吉乃ちゃんとおばあちゃん先生(Ⅳ) 初雪の日
11月に入ると、めっきり寒い日が増えました。
北海道ではもう初雪が降った。
なんて声も聞こえてきましたし、そろそろ私達も覚悟しておいた方がよさそうです。
その日も私は、そんな事を思いながら出勤前の空を眺めていました。
確かに雲はありますが、気持ちのいい秋晴れです。
車で出勤する予定で用意した荷物を持って出た私は、また家に入ると慌ててバイク用に荷物を詰め直しました。
通勤途中の景色はとても幻想的でした。
夜のうちに出来た霜柱や、凍った朝露が、秋晴れの太陽に照らされてキラキラと蒸気になって立ち上っていました。
そんな、霧ともダイヤモンドダストとも違う天へと登る朝露の中を、私はVTZを走らせました。
まあ。
結構寒かったんですけどね・・
お宿に着いて勝手口を上がると、私は控室でいつものようにハッピに着替えました。
厨房の暖簾越しからそれを見ていた大女将がビックリされています。
「あらま、優ちゃん?
こんなに寒いのにオートバイなの?
大丈夫なの??」
さすがに大女将からしてみたら、こんな寒い朝にもかかわらず、オートバイに乗って出勤してくる私はとんだおてんば娘なんでしょうね。
「最近乗れない日が多くなったので、ちょっと禁断症状が出てしまいました!」
私が照れながら頭を掻いていると
「でも天気予報だと、そろそろ雪が来そうよ。
くれぐれも気を付けてちょうだいね。」
なんて、心配されてしまいました。
ふと気づくと、私を心配してくれた大女将の雰囲気もいつもと少し違います。
というか、随分違いました。
何と言うか、いつもより若々しいというか、元気というか?
とにかくパっと花が咲いたように明るいのです。
その原因は着物でした。
これから朝のチェックアウトで、お客様のお見送りが控えています。
大女将は確かにいつも着物ですが、お仕事の時は割とおとなしめでシックな色合いの着物を着ているのですが、その日の着物は、黄色と赤の地に「もみじ」を所々にあしらった若々しい色使いの物でした。
「少し派手な色だったかしら・・」
大女将が少し恥ずかしそうな顔をしながら、心配そうにしています。
私は頭を何度もぶんぶんと横に振って
「いや、その・・
とっても可愛いです!!」
と答えました。
大女将はクスクスっと笑っています。
「ありがとう、優ちゃん。
でも、こんなおばあちゃんに『可愛い』だなんて、
少し恥ずかしいわ。」
と、大女将は照れくさそうに笑っていました。
やっぱり、おばあちゃんと孫なんだなぁ・・
改めて私は実感しました。
確かに私は吉乃ちゃんの着物姿なんて、七五三の時くらいしか見た事はありませんが、この若々しい着物を纏った大女将は、とても吉乃ちゃんに似ていました。
きっと大女将が若い頃は、吉乃ちゃんにそっくりだったんでしょうし、
吉乃ちゃんも、いつかこんな綺麗で可愛いおばあちゃんになるのでしょう。
私は大女将の着物の袖で揺れる赤やオレンジの小さなもみじの葉を見つめながら、ぼんやりそう思いました。
この日、大女将が普段の落ち着いた色合いの着物ではなく、この着物を選んだのには理由がありました。
それは、女将さん仲間で開いている月に一度の「茶会」がある日だからでした。
普段はうちのお宿の茶室を使う会なのですが、どうやら隣町のお宿の女将さんも茶室を作ったらしくて、今日はそのお披露目も兼ねて隣町での茶会となったのです。
隣町ですし、チェックアウトのお見送りが終わると同時に出発しないといけないらしく、大女将は朝からこの着物を着ていたんだそうです。
「朝のお見送りが終わったら、私が隣町まで送りましょうか?」
大女将と二人、お宿の門の前で並んで遠ざかって行くお客様のお車を見送って、私はそう言いました。
「いいのよ、いいのよ優ちゃん。
もうタクシーをお願いしてあるから気にしないで。
優ちゃんも、今日のお昼は久しぶりにオートバイが乗りたいでしょ?
