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ちょっと大人な私達の日常  作者: にしやま そう
少年の旅
26/46

少年の旅(Ⅳ) ~夕子さん~



フランクフルトへと向かう少し小ぶりな飛行機の座席に着いてから離陸までの時間は、とても短く感じられた。


偶然僕の隣に座ったこの女性は、茶色いロングスカートに白いブラウス。

そして同じく茶色いカーディガンという出で立ちだった。


女性が身に付けるブランドなどには、とんと縁がなく、世の中にどんなブランドが存在しているのか? なんて事すら知らなかった僕だったけれど、彼女の品のある雰囲気や、とても肌触りの良さそうなカーディガンを見ると、それがブランド品である事だけはなんとなく分かった。


この柔らかくて、優しくて品のある感じ。

僕はこれを知っている。

この感じは西山荘のおばあちゃん先生だ。

この女性の雰囲気は、どことなく懐かしくて、僕を安心させる物だった。


今の今まで僕は、「ブランド品」という物にあまり良い印象を持ってはいなかった。

どこかチャラチャラしてギラギラした下品な印象を持っていたからだ。

だけどこの女性の出で立ちには品があって、そして清楚で、少しのいやらしさも感じなかった。

こういう人が身につけてこそ、ブランド品は凄いのだと僕は思ってしまった。



この女性は座席に着くと、終始笑顔で、一時も休む事なくにこにこと僕に話しかけてくれた。



「もうね!

 わたしもコペンハーゲンに到着してから、ずっと日本語話したくて、話したくて!

 良かったよ!

 隣が日本人の君で!」



彼女は、偶然自分も一人旅で、ドイツのカールスルーエという街を目指しいる事。

子供の頃からフルートを吹いていて、日本の音大を出てしばらくは父親の会社でOLとして働いた事。

だけど父親の薦める一回り以上年上のオジサンとの縁談が嫌で逃げ出してきた事。

これから昔のツテを頼ってカールスルーエの音大に入るのだと言う事。

そして自分の名前が「夕子ゆうこ」である事なんかを、まるで子供に童話を語って聞かすように、少し大袈裟な身振り手振りを入れながら、面白おかしく教えてくれた。


そして最後に


「26歳にもなって留学なんて、可笑しいでしょ?」


と、夕子さんはペロリと小さく舌を出してみせた。



僕も、久しぶりに日本語で会話できるのが嬉しくて、

高校を卒業して、車とバイクの免許だけ取って、ほぼその足で日本を発った事。

父親の恩師という人が、道中のチケットは全て予約してくれていた事。

今日中にドイツにあるシュタウフェンというシュヴァルツヴァルトの町まで行かなくてはいけない事。

そこにホテルが予約してあって、3日後からその町の語学学校に通う事。

1年後には違う町にある全寮制のホテル学校の入学が決まっている事。

そして少し恥ずかしかったけれど、ここまでの道中、まったく英語が分からなくて落ち込んでいた事なんかを伝えた。


あまり大人の女性と話した事がなくて、シドロモドロと拙い僕の説明を、そのつど


「すごいね!」

「すごいね!」


と、手を叩きながら、感動して夕子さんは聞いてくれた。



そんな感じの話しをしていたから、離陸までの時間はあっと言う間だった。

そして、シートベルト着用のランプが点灯して、飛行機が離陸準備に入るアナウンスが流れた。


「リュウジ君!

 リュウジ君!

 わたしね!

 飛行機はこの離陸の瞬間が一番好きなのよ!

