呼べる人は夕子さんだけだったし、親父の恩師という方の言いつけを律儀に守って「日本語を話さない生活」というものを極力心がけていたので、週に何度かかかってくる夕子さんからの電話は僕にとって数少ない日本語を喋る機会であり学校の愚痴なんかも言えたので、本当に「ご褒美」のような時間だった。


夕子さんが大学から紹介してもらったアパートのすぐ近くに公衆電話があるらしく、夕子さんはいつもそこから硬貨数枚分の電話をかけてきてくれていた。





僕達がドイツでそれぞれの生活を始めて1ヶ月が過ぎていた。














『少年の旅(Ⅵ)』

語学学校での日常











僕はこの語学学校で

「グルント1」

というクラスに入る事になった。


この「グルント」というのはドイツ語で「地面」とか「基本」「基礎」を意味する単語で、要は「一番初歩の初歩クラス」に僕は入れられたのだ。

まあ、当たり前と言えば当たり前の事なのだけれども。


僕の入った語学学校はドイツでも一番有名な語学学校で、ドイツの主要都市にはだいたい分校がある。 そのほとんどが大きな街に集中しているのだけれど、この辺鄙へんぴな田舎町にポツンと離れて僕の通う分校はあった。


ただ、語学学校にある他校の写真なんかを見ると、つくづくこの田舎町に来て良かったと僕は思った。 なぜなら、他の学校は都会にあると言うだけあってビルの中だったり、寮だって単なるアパートだったりしてあまり開放的な雰囲気が感じなかったからだ。

このシュタウフェン校はその点、田舎ではあったけれどとても開放的だった。

校舎だって小高い丘の中腹にある広い芝生のある白くて明るい雰囲気の所で、少し古い保育園のような雰囲気のある建物だった。

いつも光に溢れていて、皆がとても伸び伸びとドイツ語を勉強していた。




この僕が通うシュタウフェンの分校には6つのクラスがあった。


グルントシュトュッフェ(初級段階)に

 グルント1

 グルント2

 グルント3

の3クラス。


ミッテルシュトュッフェ(中級段階)に

 ミッテル1

 ミッテル2

 ミッテル3

の3クラスで合計6クラスだった。


1クラスが2ヶ月単位で、終了試験の出来具合で次のクラスに進める仕組みになっている。


グルントシュトュッフェ(初級段階)は基本的ドイツ語を習得する事となり、グルント3の終了時に受ける「ZDaF」という試験で認定を取ると「一般生活で支障のないドイツ語」を習得したことになる。


同じような感じでミッテルシュトュッフェ(中級段階)の3を終了すると

「ドイツの高卒と同じくらいの語学力」

が証明されるそうだった。


親父の恩師という方が僕に下した課題は

「ホテル学校入学までにミッテル3を終了する事」

だった。

最低限それくらいの学力がなければ、ドイツのエリートホテル学校でドイツ人に混じって授業を受けるのは困難だと僕は言われていた。



そうなると、一つ問題がある。

1クラスが2ヶ月単位なので、順当に進級してもミッテルの3までは6クラスあるから12ヶ月かかってしまうのだ。

僕に与えられた時間は10ヶ月しか無かったので、自ずと落第は許されない。

それどころか、何処かで必ず飛び級をしなければならなかった。


でも、希望が無かった訳ではない。

実はこの語学学校で「飛び級」というのは然程珍しい物ではないのだそうだ。

特に普段母国語でアルファベットを使っている国の人にしてみれば、書くのも読むのも然程難しい事ではないようで、だいたいどの段階でも「1の次は3」に飛ぶのが普通らしい。


ただし、母国語でアルファベットを使う人にとっては・・だ。



グルントにしろ、ミッテルにしろ「2」というクラスは

「アジア人向けの補修クラス」

とか

「3ほどではないけど、1よりは出来る」

という中途半端な人が来た時用の受け皿のようなニュアンスのあるクラスだった。



ちなみに語学学校のシステム的には、ミッテル(中級)の上に「オーバーシュトュッフェ」という上級クラスがあるらしいが、これはいきなり大学で専門的な勉強をする人のためのクラスらしく、どの分校にでもある。というクラスではなかった。