それに、お願いしたい事もあるし・・」
と、大女将はそうおっしゃいました。
「お願いしたい・・こと・・?」
「ええ、お昼前に呉服屋さんが吉乃の成人式のお着物が仕立て終わったから
持ってきてくださるの。
それを受け取って私の部屋まで運んでおいてもらえるかしら?」
大女将は嬉しそうにそう言いました。
私はもちろんそれを了承しました。
最後のお客様を見送った私達は、大きな家紋の入った暖簾をくぐって玄関まで戻ると、すぐに大女将を迎えに来たタクシーが到着しました。
運転手のおじちゃんは、いつもお宿に来てくれる方で、私もすでに顔見知りでした。
「いやいや、今日は寒いね、番頭さん。
さっき街外れまで行ってきたけど、峠ではもう初雪が降っていたよ。」
なんて言っています。
折角久しぶりにVTZに乗れたのに、こんな日に限って初雪なんて振らなくてもいいじゃないですか・・
なんて、私が苦笑いをしていると、簡単な身支度を終えられた大女将が小走りでやって来て、タクシーに乗り込みました。
私はドアが締まる前に
「大女将?
もう山は初雪だそうです。
寒いので大女将も茶室で身体冷やさないで下さいね。」
そう伝えた後、ズボンのポケットが温かいのに気付いて
「あ。
もし良かったら、使いかけですけど、これどうぞ。
たぶん夕方くらいまでは温かいと思いますよ。」
と言って、ポケットからオートバイの防寒用に今朝封を開けた使い捨てカイロを手渡しました。
大女将は笑いながら私の手からカイロを受け取ると
「ありがと、優ちゃん。
優ちゃんもオートバイ、くれぐれも気をつけてね。
夕方までには戻りますからね。」
と、微笑んでくれました。
走り去るタクシーを見送りながら、使い捨てカイロがなくなったズボンのポケットだけ、急に寒くなったような気がしました。
その後しばらくして、私がフロントの朝の〆を終える頃になって、呉服屋さんが吉乃ちゃんの着物を届けてくれました。
私はそれを言いつけ通り、大女将の部屋まで運ぶと、大女将の机の上に置きました。
凄く古くてモダンな机で、沢山の写真立てに入った吉乃ちゃんの写真や、綺麗なオルゴールなんかが飾ってある、実に大女将らしい机でした。
もちろん、私が撮った二人の写真も飾られています。
今となっては少し懐かしいセーラー服姿の吉乃ちゃんが、大好きなおばあちゃんと一緒に並んで笑っていました。
フロントに戻ってくると、なんだかいつもより辺りが暗い気がしたので玄関先まで出てみると、朝はわりと秋晴れだったのにすでに薄曇りの天候になっていました。
せっかくお昼は秋の風になろうと思ったのに、がっかりです。
私はお昼の紅葉を楽しむプチツーリングは諦めて、近場の湯元の公園でコンビニおにぎりと温かいお茶でお昼を取ることにしました。
まあ、そこまでは意地でもバイクで行くんですけどね。
ほんと、がっかりです。
VTZを公園の駐輪所に停めて、私は歩きました。
空は重くて暗いし、公園の温度計を見ると、お昼になっても気温は朝と変わりませんでした。
バイクに乗っての目的地も、この湯元公園にして正解です。
だって、たった1キロくらいの道のりだったのに、寒くてお股が痙攣するんですよ。
タンクを股で挟む・・とか至難の業でした。
ベンチに座って温かい緑茶のボトルを開けると、フワっと白い湯気が口の部分から立ちのぼって、「お昼でもこんなに寒いんだ・・」 と、再確認させられました。
風の匂いも、それまでのどこか優しい秋の物ではなくて、刺さるように冷たい冬の風でした。
私はB-3の襟を立てて、身震いを一つしました。
空を見上げると、白地に赤い線の入ったヘリコプターが、バラバラバラと山の方に向かって飛んでいきました。
私は、
「きっと山の初雪を撮りに、テレビ局のヘリコプターが飛んでいったのだな。」
と、思いました。
私は視界からヘリコプターが消えるまで、温かいお茶のペットボトルを片手にぼんやりと眺めていました。
吉乃ちゃんとおばあちゃん先生(Ⅳ)
初雪の日
公園での昼食を終えて、私がお宿に戻ると、何やらバタバタと慌ただしい空気が流れていました。
お昼休みになって、近所にあるお家に帰ったはずの上村のおばちゃんと、お掃除の山村のおばちゃんが、何やら走り回っています。
確かに今日は、夜のご予約もそこそこ入っています。
でも、かと言って夏場のような「超満員」というわけでもありません。
はて?
私が勝手口で小首を傾げていると、やはりドタドタドタという足音が石段を下ってきました。 私がその音に驚いて振り返ると、それは血相を変えた社長でした。
「ああ!
よかった!
優ちゃん捕まった!