 ドキドキするよね!」


夕子さんは両手をグーに握りしめて、軽いガッツポーズを作ると、まるで今からジェットコースターに乗る少女のように目をキラキラさせていた。


確かに、僕も日本を発つ時に、生まれて初めて離陸を経験したけれど、あの加速感はなかなかの物だった。

高校時代、アイツの親父さんのハーレーの後ろに乗せてもらった事がある。

あの加速感も凄かったけれど、飛行機の加速はそれ以上だった。


隣に座る夕子さんは、ガッツポーズのまま、まだワクワクしている。

どうやらこの女性ひとは、上品そうに見えて実は絶叫マシーンが好きなタイプなんだと僕は思った。


そして少しして、僕達を乗せた飛行機は、滑走路の上を動き出した。

気のせいか、コペンハーゲンまで乗ってきた大型機よりも、エンジンの音がうるさく感じられた。


スタートの位置に着いた飛行機は、ガコン、という音とともに動き出した。


そして猛烈に加速した。


まだまだ加速している。


背中がシートに張り付いていく。


そうだ、この感じだ。

日本を発つ時も、こんな感じだった。


だけどこの小ぶりな飛行機は、まだまだ加速していく。



え?


まだまだまだまだ加速していく。


体はすでに「シートに張り付く」なんて生易しい表現の域を超えている。

「物凄い力でシートに押し付けられている。」

という状態だった。


あからさまに、日本で経験したそれよりも、遥かにかかる重力が激しい。

しかし飛行機は、攻撃の手を緩める事なく、まだまだ加速をやめない。


次第に正面が向いていられなくなって、顔が自然と横を向く。

思わず両手で座席の肘当てを鷲掴みにしてしがみつく。


最後のダメ押し!

とばかりにさらに加速する飛行機。


息を吸うなんて出来たもんじゃない。

僕は息を止めて、必死でその圧力を我慢した。


次の瞬間、フワリと宙に浮く感覚と共に、締め付けられていた体が急に楽になる。


「ぶはッ!」

「ぷはッ!」


思わず飲み込んでいた息を吐き出すと同時に、隣からも同じような声が重なった。

ふと横を向くと、正面を向いた夕子さんが呆気に取られた顔で、ポカンと口を開けていた。


そして僕達は、お互いにキョトンとした顔を見合わすと、何度か目をぱちくりさせた。



「リュウジ君・・」

「夕子さん・・」

『今の、とんでもなかったね!(ですね!)』


最後の言葉もまた、綺麗に重なった。

僕達はそれに気付いて、また声を合わせて一緒に吹き出して笑った。



名は体を表す。

というけれど、この人は、あの何処か儚くて物悲しい夕暮れ時の太陽なんかではない。

大きな向日葵の花がよく似合う、真夏のお日様みたいな人だ。

と、僕はそう思った。





「リュウジ君は、空港に誰か迎えに来るの?」


夕子さんは少し不安気な顔で僕に尋ねてきた。


どうやら夕子さんは、音大時代に一度ドイツに短期留学をしたことがあって、その時お世話になったドイツ人に相談して今回の留学が決まったそうだ。

フランクフルトの空港から、鉄道の駅に向かい、カールスルーエに行けばその人が待っててくれる手はずだったのだが、なにやら手違いがあったらしく、結局自力で大学まで行くそうだった。


そんな留学経験もあって、ドイツ語も話せる自分ですら、その状況は心細いと言うのに、見たところ、聞いたところ、語学からっきしの僕がそんな片田舎の町を目指すという事は、夕子さんの目から見ても、ちょっと信じられない状況なのだそうだった。


「シュタウフェンって、聞いた事ない町だけど、大きな街なの?

 どこにあるの??」


と、心配そうに聞かれてしまった。



僕は素直にこの留学に至った経緯を簡単に説明した。

片意地を張って、所持金も少なくしたし、「誰かを迎えにやろう」と言ってくれたオヤジの恩師の善意も断った。

だから何がなんでも一人で目的地に一人で行かなくてはならい。と、僕は夕子さんに説明した。


実はさっきまで到着する事なんて完全に諦めて、このまま死んでしまうのではないか?と泣いていた事や、そもそもの切っ掛けになった、ショートカットの女の子の話しは一切しなかった。


シュタウフェンという町については、留学が決定した当初から何度も地図で見ていたので、割と簡単に説明する事が出来た。


そこは、スイスとフランスの国境に近い、人口数千人の小さなシュヴァルツヴァルトの町だと僕は答えた。 近くにはフライブルグという、大学生の多い街があるらしい。とも答えた。


