優の長い一日(Ⅳ)星空の下の二人
その日、麻子ちゃんの姿は、お宿のどこにもありませんでした。
第十二話
「優の長い一日(Ⅳ)星空の下の二人」
この日は梅雨時期の平日という事もあり、お宿はさほど忙しくはありませんでした。
急きょ麻子ちゃんの代わりに出勤してくださった佐藤さんも、上村のおばちゃんと肩を並べる当旅館のエースです。
これくらいの客入りの日であれば、アシスタントなんていなくても、この二人だけでどんどんお部屋が片付いて行きます。
何かあったと言えば、私くらいでしょうか。
吉乃ちゃんの話しを聞くと、突然佐藤さんと休みを交代してもらった麻子ちゃんは、朝から慌ててお宿を飛び出して行ったのだそうです。
「夕方までには戻ります。」
と、言い残して出ていったらしいのですが、もうすでに時間は夜になってしまいました。
麻子ちゃんは依然戻っては来ません。
今まで、少し不可解な行動はあいましたが、お宿に勤め始めてからこれまで、シフト通りに出勤してきた真面目な娘です。
ましてや、誰かに休みを交代してもらう。
なんて事は一度もありませんでした。
ひょっとして、神奈川の実家に・・
そんな想像が頭をよぎってしまいます。
働き始めて三ヶ月、そんな事があってもおかしくない時期と言えば時期です。
ちゃんとお話をしよう。
そう決めたのに、もしかしたら間に合わなかったのかも知れない。
そう考えると、とてもやるせない思いでいっぱいになります。
私の身に起きた事件は。
と言うと、実は大した事件ではありません。
常連のお客様に捕まったのです。
出勤して、フロントの予約台帳を確認していると、嫌な名前を発見してしまいました。
愛知県の営業所の「洞木」という担当者の名前です。
会ったことはありませんが、私、この人とても苦手なのです。
この人はいつも、一癖も二癖もある強烈なお客様ばかりをうちの宿に送ってくるのです。
今回、この洞木さんが送って下さったのは、谷口様というご夫婦でした。
はい。
あたしよく知ってます。
このご夫婦。
一見とてもいい雰囲気の老夫婦で、奥様はいつもにこにこしてみえる優しい方なのですが、ご主人様が問題なのです。
初めて洞木さんの担当でご来館してくださった時なんかは、まさに強烈の一言でした。
「風呂がぬるい!」
「浴衣が小さい!」
「酒もぬるい!」
「夜中に腹が減ったからおにぎりを握れ!」
そんな内線電話のオンパレードでした。
その都度私は走り回って謝って、新しい物を準備して。
とにかくもう、翌日は筋肉痛でした。
そしてこんなに走り回ったのに、お帰りになる際の捨て台詞が
「こんな宿、もう二度と来てやるもんか!」
なんですよ。
ひどくありません?
私、しばらくの間落ち込みましたもん。
でも、なんてことありません。
次の季節の変わり目には
「よ!女番頭!
また来てやったぜ!」
なんて言って、ご夫婦でみえるんですもの。
こんな感じで愛知県の営業所の洞木さん。
この人が送ってくるお客様は強烈な方ばかりなのですが、恐ろしい程のリピート率なのです。 だからモンクの一つも言いたくても言えなくて悔しいです。
洞木。
いつか覚えてろ。
「あらあら。
谷口のおじいちゃん、今晩いらっしゃるのね?
優姉、頑張ってね・・」
吉乃ちゃんが、台帳を広げてうんざりした私を覗きこんで、少し哀れんだような顔をすると、売店からウコンの力を持ってきてプレゼントしてくれました。
そうなんです。
私、夕食時はこのご夫婦に拉致されるのが習わしになっているのです。
この谷口夫妻、普通の中居さんの配膳ではお料理にお箸をつけてくれません。
「女番頭はどうした!
女番頭に料理を持ってこさせろ!」
こんな感じです。
そして私が夕食の配膳を終わらすと、そのまま晩酌に付き合わされてしまうのです。
さすがに最初の頃は、勤め人で番頭の私が、仕事中にお客様につきっきりになって、一緒にお酒をいただくという行為は、さすがに社会人としてのルールに反すると思い、大女将に相談したのですが。
「あらあら。
優ちゃん、いいんじゃない?
