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ちょっと大人な私達の日常  作者: にしやま そう
少年の旅
40/46

少年の旅(Ⅴ) Staufen im Breisgau




結局あの後夕子さんと別れた僕は思わず列車の中で寝てしまい、フライブルグに到着する列車のアナウンスを聞き逃してしまった。


日本を出てから緊張の連続が続いていたし

眠気が来ても仕方がないと言えば仕方のない事だった。


それでもまだ夕子さんという綺麗で優しくて、喋り上手な旅の共が隣に居た時は、眠気も忘れて夕子さんとの時間に没頭出来たのだけれども、いざ夕子さんがカールスルーエで列車を降りてしまうと、車窓から差し込む温かい春の光は僕を容赦なく気持ちの良い睡りへといざなってしまった。


では、僕はフライブルグの駅を乗り過ごして、そのままスイスのバーゼルまで行くハメになったのか? と、言うと実はそうでもない。

これはもう「悪運の強さ」としか説明のしようがないと思う。


ふと目を覚ますと車窓から見える景色が動いていなかった。

列車は停車していたのだ。

目に見えたのも田園風景ではなくて、レンガ造りの駅のホームだった。

でも、運が良かったのは僕の居た座席の車窓のすぐ目の前に「FREIBURG」という駅名の看板があった事だった。


僕はその看板を見て、寝ぼけた頭が瞬間的に目覚めて座席から飛び上がってしまった。

なんせ、どれくらい列車が停まっていたか分からないから、いつ列車が発車してしまうのか? 僕が列車から降りるだけの時間が残されているのか? それすら定かでは無かったからだ。


この時ばかりは「火事場のクソ力」だったと思う。

だって、あれほど運ぶのに苦労した巨大なトランクケースを、僕は抱えて全力疾走できたのだから。




僕の降りたフライブルグの駅はわりと大きな駅ではあったけれど、それでもフランクフルトの駅と比べたら格段にその大きさには違いがあった。


今度はこの駅に並んだ列車の中からバートクロイッツィンゲン行きの列車を探さなければならない。 でも、やっぱりそこに並んだ列車の数々はフランクフルト程では無かったものの、僕にとってはやはり「とんでもない数」には違いがなかった。


あと、夕子さんと知り合って少し知恵がついたのか

逆に恐ろしい事態も頭によぎった。


それは今日の日程表に書いてある


『(列車)バートクロイッツィンゲン-(バス)シュタウフェン』


という乗り換え予定の一行だった。


このワープロ打ちの日程表ではその駅が終点なのか、それとも途中下車の駅なのかの判断が付かないのだ。

終点だったら問題ないけれど、もしそれが通過駅で、今度は寝てるうちにフランスの国境を跨いでしまう。

なんて言われたらそれこそ大問題だった。


もう僕はこの時点で、列車での乗り換えを断念した。



断念はしたのだけれども、今回は幾分気が楽だった。

というのも、フライブルグに到着した時点でその日の移動行程的にはほぼ9割が終了していたのだからだった。 

ドイツの地図は、日本にいる頃から暇がある毎に目を通していた。

特にこれから生活をするシュタウフェンと、その近隣の街については何度も地図で確かめたので位置関係だけはよく理解していた。


実はこのフライブルグからシュタウフェンまでは、直線距離にすると約30キロちょっとくらいしか無いのは僕は事前に知っていた。

それなら最悪タクシーで移動しても何とかなる。

僕はそう考えていた。


幸運な事に、日本を出る時に軍資金となった米ドルは夕子さんがドイツマルクに換金してくれたし、ここまでとてもスムーズに来れたので実はほとんどお金を使っていなかったのだ。


思い返せば、結局この旅で自力で乗り換えに成功したのはコペンハーゲンの空港だけだったけれど、兎にも角にも目的地に今日中に到着する方が最優先だった。



僕は残りの道のりをタクシーで移動する事を決意した。





駅を出ると辺りの景色は意外な事に真っ赤だった。

ついさっきまで夕子さんと一緒に見ていた車掌からの景色は気持ちのいい昼の風景だった。 そして僕がうたた寝をしていたのは一時間にも満たない間だったはずなのに、まるでレコードの針が飛ぶように一気に時間が過ぎてしまっていた。