これまたオヤジの恩師さんの提案ではあったのだけれども、

ドイツには僕が今から入学する語学学校が、いろんな都市にあるらしのだけれども、大きな都市ではどこの語学学校も日本人が多いのだそうだ。

一年後に僕が入学するのが決まっているホテル学校は、かつては国立のホテル学校で、今だにドイツでは一番格式の高いホテル学校なのだそうだ。

だからドイツ中から、「我こそはホテル業界でのし上がる!」 と血気盛んな若者が集まる中、一人日本人が混じってその授業を受けるのはかなり大変らしく、これから先の約10ヶ月で、その授業に付いて行くだけのドイツ語を身につけるために、日本語は話すべきじゃない。

というのが、オヤジの恩師の考えだった。

だから僕はこのシュタウフェンという、この語学学校の中でも一番ヘンピで小さな街を目指すのだと、夕子さんに説明した。


興味深げに、何度も大きく頷いて、僕の話しに相槌を打ってくれていた夕子さんだったけれど、「日本語を話すべきではない。」というあたりで


「やだ!

 わたし、リュウジ君の邪魔しちゃってるじゃない!」


と、大きく開けた口に手を当てていた。

もちろん僕は、必死に何度も首を横に振った。


そして夕子さんは、そんな僕の仕草を見て、また笑った。



その後、夕子さんの提案で


「ねえねえ、リュウジ君。

 今からお互いの向かう街が何処にあるのか?

 地図の上で教え合いっこしない?」


という事になった。

僕達は、お世辞にも広いとは言いがたい飛行機の座席の上で、お互いの足がすっぽり隠れるような形で、折りたたんでいたドイツの地図を広げた。


まず最初に、地図の中程にある地名を夕子さんは指差した。


「今向かっているフランクフルトが、ここじゃない?」


そして今度は、ツツツっとその指を下に向かって滑らすと


「カールスルーエはここ!」


と、フランクフルトから幾分下にある地名を指さした。


僕もそれとほぼ同時に、無言でシュタウフェンを指さした。

そして僕達は、思わず地図から目を離し、お互いの顔を見合ってしまった。


驚いた事に、隣接・・とまでは行かないが、広いドイツの地図の上、二人が指さしていた地名は、ドイツの左下の辺り、わりと近い場所を指していた。


「リュウジ君、今から目指すフライブルグっていう街はどこ?」


僕はスッと、地図のもう少し上の方へと指をずらした。

さっきよりももっと、夕子さんの手に近づいて驚いた。


「おおお!

 凄い!」



思わず歓喜の声を上げた夕子さんを、通路を挟んだ隣の席に座る恰幅の良い白人の男性が睨んだ。 ゆうこさんは「おっといけない!」 という顔をして首をすぼめると、僕を見て小さくぺろりと舌を出した。


「リュウジ君!

 リュウジ君!

 これって何だか、東京と横浜みたいな感じだよ!」


そう小声で驚いていた。


実際ドイツが大きくて、その二つの街は近いようにも見えるけれど、よく見ると、120キロ程度だと言うのだから、列車でも1時間かからない距離なのかも知れない。


そして、夕子さんは今度はまた何か違う事に気が付いたみたいで、カールスルーエの上に置いてあった指を、ツツツっとそのまま下に下ろして行き、ついには僕の指にぶつかった。

指が触れた瞬間、僕は慌ててて指を引いてしまった。

瞬間的に沸騰したように、顔が熱くなるのが分かった。


「凄い!

 凄いよ!

 リュウジ君!」


夕子さんの瞳は僕を見つめてキラキラと輝いていた。

何がいったいそんなに凄いのだろう。



「あのね、あのね!

 フランクフルトから鉄道に乗って、わたしカールスルーエを目指すじゃない?

 その沿線上にフライブルグがあるんだよ!