現に僕がいるシュタウフェンには、このクラスは無く事実上「ミッテル3」が最上級クラスだった。



この街に到着するだけでも四苦八苦だった僕は、当たり前のように一番初級の「グルント1」に入れられた。



このクラスは何というか・・

カオスだった。


老若男女・・

とまでは言わないが、それでも20人程のクラスの一番年下は僕で18歳。

一番年上は50代のエジプト人だった。


そこには世界中の想像がつく全ての人種がいたような気がする。

白人もいたし、アジア系も、黒人も何人かいた。

あと、アラビア系は結構多かった。

幸い日本人は僕一人しかいなかった。


先生は20代のドイツ人の女性で「ガビ」と名乗った。

まるでモデルのような容姿の持ち主で、最初の授業ではそこら中から口笛が鳴り響いていた。

ガビはとても優しい女性で、まるで保母さんのように言葉が喋れない僕達に接してくれた。

笑うと綺麗な顔に沢山シワが出来る人だった。


最初の一時間はわりとどの国でも同じで、生徒同士が

「おまえどこから来た?」

という感じで英語でのやり取りがほとんどだった。

もちろんこのクラスにはまともにドイツ語が喋れる人間は一人もいないので、最初の自己紹介も自動的に英語になった。


皆が流暢な英語で自己紹介する中、僕だけが


「リュウジ 日本 18歳」


と、片言の自己紹介で少し恥ずかしかった。



ひと通りの自己紹介が終わると、ガビが何やら英語で話し始めてクラス中からブーイングが起こった。

「ノー イングリッシュ」

というのは聞き取れたので、恐らくガビは英語での会話を禁止したのだろう。


僕にしてみたら、そもそも英語だってほとんど話せないような物だったから禁止されても痛くも痒くもなかったのだけれども、特にアラビア系でパンチパーマに頬は青ゾリで口ひげを生やした「どこか中東の独裁者」みたいな顔をした男が一番激怒していた。


その勢いは物凄く、ものを摘まむ形の手の平を上にしたようなジェスチャーで、唾を飛ばしまくりながら機関銃のように英語で抗議しまくっていた。


僕はただでさえ英語が苦手だから、このアラビア語訛りの早口の英語は全くもって聞き取れなかった。

それでも不思議なのは彼が何をいるのか何となく分かった事だ。

まあ、状況が状況だからというのもあるが、それでも彼の聞き取れない英語は


「英語さ禁止されちまったら、オラ達どうやって会話さすればいいっぺさ!!」


という事を言っていた。


まくしたてられている間中、ガビは困った顔をしながらこの「中東の独裁者顔」の言葉を聞いていたのだけれど、その男がひと通り喋り終わるとケロっとした顔で


「もちろんドイツ語よ!」


と言って微笑んだ。


その「中東の独裁者顔」の男は、それを聞いて「オーマイゴット!」と言って椅子に項垂れてしまった。



その後わりとすぐに知ることになったのだが、この「中東の独裁者顔の男」はハキムというリビア人の医師だった。

顔だけ見るともう五〇代なんじゃないか? とも思われたけど聞いてみると実はまだ三十代だというから驚いた。

とにかく喜怒哀楽が激しいヤツで大袈裟なヤツだった。

特に「怒」と「哀」が激しくて、よく怒り、よく泣いた。


そしてこのハキムと僕はしばらくの間、この「グルント1」というクラスの落ちこぼれ1位の座を争うこととなった。



アラブ系以外ではアメリカ人も多く、クラスの中だけで4人いた。

その中でも一番目だったのが「ジョン」という男で、何が目立つって身長が2m以上あったのだ。

でも、年は僕の次に若くて19歳で顔も童顔だったので、僕達はわりとすぐ仲良くなった。


さてさて、世界中から集まったドイツ語ド素人な僕達20人は、ものの見事に英会話を禁止されてしまったので、それから先は全員が苦労した。

なんせ、その日習ったドイツ語しか言葉の蓄えがないのだ。

そこら中の席で


「俺 ジョン アメリカ! おまえは?」

「俺 リュウジ 日本 18歳! おまえは?」

「俺 19歳!」


という、まるで僕のさっきの自己紹介のようなやり取りが繰り広げられていた。

もちろん超初級クラスだからその日習った分だけでは会話が成立しない。

なので、足りない分は皆がジェスチャーで補った。


その光景は本当にカオスだった。


ただ、ハキムだけは最後までガビの言葉に逆らって英語で話し続けた。

授業中も英語で質問してガビを困らせた。


そんなハキムは毎時間毎時間、休み時間になると英語で色んなヤツに話しかけては雑談していた。

最初の数日は話しかけられた方も英語で受け答えしていたのだけれども、そのうちそんなハキムの態度は皆から煙たがられ、学校が始まって1週間も過ぎないうちにクラスの問題児になっていた。