たまには。」
なんて笑われて終わってしまいました。
それからというもの、このご夫妻が来館される時は、ウコンの力が必要不可欠となっています。
私は諦め顔で携帯電話を取り出すと、酒屋のオヤジさんに地酒の追加発注をしました。
その夜、結局私が谷口夫妻から開放されたのは、持参した地酒の一升瓶も空になり、ご主人が大の字になって大イビキをかきはじめた頃です。
いつもは谷口社長の隣で、ニコニコしてるだけの奥様が珍しく
「いつもいつもごめんなさいねえ・・
この人、あなたの事、気に入っちゃったみたいで。
私達子供がいないから、あたの事、娘みたいに思ってるみたいで。」
と、言ってくださいました。
良かったです、息子じゃなくて・・
「いえいえ。
こちらこそ、いつも楽しいです。
ありがとうございます。」
と、私もお礼を言って立ち上がると、晩酌のお酒が来たのでしょうか、少し足がもつれました。
私は足元が頼りないものの、慣れた手つきでテーブルの上を片付けて、布団を二組並べて敷きました。
そして、大の字で転がって高いびきをかく谷口のおじさんを、なんとか布団の上まで転がそうと思ったのですが、布団のマットレスの厚みが厚くて、うまくいきません。
「ふふふ。
いいんですよ。
どうせ寒くなったら自分で布団に入りますから。」
奥様は笑っています。
私は恐縮しながらお礼を言うと、畳の上で寝ている谷口のおじさんに掛け布団だけ掛けて部屋を後にしました。
すこしふらつく足で、手すりを頼りに階段を降りて厨房に戻ると、すでに中居さん達の「お疲れ様」の女子会が始まっていました。
時間は九時を回ったあたりなので、いつもより一時間程早い女子会です。
やはり梅雨時の平日です。
おそらく上村のおばちゃんと、佐藤さん。
この二人が無双しながら各部屋を回ったんでしょうね。
なんだか、とても申し訳ない気でいっぱいになります。
今日の私、仕事には来たものの、ほとんど仕事になってません。
「ごめんなさい・・
あたし、仕事できなくて・・」
私は素直に、女子会に集う皆に謝りました。
「何いってるの?
今日一番の功労賞はあなたでしょ?
谷口さんのお守り、毎度毎度お疲れ様。」
そう言って上村のおばちゃんが笑ってくれました。
吉乃ちゃんも、他の皆も笑っています。
でも、やっぱりこの場にも麻子ちゃんの姿はありませんでした。
「麻子ちゃんは?」
私が吉乃ちゃんにそう尋ねると、吉乃ちゃんは少し心配そうな顔をして、首を横に振るだけでした。
「優ちゃん。
あなた今晩夜勤なんでしょ。
私がそれまで番しててあげるから、今のうちにお風呂いただいてらっしゃい。」
上村のおばちゃんが、お煎餅をかじりながら、そんな事を言って下さいました。
そうでした。
今日は夜勤でした。
お宿の夜勤の内容は、電話番と、ボイラー番、それと万が一の時のためです。
夜中に客室のボイラーが止まると、エラーを解除しないといけませんし、谷口のおじさんのように、夜中に「おにぎり握れ」なんて事も、極々まれにあります。
普段はこの役目は、旅館の離れに住んでいる社長の仕事です。
でも、今日みたいに、社長が泊まりがけの会合にでかけられる日は、私か沼さんにその番が回ってきます。
「ありがとう、おばちゃん。
お言葉に甘えて、お酒抜いてきます・・」
私は上村のおばちゃんにそうお礼を告げると、控室のロッカーから着替えの入ったリュックを持ちだして、お風呂へと向かいました。
西山荘の温泉は、宿泊のお客様であればどの時間でも入れます。
100年も前からある温泉ですので、昔ながらのお風呂です。
大きな露天風呂なんかもありません。
代理店の方には
「せめて露天風呂があれば・・」
と言われるのですが、現状それを作る場所がありません。
お庭は広いのですが、大女将が愛したお庭をお風呂のために潰す。
というのは、たぶん誰もやらないと思います。
今日は客入りも今ひとつだったためか、お風呂場には誰もみえませんでした。
私は脱衣所で服を脱ぐと、リュックサックの中からシャンプーとコンディショナーを取り出しました。