ただ、それは確かにキツネに摘まれたような不思議な感覚ではあったのだけれども、僕の目に映る夕焼けは見事で、駅前にある全ての建物や景色が真っ赤に染まっていて僕は思わず目を奪われてしまった。







タクシーはすぐに見つかった。

ただ、最初戸惑ったのは僕の街だとタクシーは黒か白。

と、相場が決まっていたのだけれども、駅前にズラリと並ぶタクシーらしき車の列はどれを見ても肌色だったのだ。

僕はそれがあまりにも締まりのない色だったので、本当にそれがタクシーなのかすぐには自信を持ちきれなかった。


とりあえずその中の一台に向かって手を上げると、えらく愛想の良い若い男がタクシーのドアを開けてくれた。

またこれにも少し驚いた。

僕の知っているタクシーの運転手はだいたい中年のおじさんなのだけれど、近寄って見ると僕に向かって挨拶したこの若い男は本当に若かったのだ。

たぶん20代の前半なのじゃないんだろうか?

僕は日本でこんなに若いタクシーの運転手を見たことがない。


ともかく僕は鞄の中から黒皮のシステム手帳を取り出すと、そこに書かれたシュタウフェンのホテルの住所を一生懸命に何度も指差して運転手に目的地を伝えた。


日本を出てからここまでの道のりは飛行機や列車での旅だったので、僕はここで初めて右側交通という物を経験した。 なんともしっくりこない物だった。 交差点の度に反対車線を走り始めたのではないかと思って少し冷や汗をかく場面も何度かあった。



タクシーはフライブルグの市街地を走った。

夕暮れに染まる駅前はとても都会に見えた。

当たり前と言えば確かに当たり前かも知れないけれど、目に入る景色はアスファルトで舗装されビルのような建物も結構目につくのだけれど、それ以外の建物の中には、日本で見るようなトタン屋根や、和風の建物が一切なかった。