そしてとうとう英語を喋っているのが自分一人だと気づくと、ナンダカンダ!とプンスカ怒り出してその後号泣してしまった。


それからはハキムも心を入れ替えたようにドイツ語での日常会話を心がけ始めたが、やっぱり感情が高ぶると英語だかアラビア語だかでまくし立てていた。




クラスが始まって数週間も過ぎると、僕達グルント1の結束力は学校で一番強くなっていた。

ドイツ語が片言な分だけ、相手の事を考えたりジェスチャーで語ってるうちに、下手にドイツ語が出来るヤツラ同士よりも互いの言葉や感情が深く理解出来るようになっていたと思う。


なんせ、最初はアメリカ人のジョンの事を嫌っていたハキムですら


「アメリカ人は嫌いだけど、ジョンは僕の大事な友人。

 ダチ公だ!」


とか言って抱きつく程だった。


ハキムは抱きつきグセがあってすぐに頬をすり寄せてくるのだけれど、ヤツの頬はタワシのような青ゾリで、頬を擦り寄せられるととても痛かった。

まあ、相手が2mのジョンでは頬と頬は無理だったけれど。



僕達はほぼ世界中の国々から集まり、違う肌の色、違う宗教と色々違ったけれど、それ以上に強い「劣等生同士の友情」みたいな物で繋がれていた気がした。




放課後は自由時間だったけれど、僕達はいつも一緒に何かして楽しんでいた。

スポーツもその一つだった。


草サッカーはとにかく凄かった。

サッカー世界戦だ。

語学学校の生徒で2チームが余裕で作れたので、週に1回は試合をして遊んだのだけれども、特にあのブラジル人の個人技の凄さには度肝を抜かれた。


僕が学校で習ったような派手はフェイントなんて入れなくても、目線一つ、首の動き一つがフェイントになっていて、それで簡単に抜いていくのだからたまったもんじゃない。

あいつらにボールが渡ると触れる気がしなかった。



バスケットボールはもっとひどかったな。

ジョンはアメリカ人だから、サッカーよりバスケットボールが好きだった。

よく近くにある高校のコートで遊んだのだけど、あれは

「触れる気がしない」

ではなくて

「物理的に触れない」

だった。


なんせ身長2mのジョンが手を伸ばしてパスを回すのだから、常時ボールは地上3m以上上を行き来するだけだった。

僕はボールにも触れないままバスケットのコートを走り回るハメになって

「バスケって球技じゃなかったっけ?」

という疑問を覚えた。



アラブ系のヤツラとはよく卓球をした。

子供の頃から西山荘の卓球場でそれなりに腕を磨いたつもりだったので、これはバスケットボールよりは何とかなった。

それでもヤツラは強かった。

タバコ吸いながら手首だけで打つ玉の早い事早い事。

スパン!スパン!と猛烈な玉を返してくるのだ。

僕は右へ左へ動きながら返すのに、憎たらしい事に、やつらはあまり動いてないくせにいとも簡単に僕の玉を返してくる。


スマッシュが入る度に咥えていたタバコを指でつまんで

「フー」

と細く煙を吐く姿が特に憎たらしかった。






学校の寮は、学校のある高台から坂道を数分下った場所にあった。

こちらも白くて綺麗な新築の4階建てのリゾートホテルのような建物だった。


各部屋にはウッドデッキのようなベランダがついていた。


「こんな素敵な所でこれから10ヶ月も生活できるのか?」


と、僕は心を踊らせたのだけれども、僕に割り振られた部屋は僕が見た「ノイバウ」という新築で増築された方ではなく、元々あった古い建物の「アルトバウ」の201号室だった。

