少年の旅(Ⅱ) ~夢~
困った。
非常に困った。
スチュワーデスが僕の席にキャビアを持って来ないのだ。
第二十四話
少年の旅(Ⅱ)
~ 夢 ~
5月29日。
僕を乗せて飛び立った飛行機の中。
僕はとても困っていたのだ。
日本を発つ前に、何度もイメージトレーニングをしていたのだけれども、1から10まで、何一つそのイメージトレーニング通りに事が運んでいないのだ。
まず、最初の問題は
「この機内には日本語の喋れるスチュワーデスが一人もいない。」
という事実だった。
たぶんこれが最初で最大の誤算だったと思う。
海外留学が決まってからこっち、テレビで飛行機が映る場面があれば、極力意識してそれを見る事にしていた。
そのどれもが、機内でくつろいでいると、金髪で日本語の堪能なスチュワーデスが、やれ飲み物だ、やれ機内食だと、事ある毎に何かを話しかけて来て、長い空の旅もそれほど退屈はしないだろう。
そう思っていたのだ。
それが、どうしたことだろう。
想像したのとは違って、英語で話しかけてくるのだ。
僕は困ってしまって、辺りを見回したのだけれども、あいにく日本人らしいスチュワーデスの姿は何処にもなかった。
無論、キャビヤやシャンパンなんて物も持っては来てくれなかった。
それでも何度か話しかけられはしたのだけれど、何を言っているのかサッパリ分からず、とにかく僕の口から出るのは「ノーサンキュー」の一言だった。
さて、もう一つ困った事がある。
それは、飛行機が離陸してシートベルトのランプが消えると同時に、機内の明かりも暗くなってしまったのだ。
僕以外の乗客達は、機内の明かりが消えると、とっとと席をリクライニングさせて、毛布をかぶって寝てしまった。
さすがにそれには僕も唖然としてしまった。
飛行機の中が暗くなるなんて知らなかったのだ。
そして僕は、緊張のあまり、寝るタイミングを失ってしまったのだった。
機内で映画は放映されていたものの、字幕もない海外の映画でワケが分からなかった。
しかたなく窓の外の景色でも見ようと思ったのだけれども、生憎窓から見えるのは、夜の闇だけだった。
それでも時たま、暗い闇の中でポツンポツンと小さな明かりが見える事があったのは嬉しかった。
ああ、それともう一つ困った事がある。
どうにもやる事が無かったので、持ってきたMDプレーヤーを取り出して聴いていたのだけれど、バラード系が好きな僕の編集したMDはバラードばかりが入っていた。
夜の闇と緊張と孤独とバラード。
この取り合わせはあまりよろしくなかったようで、僕は益々滅入ってしまった。
ふいに肩が叩かれた。
思わず僕は座席の上でビクついて横を見ると、
金髪の青い目がそこにはあった。
スチュワーデスだった。
僕は思わず「ノーサンキュー」と口走った。
「英語・・
もっと勉強しておけば良かったな。
ごめんよ、中野先生・・」
そんな独り言と後悔をし始めた頃になって、僕はようやくウツラウツラと夢の入り口に立っていた。
四ヶ月前。
高校三年生の1月。
女性で新任の英語教師の中野先生に呼び出しをくらった僕は、極寒の廊下を職員室に向かって歩いていた。
吐く息はもちろん白く、歩く度に太ももをこするズボンの裏地も、肌が凍えているからか、妙にサラサラと冷たかった。
中野先生が僕を呼び出した理由は職員室まで行かなくても、だいたい見当はついている。
高校生活最後の英語のテストの結果が悪かったのだろう。
小学校の時も、中学校の時も、この高校に上がった時だって、そこそこ勉強は頑張っていたし、クラスではいつも上の方だった。
でも去年、留学を決めた時から自分の中での勉強に対するモチベーションがガクリと落ちてしまった。
大学に進学する訳でもないし、ドイツに行くのに英語を勉強する必要もないように思えたからだ。
そんな思いもあって、僕の成績は高校2年のある時期を境にガクリと落ちた。
僕は教室棟と特別教室棟を繋げるさらに極寒の渡り廊下を歩いていた。
2階の渡り廊下は積雪で通れなかったから、1階の渡り廊下を進んだ。
途中に購買部が見えて、その脇にはベンチが向かい合わせて置いてある。
いつもはそこで話している学生の姿もみるけれど、今の時間、そこはモヌケの殻だった。
職員室の中は天国だった。
物凄く温かい。
カタカタと石油ストーブの上で湯気とともに揺れるヤカンの先に、中野先生の姿が見えた。
何やら机の上にテストの答案用紙を広げて、腕を組んでため息をついている。
おそらく小言は避けられないだろう。
そうなれば、先手必勝だ。
僕も中野先生に慌ててお願いしなくてはならない事があったので、まずそれを伝えようと僕は考えたのだった。
「困っています。
早急に英語が喋れるようにならないと、飛行機がコペンハーゲンに到着してしまいます。正直僕の語学力ではフランクフルトに行く自信がないので、コペンハーゲンも到着するまでに英語を話せるようにして下さい。」
と、僕は率直にお願いをした。
「難しいわね。」
中野先生は顔を曇らせた。
「倉田くんの英語力だと、高校三年生を卒業したら、中学校2年に編入してもらう必要があるの。 そうしないと英語はダメね。」
という物だった。
それではあまりにも時間がかかりすぎてしまう。
とてもじゃないけど、この飛行機がコペンハーゲンに到着するまでに全過程を終了するのは無理だろう。
こうして英語を勉強し直す事を断念した僕は、肩を落としてまた極寒の廊下へと出たのだった。
再び渡り廊下に出て、一歩、また一歩と進むと、さっきはだれも居なかった購買部のベンチに座る小さな背中が見えた。
最初はさして気にも止めていなかったけれど、近づくとそれは小さな女の子で、背中を丸めて泣いているようだった。
「ひょっとして迷子にでもなったのだろうか?」
僕はそう思うと、少し心配になって、その背中を丸めてしくしくと無く女の子の正面に回りこんでしゃがんだ。
「大丈夫?