僕は改めて


「外国に来てしまったのだな。」


と、思った。


タクシーが走り始めて10分も過ぎると建物やビルなんかが目立った夕焼けの風景の中に、少しづつ緑が増えて来た。

そしてまたしばらく走ると、辺りは完全に田園地帯になっていた。


見渡す限りの視界いっぱいに広がる何かの畑は、稲穂のような物が夕焼けに染まって真っ赤になって春風になびいていた。

それはまるで真っ赤な海のようだった。 


どこまでも広い空も真っ赤ならば、大地も真っ赤。

そんな景色の中を、どこまでも真っ直ぐアスファルトの道路は伸びているように見えた。



僕の生まれ育った街は山の中の盆地だったので、常にどこを見ても視界には山があった。

だからこの夕焼けに照らされた一面見渡す限りの畑の中を走りながら、なんて世界は広いのだと僕は初めて思った。


タクシーに差し込む夕日はやっぱり温かくて気持よく。

僕はまた少しウツラウツラとし始めてしまった。


そんな時、タクシーを運転する愛想が良くて若い運転手のTシャツの袖から刺青いれずみが見えて僕は急にドキリとして背筋を伸ばした。


「日本人留学生が殺害」


そんなニュースの見出しが頭によぎった。

確か何ヶ月か前に外国であった事件だった。


確かその犯人もタクシー運転手だったと思う。

僕は安易に「列車がダメならタクシーがあるさ。」と、この選択肢を選んだ事が、実はとっても恐ろしい事だったのではないかと思ってヒヤリとした。


どこを走ってるかも分からない。

言葉も伝わらない。

そして相手は刺青の入った若い男。


僕達は今、タクシーという密室に二人きりなのだ。


僕は何度も何度も意識を保とうと気を張るのだけれども、やっぱり疲労からか目が開けていられる時間はどんどん短くなっていた。

何より夕日が温かくて気持ち良すぎるのだ。

ふと気づくと夢を見かけているのに気付いて飛び起きる。

そしてしばらく気合で目を開けているのだけれど、また自分が夢を見かけている事に気付いて飛び起きた。

そんな事を何回かタクシーの後部座席で僕は繰り返した。


僕は風で頭を冷やそうと思いタクシーの窓を少しだけ開けた。

すると心地よい春の夕風がタクシーの中に流れ込んできた。


ふわりと風に乗って甘い大人の女性の香りがした。


その香りがとても心地よくて、目を閉じると夕子さんの笑顔が浮かんだ。



「夕子さん・・

 あんまりはしゃいで・・僕に寄り掛かるから・・」


頬を撫でる柔らかい春風と温かい夕焼け。

そして甘い夕子さんの香りに包まれて、僕はいつの間にか睡りについていた。












『少年の旅 (Ⅴ)』


 シュタウフェン イム ブライスガウ

   Staufen im Breisgau










僕は急に声をかけれられて飛び起きた。


しまった。

いつの間にか寝てしまっていた。


あんなに赤々と燃えていた夕焼けはすでにどこにもなく、周りは真っ暗な夜になっていた。


僕は慌ててリュックサックを抱きしめて強張った。

僕はてっきりニュースで取り上げられるように人里離れた山奥に連れて来られたのだと思った。 そして今から金銭を巻き上げられて殺されるのだと恐怖した。


だが、意外な事にタクシーの運転手は笑っている。

殺意のこもった笑い。

というのとも違う。

普通に人懐っこく笑っている。


そして何やらタクシーの外を指さしてドイツ語なのか英語なのか分からないけれど僕に向かって喋っているのだ。

僕は慌てて運転手の指差す方を見ると、真っ暗な中に「HOTEL」という看板が煌々と光っていた。


それを見たら強張った体からドッと力が抜けた。



タクシーの窓から見える景色は街ではなく完全に村だった。

目の前には石造りの噴水があって、その噴水の周りが小さな石畳の広場になっていた。

そしてその石畳の広場を囲むようにして色んなお店があったのだが、どこもここもすでに閉店した後で、その噴水の広場はひっそりと静まり返っていた。


僕は今日泊まるシュタウフェンのホテルは「街の中心にある」と聞かされていたから、てっきり繁華街の中にあるホテルだと思ったのに、目の前にあるのはテレビで見た事のある「アルプスの小さな村」そのもので驚いた。



タクシーの料金は200マルク程だった。

その時僕はドイツでの貨幣価値なんて全く分かっていなかった。

ただ、レート的には大体1万3千円くらいだというのは分かったので少し胸をなでおろした。


僕は言われた通りの額面をサイフから抜き出して支払ったのだけれども、

「それでは毎度あり!」

という歯切れのいい雰囲気ではこの若い運転手はなかった。

なんだか何かを待っているような感じだった。


僕は慌てて「ドイツではチップを支払う。」という事を思い出して、サイフからお札を一枚抜いて支払った。

もちろん事前に「親父の恩師」という方から

「チップは1マルク硬貨を何枚か程度でいい。」

という話しは聞いていたのだけれど、こんな言葉も話せない僕を誘拐も殺害もしないまま目的地まで連れてきてくれたので、そのお札は単純に僕の感謝の気持ちだった。


愛想のいい若い運転手はとにかく上機嫌で、僕は理解も出来ないのにベラベラと陽気にいっぱい話しかけてきて、あの巨大で重いトランクケースもホテルのフロントまで運んでくれたのだった。


後で考えれば当たり前だ。

ドイツで言うところの2000円もお駄賃として貰ったのだから。



「シュタウフェンという街で日本から予約が可能なホテルはその一軒だけだった。

 恐らく街で一番大きなホテルだろう。」


と、事前に聞かされてはいたのだけど想像したのとは結構違って、小さくてこじんまりとした雰囲気の所だった。

新築なのかフロント周りは割と小奇麗でモダンな感じがした。



対応してくれたの30代半ばくらいの男性だった。

フロントマンと言うよりも、オーナーさんか、オーナーの息子さん。

という雰囲気の人だった。


何やらニコニコとドイツ語らしき言葉で沢山話してくれたのだけれども、本当に申し訳なが僕にはちんぷんかんぷんで愛想笑いする事しか出来なかった。



フロントで出された用紙をローマ字で埋めると、そのご主人らしき男性は僕の大きなトランクケースを持って部屋へと案内してくれた。

部屋は3階だか4階で、移動には小さなエレベーターを使った。


見た感じホテルは大忙しという雰囲気でもなくとても静かだったのに、どうしてそんな高い階に案内されるのか僕は少し疑問だった。



そしてエレベーターを降りると、僕は愕然とする事になった。


エレベーターを降りると、そこは古臭いお化け屋敷だったのだ。


あの新築っぽい1階のフロント周りは何だったのだろう?

