第8話 初恋に妄信した辺境伯と初恋の蕾を手折った墓守
『助けて、誰か!死にたくない、――、に、会いたい……!!』
+++
「………」
アイビーは深い眠りから覚める。
一度覚醒したのだが、周囲に人の気配がしたので目を閉じ眠っているように見せかけた。
『奥様』『お目覚め』『お願い』
アネモネへ死に追い込むほどの所業をしておいて、いざ死んで蘇ったらこの手のひら返し。
全くもって不快だ。
自称夫であるジャレッド・ラングハイム辺境伯に手を触れられた――と、いうより握られた時は、寝たふりを止めて殴りかかりそうなった。
カルディア国の娘アネモネとファインブルク王国で暮らすアイビーの魂が馴染んだからか、カルディア国の言葉も大体把握できる。
アネモネの記憶に在る、あの自称夫と初めて顔を合わせた、この屋敷での言葉も理解できた。
『誰だ貴様は!!俺が結婚を申し込んだのはロベリア・リシャールだ!!
姉の結婚を奪ったのか!!今俺の前に居るべきは貴様ではない!!』
『噂通りの淫売が、ロベリアが嘆いていたぞ』
姉に求婚していたことを両親に聞かされず、ロベリアの我儘でアネモネに辺境伯との婚姻が滑り込んだ。
ロベリアが婚姻を嫌がった上、持参金の返還を渋った両親がアネモネを騙して送り込んだのに。
アネモネが此処に来た理由も知らず、自らの妻となる女性に言葉による暴力を振るう蛮族の所業。
アネモネに言ってどうする。婚姻は当主が決めるものだろう。
(……行ったか)
静寂が部屋を満たしたのを確認し、ゆっくりと身を起こす。白いシーツが擦れる音だけが妙に大きく響いた。
窓から差し込む月明かりが、豪華な調度品を青白く照らしている。あの薄汚い物置部屋とは雲泥の差だ。皮肉なものだ——死んで蘇った途端、これだ。
「また、振出しに戻った、か」
面倒なことをしてくれる。
アイビーは深い溜息をついた。そっと、首元の包帯に触れる。縄の痕がまだ痛む。
いや、これはアネモネの痛みだ。自分のものではない。
それなのに、胸の奥がズキズキと疼くのは、アネモネの苦痛だろうか。
(あの男、何を考えている)
ジャレッドの手のひら返しに、腸が煮えくり返る思いだった。罵倒し、物置に閉じ込め、食事も満足に与えず——結果、この身体は一度死んだのだ。
それなのに今更『やり直そう』などという気か?
「命も信頼も失墜すればそれまで」
アイビーは唇を歪めた。
「いっそ、悪女アネモネが男と逃げた事にして、持参金なり回収すればいい」
そうすればジャレッドは追加の持参金の代わりに望み通りロベリアを娶れる。アネモネの両親も持参金を返さずに済む。
「誰も困らないのに」
嘲るように呟く。自分は墓守として静かに暮らしたいだけだ。こんな貴族の泥沼のような婚姻劇に巻き込まれる謂れはない。
アイビーが知る由もなかった。
ロベリア・リシャールが今、どこにいるのかを。
彼女が今いるのは、王都の端にある隔離病棟。白く塗り固められた壁と、消毒液の匂いが充満する閉鎖空間。ロベリアは性病に罹患していることに。
複数の男性貴族や役者、見目の良い男と手当たり次第にと関係を持ち、そのうちの一人から感染したのだ。
今や彼女の美貌は崩れ落ちている。
彼女と関わった火遊びの相手に侯爵家の3男が居た。
感染初期だが、アネモネの生家は高位貴族を加害したと莫大な慰謝料を積み重ねられていた。
その額に今度こそ破産してしまうだろう。
リシャール子爵家の屋敷は、借金のカタに他の貴族に献上されることだろう。
その事実を知ったとしても、アイビーとしては燃えるような恋を貫き通せと断言するが。
愛する女が性病に掛かったくらいで怖気付く恋は、恋ではない。
性格がねじ曲がっていようが、ケジメくらい付けてしまえ。
そんなに尊ぶものならば一生愛し抜けと。アイビーは断言する。
もっともロベリアの下半身の緩さは問題だし、性病感染防止策を怠った彼等にも非はある。
それが原因で多くの若い男女の人生が破滅した。
しかしアネモネに八つ当たりしたジャレッドは罪を犯した。
知らなかった。では済まされない。
色恋沙汰に妄信する時点で、碌な奴ではない。
(いや、居たな。お馬鹿さんが)
初恋を追って、国を跨いできた馬鹿は知っている。
だが、遥かに理性的だったので落差がキツイ。
(だけど、あの人は知っていた)
決して実らせてはならない恋だと。お互いに知っていた。分かっていた。
分かっていて、アイビーに会いに来た。
ただ、アイビー達が生きていることを知りたくて、ファインブルク王国に彼は留学して訪れた。
アイビーに会うことの意味を知っていながら。
アイビーの、本当の名を呼んではいけないと知っていながら。