私の髪の毛はいわゆる「猫っ毛」で、お風呂に備え付けのリンスインシャンプーでは、髪の毛がバリバリになってしまうのです。
リュックサックの中に、ペットボトルが見えました。
出勤前に一口しか飲めなかった緑茶です。
私は谷口夫妻のところでいただいたお酒で少し喉が乾いていたので、ペットボトルを取り出すと、キャップを開けて口をつけました。
酔った体に染みわたる緑茶が美味しくて、一気に半分くらい飲んでしまいました。
ふと、脱衣所にある洗面台の、大きな鏡を見ると、腰に手を当て全裸でお茶のペットボトルをラッパ飲みする女がいました。
はい。
私です。
こりゃあ、当分嫁には行けそうにないです。
私は浴室に入ると、いつもは先に体を洗うのですが、今日はかけ湯だけして湯船に向かいました。 早く熱いお湯でお酒を抜きたかったのです。
西山荘のお湯は少し熱めで、つま先を入れた瞬間にピリピリとした電気のような物が、足先から頭に向かって流れます。
そして、少しづつそのまま足を沈めていき、肩まで浸かるとほろ酔いの頭が少しスッキリとしました。
私は湯船に浸かりながら、賑わしかった今日の事や、麻子ちゃんの事、自分の事、色んな事を考えていました。
ふと、VTZの事も思い出します。
大怪我してなければいいなあ。
来週の能登ツーリングまでに直ればいいなあ。
そんな事です。
自分の将来。
なんて事も考えてしまいました。
仕事はね。
この宿での番頭。
これは一生やってこうと思います。
問題は私です。
とうとう昨日二十八歳になってしまいました。
赤ちゃんが生まれるのに10ヶ月で。
結婚して、しばらくは二人で過ごしたいし。
何より、知り合ってすぐ結婚も怖いから、お付き合いは最低1年以上したいです。
なんて、理想がいっぱいつめ込まれた逆算をし始めたら、気が重くなってしまいました。
その調子で行くと、明日お相手が見つかったとしても、30歳までには全行程が終わりそうにありません。
足がかなり出てしまいます。
そう言えば、中学や高校時代の同級生の達は、もう半分以上が結婚して、赤ちゃんがいたりします。
美咲みたいに、結婚が早かった娘だと、同じ年なのに、子供はもう小学校通ってたりもするんです。
ゾッとします。
残った独身組も、結婚カウントダウンな娘が多いです。
現在彼氏のいない残り少なくなった少数派は、一生懸命出会いを求めて、街コンや合コンに頑張って顔を出している。
って聞きます。
「あたしももう、そういう年なんだ・・」
そう考えると、もっと出会いに前向きにならなないとダメな気もするんですが、眼の色を変えてまで合コンに参加する。 っていうのは何だか違う気がして。
もともと、あまり女女したのが、私苦手なんですね、きっと。
それに、合コンに出て、沼さんよりもかっこ良くて、小粋で素敵な男性や、隆二のように一緒にいて楽な男性と知り合える気がしません。
ある意味、私は回りの男性に恵まれすぎているのでしょうか。
「でも、どっちもバツついてるしなぁ。」
私は思わず湯船に頭を突っ込んでしまいました。
やっぱり私、恋愛慣れしてなさすぎなんです。
昔、美咲が言ってました。
「どんなに好きだった男でも、違う女と結婚しちゃうと、『違う人の物』としか見れなくなちゃうんだよねえ。 そうなると、もう恋愛相手には見れないねえ。」
って。
たぶん、それとはちょっと違うのかもしれませんが、やっぱり
「結婚するくらい大好きだった人がいた。」
という事実は、私の中でバリアのようになって、気持ちが行き止まりになってしまいます。
自分で自分を潔癖症だとは思いませんが、きっと28にもなって、まだまだおこちゃまなんです。
割り切れないんです。
でも、谷口のご夫婦とか見てると、やっぱり憧れてしまいます。
老夫婦、そう呼ばれる年になっても、3ヶ月に1回は二人で旅行して。
「いいんですよ。
寒くなったら、勝手に布団に入りますから。」
なんて言える関係。
私の幸せの形って、一体全体、どんなんなんでしょうね・・
私が大きなため息をついていると、背中側にある脱衣所の扉が開きました。
「優姉?