何度か携帯に電話したんだけど、出ないから困ってたんだよ・・」
社長にそう言われて、慌ててポケットの中の携帯電話を取り出すと、お宿からの着信が4件も入っていました。
どうやらバイクを運転していてバイブレーションにすら気が付かなかったみたいです。
私が恐縮して謝ると
「捕まったからもういいんだ。
それよりさっき警察から電話があって、
初雪でスリップした観光のお客さんの乗用車が、
お袋の乗ったタクシーに正面衝突したらしいんだ・・
今はヘリで病院に運ばれたらしいから、私は行くからね・・
上村さんも来てくれたし、優ちゃん?
あとは頼んだよ!」
社長は早口でそれだけ私に伝えると、慌てて奥様と一緒に病院に向かわれてしまいました。
私は何のことか咄嗟に理解出来ませんでした。
少しして、ようやく社長の言葉の意味が理解出来た頃には、もうそこに社長の姿はありませんでした。
私はいても立ってもいられなくなって、厨房に飛び込むと、慌ただしく作業をしていた上村のおばちゃんを見つけて
「大女将、事故って何っ!?」
「大丈夫なの!?」
「様態は!?」
と、立て続けに頭に浮かぶ疑問を投げかけていました。
私から質問を投げかけられた上村のおばちゃんも、とても困惑した様子でした。
それでも、なるべく平静を装う風に
「詳しい様態は私にも分からないけど、
とにかく今は私達でお宿を回しましょ?
もうすぐ佐藤さんや、松さんや二郎くんも駆けつけてくれるから。
いいわね?
優ちゃん?」
と教えてくれました。
でも、そう言った上村のおばちゃんの手の菜箸も、ブルブルと震えていました。
その後すぐ、出張に出ている沼さんから携帯電話に着信がありました。
「優ちゃん、大丈夫ですか!?
私も大急ぎで戻りますので、それまでお宿をよろしくお願いします!」
という内容でした。
優ちゃん、大丈夫ですか?
大丈夫なんてあるわけ無いじゃないですか・・
だって、大女将が事故で病院に運ばれたんですよ?
心配で心配でたまりませんよ。
今すぐ病院まで飛んで行きたいですよ。
私はしばらく俯いていましたが、ぐっと息を吸い込んで
パンパン!
と自分のホッペタを2回叩いて気合を入れました。
だって、社長からも、上村のおばちゃんからも、沼さんからもお願いされたんです。
私が番頭として、大女将の留守を預からなくて、誰がやるの。
「尾折。
お宿は任せたぞ。」
大番頭にだって、最後にそう言われたじゃない。
私は駆け足でロッカーに走ると、不安や心配な気持ちを飲み込んで、大番頭から受け継いだハッピの襟をギュっと強く握りしめました。
その日の営業は、大女将も沼さんも、社長夫妻もいないという、とても心細い状態のまま、私達従業員だけで行う事になりました。
まるで1年前に時間が戻ってしまったかのようです。
皆が大女将を心配して、暗い顔で仕事をしています。
私も気を抜くと、心配で心配で心が折れてしまいそうになりましたが、グッと気弱になる自分の気持ちを抑えこんで走り回りました。
携帯電話に登録された学生バイトにも電話をかけまくり、何とか急にでも出てくれそうな子達を数人確保が出来ました。
普段は社長がマイクロバスを運転して、一気に駅までお客様を迎えに行くのですが、今日はそんな社長も不在です。
ですから、私がお宿のバンで何往復も駅とお宿を行き来して、お客様の送迎をしました。
お宿を下る坂道で、何度も何度も見下ろす町並みの中に見える大きな病院に目が行ってしまいました。
その度に私は心の中で、大女将の無事を祈りました。
その間、フロントをまもってくれたのは、上村のおばちゃんでした。
送迎を繰り返す間も、宿に戻って食事を運ぶ時も、お布団を敷く時だって、どんなに集中しようと思っても、つい大女将の安否を心配ばかりしていました。
没頭しようと無理をすればするほど、今朝の大女将のもみじの着物と笑顔が思い出されて、仕事に集中が出来ないのです。
ひょっとしたら朝のあの姿が最後の・・
なんて思って泣きそうになって、そして思い切り頭を振って、そんな縁起の悪い想像を振り払う。
そして私は祈るのでした
「大女将。
どうか無事でいて下さい・・」
何度も何度も心の中で呪文のように繰り返しました。
この夜は上村さんも、佐藤さんも、板場の松さんですら、動揺が隠しきれなくて、お料理の内容が間違いそうになったり、お部屋のお料理を出し忘れそうになりましたが、私が走り回ってカバーしました。
無論私も穴だらけだったのですが・・
それでも何とかかんとか動きまわって、各部屋のお布団敷きも落ち着いて、私が一回へと続く階段を客室のある二階から降りていると、ガラガラと玄関の引き戸を開けて、暖簾をくぐった社長の姿が見えました。
その頃には、もう膝もガクガクで、ほとんど力だって入らなかったのに、私は考えるよりも先に社長に向かって階段を駆け下りていたのです。
ツッカケも履かないで玄関の石畳の上に飛び出した私は、
「大女将は!?」
「大女将は!?」
って声に出して言いたいのに、息が切れて背中を丸めるばかりでした。
社長はそんな私を見下ろしながら
「ああ、優ちゃん。
留守を守らせちゃって悪かったね。
今からお袋を迎えに行くから、これ、準備しといてもらえるかな?」
と、言いました。
私は思わず沸き起こる安堵で一気に力が抜けちゃって、背中を丸めながら上を向く力もなくて、下を向くしかないんだけど、でもやっぱり嬉しくて。
だって、社長
「お袋を迎えに行く。」
って言ったんですよ!