 つまりね、わたしの方が先に降りちゃうけど、リュウジ君とわたし、

 これから乗る列車も同じなんだよ!

 これって、凄い偶然じゃない!」


夕子さんは、本当に嬉しそうに喜んでいた。

僕も嬉しかった。

もちろん、不安で仕方がなかった、いくつかの乗り換え、半分死ぬのを覚悟していたのに、途中までとは言え、一緒に行動してくれる人が現れたのは嬉しかったけれど、その時はむしろ、夕子さんとのこの時間が、まだ続く事が何より嬉しかった。


地獄に仏。


いや。

僕は女神に拾われた。







それからも僕達の楽しい旅は続いた。


飛行機の窓に陸地が見えると、夕子さんは僕の方に寄りかかって、窓に指を指して


「リュウジ君!

あれ、お城じゃない?」


「リュウジ君!

 大きな川が見えるよ!」


という具合に無邪気にはしゃいでいた。


その都度、僕にもたれかかってくるもんだから、僕の右の腕には夕子さんの肌触りのいいカーディガンや、サラサラと柔らかい髪が触れてどきりとした。


間近に近づいた夕子さんの髪からは、甘い大人の女性の香りがした。




フランクフルト国際空港に到着してからと言うもの、僕は完全に夕子さんにおんぶにだっこだった。とにかく凄い人混みで、夕子さんを見失う=死ぬ。 だと僕は直感した。

夕子さんの後ろを付かず離れず付いて行く僕の姿は、まるでカルガモの子供のようだったのではないかと思う。



入国検査では、夕子さんと違う列になってしまって心細かった。

芸能人がパンツの中に麻薬を隠し持っていた。

なんて話しも聞いた事あったので、この時ばかりはかなり緊張した。

入念なボディチェックも覚悟していた。


だけど、入国検査は、パスポートを見せると呆気無く終わってしまった。

あまりにあっけなく終わってしまったので、僕が呆然としていると、検査官が「邪魔だから早く行け。」という感じで、僕をシッシッ!という手振りで追い払った。


先に検査を済ませた夕子さんは、少し遠巻きに僕のその様子を見て、クスクスと笑っていた。

とても恥ずかしかった。


荷物の受け渡し口で、僕達は各々のトランクケースを受け取った。

夕子さんは旅慣れた感じの可愛い赤のこぶりなトランク。

僕は例の巨大なトランクだった。


夕子さんのトランクには取ってが伸びるキャスターが付いていて、小ぶりな赤いトランクは、ますます軽そうに夕子さんに引っ張られていた。

方や僕は、大きなトランクに小さな滑車がついているから、キャスターなんていらないと思っていた。 それが裏目に出て、背中を丸めて大きなトランクケースを押すハメになった。


その姿はもう、傍から見たら「カルガモの親子」ではなく、完全に「お嬢様と従者」だったに違いない。


その数分後、僕は夕子さんに拾われた幸運を、何度も何度も噛みしめる事になった。


日程表には「鉄道」とあったのに、実際はフランクフルト駅まで向かうのには「地下鉄」を乗らないと行けなかったのだ。

どうやら、鉄道で行く事も出来るのだそうだけど、地下鉄の方が早くて安いのだと夕子さんは教えてくれた。


そんなに幾通りも駅に行く方法があったのを知って愕然とした。

飛行場を出たら、「駅行き」という乗り場が一つあるのだと思っていた僕はやっぱりバカだったのだろう。


地下鉄でフランクフルト駅に到着して、エスカレーターで地上に出る時も、僕は愕然とっしてしまった。

エスカレーターの視界がだんだん高くなり、駅のホームが見えてくると、そこには横一列に無数の列車が止まっていたのだ。


エスカレーターは駅中央口あたりに出たのだが、正直、並んだホームの両端はすでに霞んでいた。

列車の案内板に並ぶ行き先名が、ドイツどころかヨーロッパ中の聞き覚えのある有名な街の物ばかりで腰が抜けそうになった。

こんな中からフライブルグ行きを見つけるなんて、僕一人では絶対に無理だったと改めて確信した。


そんな中、夕子さんは、エスカレーターを降りてすぐにある、列車をかたどった露店のグミ屋さんを見つけて目を輝かせていた。


夕子さんの列車の時間にはまだ少し余裕があったので、駅のホームに近いスタンドで、少し遅めの昼食を僕達は取った。


「折角のドイツ上陸記念だし、本当はここでビールとソーセージで乾杯!