まだ入ってる?」
「うーん。
まだ入ってるよー。」
声の主は吉乃ちゃんでした。
「今ね、麻子ちゃんから電話があったよ。
ちょっと遅れるけど、もうちょっとで戻れます。
だってー。」
私は少し胸をなでおろしました。
とりあえず、麻子ちゃんは神奈川に逃げ帰ったわけではない。
そう思うと、嬉しい気持ちが沸いてきました。
また麻子ちゃんと話せる。
やり直せる。
今度はもっとちゃんと麻子ちゃんと向きあおう。
そんな感情が湧いてきます。
「良かったね、優姉!
じゃあ、折角だし、久しぶりに一緒にはいろ。」
そう言って、吉乃ちゃんも浴室に入ってきました。
私のすぐ後ろに立った吉乃ちゃんは、ちょんと可愛い足先で湯船をツツキます。
「あつい!
やっぱうちのお風呂熱いよお。」
なんて可愛い事を言いながら私の隣に座りました。
離れの自宅に普通の家庭用のお風呂がある吉乃ちゃんは、普段はそっちでお風呂に入ります。
吉乃ちゃんの細い肩が、湯船の中で私の肩に触れます。
こうやって二人でお風呂に入っていると、子供の頃を思い出します。
子供の頃は、よくちっちゃな吉乃ちゃんと一緒にお風呂入ったもんです。
吉乃ちゃんが、ちょこんと私の肩に頭を乗っけて来ました。
たぶん吉乃ちゃんも子供の頃を思い出して、甘えたくなったのでしょう。
私も頭を少し傾げて、ちょこんと吉乃ちゃんと頭をくっつけます。
「くすくす」
吉乃ちゃんの小さな笑い声が聞こえます。
吉乃ちゃんの顔を覗き込むと、私を見上げて微笑んでます。
私もほほえみます。
微笑んだのですが、顔がちょっぴり引き攣ります。
だって、そこには子供の頃とは違う、不公平なくらいな膨らみが湯船に浮いているんですもの。
吉乃ちゃん。
ちょっと分けて。
髪を乾かして厨房へ戻ると、私のお風呂が終るのを待っててくれた上村のおばちゃんが、週刊誌を読みながらお茶を飲んでいるだけで、すでに他の中居さん達の姿はありませんでした。
「おばちゃん、ありがとう。
お先にお風呂いただきました。」
私がそうお礼を言うと
「なあに、困った時はお互いさま。
留守番してる間は、お客様の内線は無かったよ。
外線は麻子ちゃんからあっただけだね。
もうすぐ戻るみたいだよ。」
と、教えてくれました。
私はもう一度お礼を言うと、上村のおばちゃんと宿直の番を交代しました。
宿直の番、と言っても、上村のおばちゃんみたいに、お茶と週刊誌で一晩中厨房に座っている訳ではありません。
ちゃんと宿直室があるので、そこで今晩は泊まるのです。
私はまだ終わっていなかったフロント業務を終わらせます。
そしてレジ銭を金庫に片付けると、戸締まりや、ガスの元栓のチェックを始めました。
ひと通りの出入口は施錠したのですが、いつ麻子ちゃんが戻って来てもいいように、勝手口だけは鍵を締めずにそのままにしておきました。
そして電話を宿直室へ転送すると、厨房やフロントの電気を消しました。
築100年近いこのお宿の客室は、自慢のアルプスが見えるお部屋がほとんどなのですが、構造上どうしてもそれが見えないお部屋がいくつかあります。
そういうお部屋が宿直室や、寮として使われているのです。
私や沼さんがたまに寝泊まりする、この宿直室も、窓から見える景色は駐車場です。
何十年前かの大改装までは、ここもちゃんと客室として使われていたそうですし、今でもたまにツアーの添乗員さんの宿泊部屋として使用されるので、多少お部屋が小さいのと、窓からの景色が悪いの以外は、基本的にあまり客室と変わりがありません。
私は、お酒とお風呂で火照った体を冷やしたくて、窓辺に座って夜風に当っていました。