入院どころか、即日退院です!
いっぱい、いっぱい心配して
いっぱい、いっぱいダメな想像もしちゃったけど、
沢山祈りました。
いっぱい走って、いっぱい祈りました。
良かったです!
大女将帰ってくるんです!
「胸をなでおろす」
まさにその言葉通りです。
緊張が解けたら、なんだか顔にも力が入らなくて。
私はそんな、少しだらしない笑顔のまま、顔を上げて社長の顔を見上げました。
力なく笑う社長の目は真っ赤で。
すでに大粒の涙が沢山溢れていました。
「優ちゃん・・
お袋、死んじゃった・・」
社長は力なく笑ったまま、沢山の涙を流していました。
あれ?
へんです・・
なんかね?
周りが真っ白で、音とか聞こえないんです。
あれ?
なんか、両方の膝がね、ズキズキってするのは分かるんですよ。
痛いんじゃなくてね、ズキズキだけするんです。
へんなの。
まるで両膝に心臓がついてるみたい。
あ。
見えます。
見えました。
えーっとね、私の膝と石畳が見えますよ。
あ、そりゃズキズキしますね。
どうやら私、両膝を石畳にぶつけたみたいです。
あれ?
膝の周りの石畳が濡れてる。
ダメじゃない。
こんな時間に玄関に水撒いたら。
あ、ごめんなさい。
なんだこれ、私の涙じゃない。
あれ?
あれれれ?
今度は視界がグラグラ揺れますよ?
なんでですか?
凄い勢いで揺れてます。
「・・ちゃん!」
「・・うちゃん!」
「・・しっかりして!」
「優ちゃん!!」
あ。
なんだあ。
上村のおばちゃんが私の身体を揺すってるだけじゃない。
もう。
驚いたなあ。
あ!
そうでした!
そうでした!
思い出しました!
大女将死んじゃったんです!
じゃあ、ますます番頭の私がしっかりしないとダメじゃない!
気がついたら、私はお宿の玄関先で、上村のおばちゃんに抱きついてぼろぼろに泣き崩れていました。
初雪が舞っていました。
私はどう頑張っても涙が収まらなくて、まるであの頃のように勝手口に座り、膝を抱えて泣いていました。
結局社長に「準備して」とお願いされた、大女将の遺体を病院から引き取るために必要なタオルやらお布団やらは、上村のおばちゃんが用意してくれました。
背中側にある厨房からは、ウンウンという洗浄機が回る音と、カチャカチャという食器の音に混じって、幾つもの泣き声が聞こえました。
私がしっかりしなきゃ・・
泣くのは仕事が終わってから死ぬほど泣こう・・
今は涙をふかなくちゃ・・
私はブツブツと独り言を言いながら、そう自分に言い聞かせていました。
でも、頭の芯がじいんと痺れたみたいになっていて、自分のそんな言葉ですら、本当に自分が喋っているのかどうか分かりませんでした。
何度涙を拭いて顔を上げてもダメなんです。
この勝手口も、勝手口から見える離れに続く石段も、正面にある倉庫も、顔を上げた私の目に映るどの光景にも、必ず大女将との思い出があるんです。
その都度、笑うその時その時の大女将の声がして、せっかく拭いた涙がまた出てしまうのです。
折角人前に出るように顔を作るのに、何秒も持たないんです。
顔が、ぐしゃってなっちゃって涙が止まらないんです。
しばらくすると、私の目の前にある石段の上のあたりが賑やかになりました。
駐車場に何台も何台も車が停まる音がして、ガヤガヤと離れがある別棟が慌ただしいのです。
私の頭はまだ、じいんと痺れていて、しばらく膝を抱えたままその音を聞いていました。
少しして、私はその音が大女将が戻ってみえた音だと気付いて、痺れた頭のままふらふらと石段を上がっていったのです。