このアルトバウとノイバウは一階部分で繋がってはいたものの、方や新築のコンクリート製のホテルのような造り、僕の住むアルトバウは木造の古いホテルのような造りで、歩くと床がギシギシと軋んだ。


あと、201号室なのに部屋があるのは3階だった。

ドイツでは日本で言う1階は「グルントシュトック」と言って『~階』という計算に入れないようだ。 実際の「階」の勘定は2階からスタートするので日本の計算とは1階づつズレる。 だから2階が1階になり、僕の住んでいる3階がドイツで言うところの2階なのらしい。


綺麗な新築で日当たりの良いウッドデッキのあるノイバウに住めなかったのは多少残念だったけれど、実はそれ以上の恩恵がこのアルトバウにはあった。

それは部屋が広かったのだ。

特に僕の201号室は角部屋でノイバウで言うところの2部屋分くらいの広さがあった。


僕達語学学校生はこの寮で2人1部屋の共同生活をする。

最初はどんな人と生活を共にするかと心配だったけれど、僕の相方は眼鏡をかけた白人の男で、えらく陽気な人だった。


彼はドイツの支店での勤務が決まった20代後半のイタリア人の銀行員で、名を「マウリッチオ」といった。 クラスはミッテルの1だと言っていただけあって、随分と達者にドイツ語を話していた。


部屋が誰と一緒になるかは、希望がない限りは宗教等の支障のないレベルでランダムで決まるので、中にはルームメイトとの相性が悪くて苦労していたヤツらもいたけれど、僕はマウリッチオで随分と助かった。


マウリッチオは本当に陽気でいつもカンツォーネを歌っている陽気なラテン人ではあったのだけれど、やっぱり20代で外国勤務の決まった銀行員だけあって頭が良くてとても優しいヤツだった。


ドイツ語も随分と教えてもらったし、マウリッチオからしてみたら僕は弟みたいだったようで、色々と・・その・・イタリアの優男やさおとこから男のとしての女性のエスココートの仕方というか、武勇伝的なのも教えてもらった。

彼はどうやら新婚らしく、結婚してすぐに単身赴任になってしまったとよく嘆いていた。



寮には各階に小さな共同キッチンが付いていて昼食や夕食はだいたいそこで自炊した。

マウリッチオと一緒に料理して食べる事も多かった。



朝食は語学学校の食堂でバイキングが食べれるようになっていた。

とは言っても、所詮は学校のバイキングなので内容はほぼ毎日一緒で、山積みにされた「ブロートヒェン」という丸い小型のフランスパンみたいな物に、ハムとチーズの盛り合わせ、そしてゆでたまごという内容だった。