 って、いきたいのは山々だけど、旅はまだ長いから、今日のところは

 これで乾杯ね!」


と言って夕子さんが差し出してくれたのは、缶コーラと、紙ナプキンに包まれたサンドイッチだった。


「あれ?

 あれれれ?」


紙ナプキンを開けて、パンの隙間を覗き込む夕子さん。

なんだか不思議そうな顔をしている。


「折角だから『ソーセージの挟んであるやつ。』 ってお願いしたのに、

 挟まってるの、ハムだわ・・」


と、ガッカリしていた。

確かに灰色でボソボソとした少し酸っぱいパンに挟まれていたのは、

ソーセージではなくて、見たこともないようなハムが二切れと、これまた見たことがないような、石鹸のような食感の薄いチーズだった。


実は夕子さんの注文の仕方は間違っていなかった。

ドイツ語でソーセージを意味する「WURSTヴアシュト」という単語は、実はソーセージという意味ではなくて、「お肉の腸詰め」の総称だったのだ。

ソーセージのように細いのもWURST(ヴアシュト)なら、ハムみたいに太いのもWURSTヴアシュトなのだ。

日本で言えば、そうだな、「漬物つけもの」みたいな感じだ。

細かい違いは、明確な商品名で区別しているのだ。

奈良漬けだったり、野沢菜だったり、たくあんだったり、浅漬だったり。

漬物=たくあん だと思って、「漬物」を注文してたら、野沢菜が出てきてびっくりした。

という話しだったようだが、まだこの頃の僕には何が起こったのかなんて分かるはずもなかった。


ただ、夕子さんと食べる地味な味のボソボソとした酸っぱい灰色のパンのサンドイッチは、それまで食べたどのサンドイッチよりも美味しく感じた。


その席で僕達は、お互いの列車のチケットを見せ合った。

僕の便は、案の定、オヤジの恩師の計らいで、2時間後に出る列車だった。

ちなみに夕子さんの便は、この次の便だった。


夕子さんは、僕のチケットを取ると、そのまま駅の窓口で、次の便のチケットと交換してくれた。

そして持っていた米ドルの紙幣も、ドイツマルクの紙幣に交換してくれたのだった。


本当に夕子さん様々だった。





僕達を乗せた特急列車は、のどかな田園風景の中を南へと向かって走っていた。

窓から差し込む柔らかい昼下がりの日差しは、夕子さんを優しく照らしていた。


ドイツの列車は日本の物とは違って、6人掛けの個室になっていた。

3席が向かい合わせになって1つの個室だ。

その個室が、通路にズラッと並んでいた。


僕達の個室には、僕と夕子さんだけだった。

僕と夕子さんは、お互いに向き合うように窓側の席に座って、流れる景色を見ながら


「この畑は麦かなあ?」

「あっちのあれは、ワイン用のぶどうじゃない?」

「あ!あっちの山の上!古城が見えるよ!」


なんて話しに花を咲かせていた。


少し開けた窓からは、春の風が流れこんでいた。

窓辺には二本並んだコーラの缶と、円筒状の「ぽてち」の箱が、列車のカタンコトンというリズムに合わせて小さく揺れていた。


シュトゥットガルトという、聞き覚えのあるような無いような駅を過ぎたあたりで、夕子さんは少し寂しそうな顔をした。



「リュウジ君?