どうしたの?」
僕がその子の顔を覗き込むと、女の子の瞳には大きな、本当に大きな涙の粒がうかんでいた。
僕はその、大きくて輝く涙の粒を見たことがあった。
歯を食いしばり、まるで睨むように気丈に僕を見つめるその瞳の涙は、回りの景色や光をキラキラと反射させて、まるで宝石のように光っていた。
僕は本当に、彼女に申し訳ない事をしてしまった。
後悔の念に胸が締め付けられながらも、不謹慎な事に、僕はその涙の美しさに心を奪われてしまった。
初めて彼女を見つけたのは小学校1年生の時だった。
トレードマークのショートカットで、元気に走り回る彼女は、まるで男の子のようだった。
僕はそのキラキラした存在に目も、心も奪われてしまった。
三年生になって習字塾で一緒になった時はドキドキした。
でも、僕は何も話しかける事はできなかった。
五年生になって同じクラスになり、修学旅行の時も、文化祭のグループ発表の時も同じ班だった。 皆から「おとこおんな!おとこおんな!」と誂われる事の多かった彼女だったけれど、実はその瞳が大きい事、目鼻立ちだってクラスのどの女の子より綺麗だったのを僕だけは知っていた。 本当に簡単なやり取りでも彼女と会話が出来た時の嬉しさは今でも忘れない。
中学に入ると、彼女は少し女性っぽくなった。
確かにボーイッシュなのには変わりなかったけれど、そうれはもう「おとこおんな」という中性的な存在ではなくて、本当に可愛いいショートカットの女の子だった。
彼女の瞳が実は大きい事も、実は目鼻立ちだって整ってて綺麗な事も、僕だけの秘密ではなく、皆がそれに気付いてしまうのではないか?
と、いつも心配ばかりしていた。
気付けばその頃には、僕は完全に彼女の事を一人の女性として大好きになっていたのだと思う。
そして今、僕の大好きなその瞳には、大きな宝石みたいな涙の粒が浮かんでいる。
涙が溢れないように。
泣かないように。
必死に我慢して僕を睨みつけている。
形の良い唇も、ギュっと真一文字にして歯をくいしばっている。
僕とは違う高校へ行ってしまった彼女のブレザーの肩が震えていた。
「どうして美咲にキスをした!」
「どうして美咲を抱きしめた!」
「どうして美咲にもう好きじゃないなんて言った!!」
それだけ言って、僕が大好きだった尾折優という女の子は、その場で泣き崩れてしまった。
一度堰を切ると尾折の涙は止まらなかった。
大きな口を開け、まるで絞りだすように叫ぶと、声にはならない声で尾折は泣いた。
その大きな瞳からは相変わらず大粒の涙が溢れだしていて、その涙は頬を伝う事無く直接床へとぽとぽと落ちた。
僕の足元のコンクリートには、みるみるうちに濃い灰色の水玉模様が広がった。
僕は必死に彼女にかける言葉を探したけれど、思い付くどの言葉も自分を守るための言い訳にしかならない気がして、何度も「ごめん」 と言い出して、言葉が見つからずに口を瞑り、そしてまた「ごめん」と口に出すのが精一杯だった。
どんなに言葉を探しても、結局「ごめん」に続く言葉は見つからなかった。
あんなにも大好きだった娘を、僕はこんなにも泣かせてしまっているのに、
僕はそれを見て立ち尽くす事しかできない。
なぜなら彼女は、今僕を心底嫌ってしまったのだから。
もう「倉田くん」と「尾折さん」にさえも戻れないのだ。
僕はそれを痛感しながら立ち尽くす事しかできないでいた。
情けなくて見上げた空はすでに深い群青で、空の端っこの方にはもう星が見えていた。
沈んでしまった太陽は、まるでこのまま消えて無くなるのが名残り惜しいかのように、西の空と羊雲の絨毯だけを、鮮やかなピンクに染め上げていた。
人は、これほどまでに大粒で、これほどまでに止めどなく、誰かのために涙を流せるものなのだ。 と、僕は初めて知った。
いつもと同じ夕暮れ時。
いつもと同じ公園に飾られた、もう走る事のないSLと、
色の剥げかけた公園のベンチ。
いつもと同じ、二台並んだ僕達の自転車から伸びる長い影。
いつも偶然を装って、同じ時間に駅を降りて、二人で自転車を押した帰り道。
もうこの場所へ来る事も、尾折優という女の子に会うことも、
二度と無いのだと僕は思った。
手に握ったポカリスエットの大瓶は、もうすでにぬるくなっていた。
こいつはいつも蓋を開ける時、必ず少し溢れるから、僕はこいつにあまり良い思い出がない。
思わず肩を叩かれて飛び上がってしまった。
ふと目を開けると、そこには見慣れた大きな黒い瞳ではなくて、金髪の青い目があって驚いた。
どうやら僕はいつの間にか寝てしまっていたようだ。
スチュワーデスは、シートベルトの着用のランプを指さしながら何かを言っていた。
僕の頬が涙で濡れていて、それに気付いてちょっと恥ずかしかったけれど、こんな時言葉が通じないと、不思議と気が楽なのには助けられたような気分だった。
そうして僕は生まれて初めての外国の地を踏むことになった。
一言もまともに英語も喋れないままに。