窓から見える景色は駐車場です。
これは、お宿の正門からさらに奥に坂を登るとあります。
今見えるのは、駐車場に止まったお客様のお車と、マイクロバスが収納されている大きなテントと、冬場の除雪機なんかが収納されている納屋です。
この納屋はわりと余裕があって、昼間は中居さん達の自転車置き場になっていたり、バイク通勤の時の私のバイク置き場になっています。
麓へと下りる坂道には、等間隔で電信柱が立っていて、今はそこに取り付けられた街灯の明かりが、ぽつぽつと灯っています。
真っ暗な田んぼからは蛙の大合唱も聞こえます。
もう少し下には、繁華街のネオンが見えます。
繁華街のネオンも色とりどりの光がして綺麗なのですが、今日はやっぱりお空の勝ちのようです。
梅雨の合間だと言うのに、窓辺から見える空には満天の星が輝いていました。
ふと携帯電話が光りました。
メールの着信のようです。
差出人は隆二でした。
どうやらVTZは不幸中の幸いで、バッテリーとレギュレーター以外では、イグナイターという機械が壊れてただけで、後は無事だったそうです。
バッテリーはネット通販で安価な中国産を。
レギュレーターはヨツバモータースのスクラップ置き場から、違う車種の物がタダでもらえたそうです。
あとはイグナイターという部品ですが、これはネットオークションで5000円くらいで中古があるのだそうです。
これもすでに落札出来たそうなので、来週のツーリングには修理も終るみたいです。
費用も全部で8000円くらいで終るそうで、本当に助かりました。
隆二。
いつもありがとうね。
VTZの件が一段落したのと、夜風が気持ちいいのと、昨日寝返りばかり打ってあまり眠れなかったくせに、今日色々あったのとで、私は窓辺で少しウトウトしかけていました。
ふわふわと、坂道に沿って点々と光る電信柱の街灯のオレンジ色が揺れています。
中でも、並んだ一番最後の街灯の光は、右へ左へと本当に大きく揺れています。
あれ。
大きく揺れている明かりは、なんだか街灯とは違うみたいです。
ゆっくりですが、坂道を登って来ます。
耳を澄ますと、蛙の大合唱に混じってエンジンの音も聞こえる気がします。
本当にゆっくり、ヨロヨロと登ってくるその明かりは、どうやらオートバイのようです。
坂道を登って、徐々に近づくにつれて、街灯に照らされておぼろ気ながら姿が見えてきました。
そして西山荘の駐車場のあたりまでようやく登って来た時に、とうとう力尽きるように倒れてしまいました。
乗っていた人も、バイクから放り出されるように転がってしまいました。
オレンジ色の街灯に照らされて、ヘルメットの下の大きな三つ編みが揺れました。
次の瞬間、私は考えるよりも先にパジャマ姿のまま走りだしていました。
勝手口に向かい廊下を駆け抜けます。
そして早足で階段を駆け下りると、施錠していなかった勝手口に出ました。
とりあえず、一番最初に目についた木製のツッカケに足を通すと、駐車場へと向かう石段を一段抜かしで駆け上ります。
麻子ちゃんだ。
あれは、麻子ちゃんだ。
どうして麻子ちゃんがオートバイに乗っている。
なんて疑問はありませんでした。
ただ、麻子ちゃんが倒れた。
助けなきゃ。
それしか頭にありませんでした。
駐車場を駆け抜けた先に、一台のオートバイが倒れていました。
さっきヨロヨロと坂道を登ってきたオートバイです。
左側のウインカーとミラーが割れています。
そしてその横に、うずくまるようにして麻子ちゃんが倒れていました。
よく見ると、足首がバイクに挟まれています。
「麻子ちゃん!