 わたし、次で降りなくちゃ。」


もう少し、この時間が長く続いて欲しいと思ったのだけれども、これ以上夕子さんに迷惑をかけれないと思って、僕は目一杯微笑んで


「ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう! 夕子さん!」


と、伝えた。


夕子さんの瞳は、なぜだか少し赤くなっていた。


夕子さんはバッグから小さな手帳を取り出すと、さささっと何かを書いて、ピリリと破いて僕に手渡した。

それは夕子さんのこれから通う大学の名前とアドレスだった。


僕も慌てて、バッグから出発前にオヤジに買ってもらった黒皮のビジネス手帳を取り出すと、今晩から2泊するホテル、そして語学学校、さらに来年から通うホテル学校のアドレスを書いて夕子さんに手渡した。

夕子さんはやっぱり少し寂しそうにしていた。


「リュウジ君。

 わたしは次で降りちゃうけれど、止まる駅の名前には注意してね。

 フライブルグで降りるんだよ。」


僕はニコリと微笑んだ。


「乗り過ごしちゃダメだよ!

 乗り過ごしちゃうとこの列車、スイスのバーゼルまで行っちゃうからね!

 国境越えちゃうからね!」



いや・・それは知らなかった。

初耳です。


僕はとたんにまた心細くなったけれど、グっと親指を立てて強がる事にした。

夕子さんは少し心配そうな顔をした。


列車のアナウンスが「カールスルーエ」の名前を告げると、名残惜しそうに夕子さんは身支度を始めた。


そしてゆっくり、ゆっくりと、僕達を乗せた列車は減速を始めた。


「今日のところはこれでお別れだけど、また絶対会おうね!

 アパート見つかったら連絡するから、絶対遊びにきてよね!」


「いっぱいいっぱい色んな所に案内するから!

 その時はちゃんと、ソーセージとワインで乾杯だよ!」


「リュウジ君も、これから大変だと思うけど、ドイツ語の勉強がんばってね!

 わたしもフルートがんばるからね!」


今日一日、知り合ってからずっとそうだったように、夕子さんは機関銃のように、いっぱいそう言ってくれて、僕に右手を差し出した。


もう目は完全に潤んでいた。


少し恥ずかしくて戸惑ったけれど、僕も右手を差し出した。


手が触れた瞬間、夕子さんの右手があまりにも小さくて、柔らかいのに驚いてしまったけど、そのまま強く握って、僕達は別れの挨拶をした。


赤い小ぶりなトランクを片手に夕子さんは、個室から出るまで何度も何度も振り返って僕を見た。そんなに僕がフライブルグに着けるのか心配なのだろうか。

そして通路に出ると、夕子さんの姿は見えなくなってしまった。


僕はまたひとりぽっちになってしまった。


列車がカールスルーエの駅に到着し、ふと外を見ると、今さっき別れたばかりのはずの夕子さんが、パタパタと駅のホームを小走りで僕の座る席の窓辺まで駆けてきた。

そしてもう一度


「リュウジ君!

 元気でね!

 がんばってね!

 本当に今日はありがとう!

 本当にありがとう!」


と、言ってくれた。

夕子さんはもう涙でボロボロになっていた。


「夕子さんは大袈裟なんだから。

 ありがとうは僕のセリフですよ。

 夕子さんもお元気で!」


と、言って僕は笑ってみせた。


ほどなくして発車のベルが鳴り、列車はカールスルーエの駅をゆっくりと離れていく。



ホームの夕子さんは、見えなくなるまで両方の腕を大きくブンブン振って僕を見送ってくれた。



こうして僕の、その先5年に渡るドイツ生活が幕を開けた。





実は、この日本から逃げ出した18歳の小僧と、

やはり日本から逃げ出した26歳の美女の物語にはまだ先があるのだけれど、それはまたいつの日か話す事もあるかも知れない。


今日はそろそろウイスキーが切れるんで、俺もそろそろ寝ようと思う。


ああ、その前に、こいつは消さないとな。

あいつに見られても厄介だ。


ま、無粋な俺の話しはとりあえずここまでだ。

あとはまたあいつの一人喋りを楽しんでやってくれ。









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