たまにハムやチーズの種類が変わったけれど、まあだいたいそんな感じだった。


ただ、この食堂も時間が来ると片付けれられて教室になってしまうので、遅刻すると朝ごはんは食べれなかった。



ちなみに親父の恩師の言葉を借りると


「ドイツ語に専念できるように、日本人の居なさそうな一番田舎の学校を選んだ。」


らしかったのだけど、やっぱり同じ事を考える人はそれなりにいるようで、この田舎の学校にも僕を含めて10人近い日本人がいた。


その約4割が銀行員のおじさん達だった。

この人達もマウリッチオと同じで、ドイツ支社に転勤になった人達で

「日常会話に困らないように」

と銀行から派遣される形で語学学校に通っていた。



女性も多かった。

しかも「自分探しの旅にドイツに来た元OLさん」というタイプが妙に多かった。

こういう女性がやっぱり全体の4割近くいたような気がする。

こういうタイプの人には僕の通う語学学校は2ヶ月単位だし、自炊の出来る寮も付いているし朝食は付いているしで、旅の拠点にするにはとても都合が良かったようだ。

シュタウフェンは立地的にもフランスにもスイスにも近かったから尚の事で、週末になる度にこの人達は旅行に行ってたような気がする。


さて、残り2割。

まあ、残り2人はと言うと、僕ともう一人佐和子さわこさんという僕よりも少し年上の21歳の女性だった。


この二人だけが

「その後の学校に進むためにドイツ語を勉強している。」

という組だった。

僕はホテル学校に、佐和子さんは美術の大学に進むのだそうだ。


実はこの人が僕の2人目の女神になった。

あ、もちろん夕子さん同様「恋愛の対象」としての「女神」ではなくて、「助けてくれた人」という意味での「女神」なんだけれども。


あのオドロオドロシイホテルに泊まった翌日、僕がシュタウフェンの街をウロウロと散策していたらこの佐和子さんに声をかけられたのだ。

佐和子さん的に言うと


「かなり挙動不審なアジア人が青い顔してウロウロしていた。」


らしい。

佐和子さんは1クラス前からこのシュタウフェンに住んでいるらしくて、僕は色々と街を案内してもらう事になった。


おかげでシュタウフェン初日の課題だった

「語学学校を探す」

「銀行に送金用の口座を作る」

はあっけなくクリアする事が出来た。


あと、このシュタウフェンの事も色々と教えてもらった。


このシュタウフェンの街外れには、ぽっこりとしたおわん型の山があって、そこは一面のブドウ畑になっている。

これはこの街がフランスが近い事もあって、ビールも良く飲まれるけれど、それ以上にワインが自慢の街だからなのだそうだ。


そしてその山の頂上には壊れた城のような物があり、それがこの街のシンボルなのだけれど、どうやらそれが日本でも有名な「悪魔メフィストとドクトル・ファウスト」の舞台となった城なのだそうだ。


その話しを聞いて僕は急に昨晩泊まったオドロオドロシイ部屋の事を思い出して、それを佐和子さんに話すと


「えー!?

 そのホテル、ファウストがメフィストに誘惑されたホテルだよ!?

 ひょっとして君の泊まった部屋がその部屋なんじゃない!?」


と、凄くキラキラした瞳で佐和子さんは感動していた。


確かに日本にいた頃は、「メフィスト」とか「ファウスト」と言えば、漫画やアニメや映画なんかで何度も何度も耳にする有名な名前だった。

やっぱり美術をやっているだけあって、ひょっとしたらこの佐和子さんもそういうのが好きなんだろうなあ? と、僕は思った。


佐和子さんはこの田舎町に僕らが通う「Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥート」という語学学校があるのかの理由も教えてくれた。

要は学校の名前にもなっているドイツの詩人の「ゲーテ」、その代表作でもある「ファウスト」の舞台となったのがこのシュタウフェンだから、わざわざこんな田舎町にポツンと離れて語学学校が出来たのだそうだ。



結局街を案内してもらったお礼は僕が2泊するホテルの部屋を見せてあげる事になった。

佐和子さんは大喜びでその部屋を写真に撮りまくっていたので、どうやら僕からの報酬は大満足だったようで何よりだった。


でも、確かあの話ってフィクションだったと思うのだけど・・



こうして僕は佐和子さんという女性に助けられたのだけれども、いざ学校が始まると一緒に何かをするという事は少なかった。


これにはいくつかの理由がある。


まずは、僕以外の日本人の人達は学校でも寮でもいつも一緒に居て、完全に一つのコミュニティを作っていたのだ。

確かにあの人達は皆

「日常生活に苦労しない程度のドイツ語を勉強する。」

というのが目的だったから、概ねその目標は達成されている人達ばかりだったので割と「外国生活をエンジョイしている」という雰囲気だった。


休み時間も、語学学校中の生徒が国境を越えて色んな国の仲間とドイツ語で雑談に花を咲かせている時だって、必ず日本人の皆は固まって日本語で雑談をしていた。

その光景は一歩引いて傍から見ると少し異様で、よく外国人達から


「あいつらはドイツまで何しに来てるんだ?

 四六時中日本語でばかり話して

 あれなら日本でドイツ語を習ってるのと同じだろ?