と思うくらいに古臭くて薄暗い。

そして廊下には、古い宝箱のような物や、ドクロを象ったロウソクの燭台なんかが沢山飾ってある。


本当にそれは気色が悪くて、思わず僕はドイツ人の感性を疑ってしまった。



ホテルのご主人に案内された部屋は、もっと恐ろしい場所だった。

色んな不気味なオブジェが飾ってある。

その数はあの薄気味悪い廊下の比ではなかった。


窓はステンドグラスになっていて、その絵柄もよせばいいのに悪魔の絵柄だった。

部屋に飾ってある絵もなにやら不気味な油絵のような物で、僕は思わず小さな悲鳴を上げてしまった。

ホテルのご主人は、そんな僕の姿をみて満足そうにしている。


本当にドイツ人の感覚は理解不能だった。



その部屋は、まるで子供の頃に何かで見た「黒ミサ」の会場のような雰囲気の小さな部屋で、僕は子供の頃に聴いた事のある「蝋人形の館」という歌を思わず思い出してしまった。

とにかくあの雰囲気そのままの部屋だったのだ。



ホテルのご主人が立ち去って、しばらくの間僕は呆然としてしまった。

なんでこんな緊張の連続だった一日の締めくくりが、こんな不気味な部屋なのだろう?

僕は思わず自分の不幸さ加減に大きなため息をついてしまった。


ステンドグラスの悪魔が笑いながら僕を見ていた。



僕はとりあえず部屋中の明かりという明かりを点けてベッドへと倒れこんだ。

うつ伏せに倒れこんでしまえば不気味な部屋は気にならないだろうと思ったのだ。



部屋の雰囲気とは違ってベッドはフカフカだった。


枕もフカフカで、高い枕が好みの僕としては多少難ありな感じではあったのだけれども、顔をうずめてうつ伏せになるには丁度いい感じの枕だった。


確かに不気味な部屋ではあるけれど

「僕だけの個室がある」

という状況は素直に嬉しかった。

よくよく考えると、最後に僕が経験した「僕だけの個室」というのは実家の自分の部屋だったから、実にほぼ丸2日ぶりのベッドで個室なのだ。


リクライニングではなく

「横になる」

というのもよくよく考えれば丸2日ぶりだ。


バフンとベッドに倒れこむと、伸びた背筋がバキバキと音を立てた。

目を閉じると、またふんわりと微かに夕子さんの甘い香水の香りが右の肩の辺りからしてきた。


目を閉じるとそこには、やっぱり大人で柔らかいまるでお日様みたいな夕子さんの笑顔があった。


もう今日はお風呂に入る元気どころか着替える元気も無かった僕は、このまま夕子さんの優しい香りが残っているうちに寝てしまおうと思った。




でも、こういうハプニング続きの一日は、そう簡単に僕を眠らせてはくれなかった。


あともう少しで眠れる。

という睡りの尻尾が見えてきたあたりで、内線電話のベルが鳴ったのだ。


僕はしぶしぶきしむ体を起こすと、今度は油絵の悪魔と目が合ってしまった。



ベッドに座ったまま電話に出ると、おそらくさっきのご主人さんだろう。

何か早口なドイツ語で話していた。

そして電話が切り替わり受話器からは懐かしい声がした。


聞こえてきたのはお袋の声だった。


「大丈夫かい隆二?