大丈夫なの!?」
私が思わずそう叫ぶと、倒れている麻子ちゃんは、力なく
「あ・・
番頭さん・・」
と返事を返してくれました。
少しだけホッとします。
意識はあるみたいです。
私は大慌てで、まずは麻子ちゃんのバイクに挟まれた足首をなんとかしなければ。
と思いました。
倒れたバイクのハンドルを持って、タンクの下に腰を入れて同時に立ち上がります。
然程重くないバイクのようで助かりました。
でも同時に
「ボクヲモウシズカニネムラセテクダサイ・・」
という力のない声が聞こえたような気がします。
見た感じ、250CCでしょうか。
私のVTZと同じ雰囲気のある、ワインレッドとクリーム色のツートンカラーのネイキッドタイプです。
タンクにはメーカーの名前は書いてありませんでした。
その代わり、何やら筆で書いたような横文字と、跳ね馬のイラストがありました。
私はなんとかバイクを起こすと、倒れている麻子ちゃんに駆け寄って、すぐ横にあった電信柱に麻子ちゃんをもたれさせました。
「麻子ちゃん。
大丈夫!?
大丈夫!?
麻子ちゃん!?」
私はそう言って、麻子ちゃんの両腕を掴みました。
右手の手の平に、ぬるりとした感触があります。
慌てて見ると、そこには麻子ちゃんの血が付いていました。
麻子ちゃんの左腕は、ジャンパーが破れて、擦り傷で血が滲んでいます。
太もものあたりも、ズボンが破れて、少し血が滲んでいます。
顔を上げた麻子ちゃんは、力なく笑っています。
トレードマークの大きな眼鏡も、片方が割れていました。
「麻子ちゃん!
とにかく今はお宿に戻って傷の手当しなきゃダメ!」
私がそう叫ぶのに、麻子ちゃんはゴソゴソとウエストポーチをあさりはじめました。
そしてお財布を取り出すと、中から一枚のカードを抜き出して私に見せてくれました。
見るのも痛々しい姿で、麻子ちゃんは思い切り微笑んでいます。
割れた眼鏡の奥の大きな瞳には、大粒の涙が浮かんでいます。
「番頭さん・・
わ、私もオートバイの免許を取ったんでずよ!」
力いっぱい微笑んで言ったくせに、最後の方は涙声になっていました。
こぼれ始めた涙がポタポタと、次から次へと落ちています。
「でもわたし・・
運動神経にぶいから、4回も試験におちちゃいました。」
「うん・・」
「何度も転んじゃって、怪我ばかりして・・
今日やっと免許もらえたんです。」
「うん・・」
「私・・
ずっと部屋に引きこもってて・・」
「うん・・」
「最初は友達とちょっと気まずいだけだったのに
気がついたら外にでれなくて・・」
「うん・・」
「お父さんも、お母さんも、そのうち何も言わなくなって・・」
「うん・・」
「番頭さん、そんな私の話しを面接で一生懸命聞いてくれて・・」
「女の人なのにカッコよくって・・
女の人なのにオートバイ乗って、怖い顔の男の人も怖がってなくって・・」
「わだしもオートバイの免許とりましだ!
お宿で働いたお金でオートバイも買いましだ!
わだしも番頭さんみたいにつよぐなれまずが!?」
そして麻子ちゃんは泣き崩れました。
私は麻子ちゃんを抱きしめていました。
「わたしも番頭さんみたいに強くなりたいよおおおおおおおおお。」
麻子ちゃんの叫ぶ涙声が響きました。
私だって全然強くないんだよ・・
いつも悩んでばっかり・・
いつも迷ってばっかり・・
いつも間違ってばかりで、全然大人なんかじゃないんだよ・・
そう思うと、私の瞳からも止めどない涙がこぼれ落ちていました。
こんな時、黙って麻子ちゃんを抱きしめてあげられたら、どんなにカッコいいかと思ったけれど、やっぱり私の涙は止まらなくて。
気が付けば満天の初夏の星空の下、蛙の大合唱に混じって私達の泣き声が響き渡っていました。
輝く無数の星とお月様が、そんな私達を見ていました。