 観光か?」


と皮肉っぽく聞かれた。

僕は思わず苦笑いをした。


確かに当時は円高のピークの頃で、ドイツの物価は日本のほぼ半分で、気軽に来れるヨーロッパだった。

でも違う国のやつらももちろん語学学校には来ていた。


厳しい試験を受けて村の期待を背負って国費で来たタイ人や、大借金してまでドイツで工学を学びに来たというアフリカの男なんかもいた。 それ以外の人間でもわりと似たり寄ったりのヤツらも多かったから、そういう人達から見たら日本人は「遊びに来ている」ように見えたようで、結構嫌われていた。


僕の居た「グルント1」には日本人が居なかったのと、住んでいたアルトバウにも僕の他には日本人が居なかった。

だから普段の生活で他の日本人と顔を合わす機会は少なかったし、学校にいた日本人の中でも僕一人が飛び抜けて10代だし、ドイツ語もサッパリだったので見事にあの人達からは「ガキ扱い」をされてしまった。

ようは日本人の中で僕一人が見事に浮いてしまったのだ。


この人達は、だいたい毎食一緒に食べていたと思う。


僕はと言うと、同室のマウリッチオと食べたり、アルトバウの面々とパーティのようにして晩御飯を食べる事が多かった。


小学校の頃から親父の手伝いで西山荘の板場に立たされていた僕は、和食以外でもだいたいの料理はそれなりに作る事が出来たから、アルトバウのパーティではかなり重宝がられたし、随分と可愛がられた。


そんな感じで外国人との生活は充実していたので、日本人の輪から外れてしまった事はあまり気にならなかった。

それにそもそもドイツに来てからは日本語を封印するつもりでいたので、好都合と言えば好都合だった。



僕にとっての日本語や日本人は夕子さんだけ。

それでいいと思っていた。


週に何度かかかって来る夕子さんの硬貨数枚分の電話は僕の楽しみだった。


もちろん夕子さんも僕の事は「年下の男の子」として接してくれてはいたけれど、語学学校の人達のような「ガキ扱い」ではなかった。 ちゃんと年下でも一人の人間として見てくれていたような気がする。



語学学校が始まって一ヶ月半くらいが過ぎたその日も夕子さんから電話があった。

廊下で電話を取ったアルトバウの学生が


「リュウジ!

 電話だよ!」


と、部屋をノックすると、僕は勉強の手を止めて廊下に向かってダッシュした。

それを見ていたマウリッチオは


「お?

 リュウジ、また彼女からの電話か?

 どうやら僕の教えたイタリア男のたしなみが役立ってるみたいだな。」


と、えらく満足そうだった。


僕は


「違うよ!

 彼女じゃないよ!」


と少し顔を赤らめてマウリッチオの言葉を否定した。



僕にとっての夕子さんは

「ちょっと憧れる親戚のお姉ちゃん」

のような存在で、恋愛の対象ではなかった。

というか、「夕子さんと恋愛する」という発想がそもそも僕には無かった。


高校を出たての縦社会バリバリの僕にしてみたら、2つ年上の先輩だって「凄くお姉さん」に思えたのに、6歳も年上なんて言ったらそれはもう別次元の存在だったのだから仕方ない。



「どう、リュウジ君?

 そろそろ自力でカールスルーエまで来れそう?」


と電話口の夕子さんに尋ねられた。

僕はそれを聞いて心が踊った。

僕は夕子さんからのこのお誘いをずっと待っていたから。


その頃にはガビの教えが良かったのか、普段外国人とばかり一緒に行動していたからか、普通にスーパーで買い物をしたり、自力でフライブルグまで行ったりも出来るようになっていたし、あの時一言も喋れなかった僕の成長した姿を夕子さんに是非見てもらいたかった。 確かにカールスルーエまで一人で行く、というのは少し勇気が必要な大冒険ではあったのだけど、夕子さんに会えるのならそのハードルはあまり高く感じなかった。


「たぶん大丈夫だと思います!」


そう答えると、電話越しに夕子さんは凄く喜んでくれた。


もう少しすると2ヶ月単位のクラスが終わって学校は数日間休みに入る。

僕はそこで夕子さんのいるカールスルーエを尋ねる事を提案した。


「あと10日くらいかぁ・・

 うん!

 分かった!

 じゃあ、その時にワインとソーセージで乾杯だね!」


と、夕子さんは喜んでくれた。


「それまでに僕も安そうなホテルとか探しときますね!」


と言うと、夕子さんは


「え?」


と、少し驚いた後に





「そんなの、私の部屋に泊まればタダじゃない!」






と、アッケラカンとした声で笑っていた。


僕は受話器を片手に顔を真っ赤にしながら緊張してしまった。













評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