この恋を実らせてはならないと分かっていながら、ひと目。会いに来た。
アイビーと彼女の兄が平穏に過ごせているか、それだけを知りたいと願ったという。
だけど。
(私の血は穢れている)
かつて、魔王を倒したとされる勇者の一族、ハンクシュタイン伯爵家が権勢を振るった時代があった。
勇者の末裔。
5百年前に時の王の命で魔王討伐に向かった勇者一行。
表向きは魔王討伐の功績で栄華を極めた彼らだったが……。
彼らは魔王を倒してはいない。
殺害したのは魔獣を制するために逗留していた『世界の調整者』――72の諸侯王の一人。
抑止力を失い、他国へ魔獣たちはなだれ込んだ。
これを魔王の残党と称し、勇者たちは狩り続けた。
時代によっては王家にとっての不穏分子を『魔王の配下』として処刑したという。
勇者・戦士・魔法使い・僧侶が居た。
僧侶は真実を明かそうとして、勇者に殺された。
戦士と魔法使いは勇者に抗ったが、諸侯王から奪った隷属の呪いで生涯勇者の支配下に置かれた。
偽りの栄華を求める為に仲間すら破壊し尽くす外道。それが勇者だった。
勇者の一族は偽りの栄華を極めた。
己が穢した仲間の意思を繋げると嘯き、捨て駒の先兵として戦士を。後方支援に魔法使いを育成した。
僧侶は――。彼らの神に仕えるという性質上、形ばかりであったが。
これを知るのは勇者である本家のみ。
アイビーは何も知らず、他の者と戦士として育てられた。
良心の呵責があったのか、16年前。ハンクシュタイン家当主は、真なる脅威である魔王の存在を調べていた。
戦士の長である父と激しい口論に成っているのを兄と聞いた。
そして。
勇者の逸話が偽りである事を知った。
当主はせめてもの償いに、真の脅威を倒すべくゼフェスゾームの山脈に向かった。
そして、恐ろしい存在――真なる魔王――神の腹心が封じ、そう呼ばれる存在こそが、勇者として倒すべき相手と知った事で、狂った。
その膨大な力を垣間見たことで、自称勇者の末裔は狂気に囚われたのだ。
真なる魔王に憑りつかれたとも噂されたが、真相は分からない。
最後の当主は自らの一族だけでなく、周囲の貴族や王族さえも手当たり次第に殺戮した末、己の手で首を掻き切った。
当主の死を持って、偽りの栄華は終焉を迎えた。
『貴方は隣国の王子でしたか。墓守と長く話すものではありませんよ』
――そんな、血塗られた一族の生き残りに、情を持つべきではないのに。
『わが国も問題は山済みだが、俺と義兄上で良くしていく。そうやって、隣の国もそのまた隣の国も……。我が臣民が豊かで穏やかに過ごせるようにするよ』
――俺の臣民がいる国もまた、俺が愛する国だ。国ごと愛し、良くして行こう。
『…………』
平穏な生活など、許される訳がない。
だけど。
貴方の言葉に温もりを抱く私は、とても歪んでいる。
歓喜に震え、涙する私は酷く醜い。
だから、再会の折。
恋の蕾を手折る事にした。
この恋は実らない。
この恋は、実らせない。
関りを持てば、全ての恨みと悲しみをあの人にも負わせてしまう。
あの人は国を照らす太陽だ。
恋に焼き尽くされて破滅するべき人ではない。
だから、あの人の作る未来に自分は存在してはいけない。
あの人の進む道を闇に閉ざしたくはない。
(困ったことがあれば、私が貴方の大切な人を守るから)
変わらない貴方に出会えただけで、十分だ。
+++
「国ごと、愛し抜く、か」
あの人が言った言葉を、アイビーは生涯忘れないだろう。
王族としての責務を全うしながら、それでも自分を――いや、かつて勇者の末裔として生まれた少女を――見つけてくれた人。
母親が目の前で切り裂かれ、父が血の海に倒れ、養父母に抱えられて逃げ延びた夜。
あの夜から、アイビーの人生は墓守としての静寂に捧げられた。
英霊たちの魂を慰め、彼らが遺した無念を少しでも和らげること。それが、血塗られた一族に生まれた自分にできる唯一の償いだった。
「私が貴方の隣に立つことは、許されない」
それは自分自身への戒めであり、同時に彼への誓いでもあった。ハンクシュタインの血がもたらす破滅を、彼にだけは絶対に及ぼしてはならない。
勇者の一族の因果は、自分一代で終わらせる。それが墓守として、そして『ハンクシュタイン』の残滓としての義務なのだ。
「でも、感謝しています」
兄と己の事を、ずっと忘れないでいてくれた事。
呟きは誰にも届かない。そう呟けば彼に伝わるだろうが、伝えたくなかった。
それでいい。
アイビーの初恋は終わったのだ。
生涯死者を弔うことは、アイビーの責務。
それ程までに、アイビーの一族は数多の命を奪った。
早く、墓守に戻りたい。