 ちゃんとお宿には到着したのかい?」


という声だった。


いや、ホテルに電話をしてきたのはそっちだし、実際僕は電話に出たのだから到着したのは一目瞭然だろうとも思ったのだけれども、僕は素直に到着の報告をした。


その後電話は妹に代わり、最後は婆ちゃんと喋った。


皆が無事到着した事をとても喜んでくれていた。

僕は素直に、道中とても親切な日本人の人に出会って随分と助けられた事を話した。


それが「綺麗で優しいお姉さんだった。」とはさすがに言えなかったけれど。

なんせ、勉強をしにドイツに来た初日から綺麗な女性とお友達になったなんて、さすがに言えるワケがなかった。


ほんとうに日本を発ってから心細い事が続いたから、この家族からの電話はとても嬉しかった。でも初日からそんな情けない事を思っていると思われたら少ししゃくだったから

「国際電話は高いから、そろそろ切るよ。」

と強がって僕は電話を切ることにした。


そして受話器を置くと、そのまま腰掛けていたベッドにまた倒れこんで瞳を閉じた。



だが、瞳を閉じた途端にまた電話のベルが鳴って僕をとことん寝かせてくれない。


今電話を切ったばかりなのに、やっぱり親という物は子供の事が心配でたまらないのだろうな。と僕は思った。

僕は少し面倒臭そうにまた体を起こすと、受話器を取った。



やはり耳元ではホテルのご主人さんの声がした。

そしてまた電話が切り替わる音がした。


いったい何を言い残したのだろう?

僕がそんな事を思いながら受話器から聞こえてくる声を待っていたら

その後に響いて来た声は僕の想像していたお袋の声ではなくて思わず驚いてしまった。



「あ!

 やっと繋がったよ!

 リュウジ君?

 リュウジ君だよね?

 私、夕子だけど!?

 大丈夫?

 無事到着した?」


という夕子さんの声だった。

僕は驚いてしばらく声が出なかった。


「あれ?

 リュウジ君?

 聞こえてる?」



そんな慌てる夕子さんの声で我に返って


「うん、大丈夫だったよ、夕子さん。」


となんとかかんとか僕が一言答えると、続く言葉はやはり機関銃だった。


「大丈夫だった?」

「フライブルグで降りれた?」

「スイスまで行かなかった?」

「ちゃんと乗り換え出来た?」

「ホテルにもちゃんと着いたんだね?」

「晩御飯は食べれた?」


とまあ、とにかく質問の嵐だった。


僕はお昼のお礼と、なんとかタクシーに乗ってここまで到着した事を電話口の夕子さんに伝えた。


夕子さんはとても安心してくれて、そしてとても喜んでくれた。

電話での会話なのに、ほんわりとした優しい夕子さんの匂いがした。


僕はフライブルグで寝過ごしそうになった事や、タクシーから見た夕日が綺麗だった事なんかを夕子さんに話した。


不思議だ。

夕子さんに話している内容のほとんどが、ついさっき家族に説明した内容と同じなのに、夕子さんが相手だとさっきは事務的に伝えた内容ですら、ついつい言葉が弾んでしまう。


ひと通り機関銃のような僕への質問が終わると、今度はまた機関銃のように夕子さんは自分の報告を僕に聞かせてくれた。


夕子さんは結局、迎えに来てくれるはずだった知人とは会えないままだったらしい。

とりあえず大学の近くのホテルにチェックインして、今しがた夕食から戻って来たのだそうだ。

時間が少し遅くなってしまったようで、事務の人には会えずじまいになってしまったので、

事務的な手続きと大学が紹介してくれるアパートへの転居は明日以降になりそうだと教えてくれた。


やっぱりドイツ語が上手な夕子さんは凄いと僕は素直に思った。


「部屋が見つかったらリュウジ君をカールスルーエに招待するから

 遊びに来てね!」


と言われたので、僕は元気に


「はい!」


と答えて笑った。



その後電話の会話の中で夕子さんは、何度も何度も僕に


「ありがとう。」

「ありがとう。」


と、お礼を言っていた。


最後の方なんかはほとんど涙声になっていたのだけれど、正直僕には夕子さんにお礼を言われる筋合いというか、そもそもの心当たりが無くて困ってしまった。

だって、僕が一方的に助けられて「おにもつ」になっていたのだから。



「夕子さんは大袈裟だなあ。

 お礼を言うのは僕の方で、夕子さんじゃないですよ。」


と言って僕は笑った。


短い沈黙の後、夕子さんも


「えへへ。」


と笑っていた。


「夕子さん。

 今日は一日ありがとうございました。

 おかげで無事シュタウフェンに到着できました。」


「ううん。

 こちらこそありがとうだよ、リュウジ君!

 女の一人旅で私だって心細かったんだよ!

 ドイツ語の勉強頑張ってね!

 また電話するからね!

 おやすみ、リュウジ君。」



「はい。

 夕子さんもフルート頑張って。


 おやすみなさい、夕子さん。」





こうして僕の長かった旅が幕を下ろし、

日本を逃げ出した僕と、やっぱり日本を逃げ出した夕子さんのドイツでの生活が始まったのだった。








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