第7話 逃走用の足枷作りに失敗したアイビー
雨脚は想像以上に早く来た。梢を叩く水音が途切れなく続き、濡れた土が靴底に纏わりつく。騎士団長が鬱蒼とした灌木を掻き分けながら苛立ちを募らせた。
「痕跡……消されているな……?」
ジャレッドは泥水を跳ね散らしながら疾走する。息は切れ汗と雨で体は冷え切った。なぜ……?
アネモネは子爵令嬢だったはずだ。これほど完璧に痕跡を消す術など……
五日目の夜明けだった。雨は上がったが湿気は濃厚に漂う。騎士が朽ちた木の洞を見つけ、ジャレッドに囁いた。
「……あそこにいます。微かだが血の臭いが致します」
ジャレッドの鼓動が跳ね上がった。視線の先、藪が僅かに動いた。
木陰から現れたのは栗色の乱れた髪を乱雑にまとめ、擦り切れた白いドレスのアネモネ。
だがその姿は五日前の脆弱さとは明らかに異なっていた。鋭い胡桃色の瞳が無言でこちらを射抜いた。
「アネモネ……?」
囁きが霧散した瞬間だった。アネモネが弧を描くように最前列の騎士を投げ倒しその剣を引き抜いた瞬間。
鈍い音が響き、アネモネの放った蹴りが騎士の膝を逆方向に曲げていた。
アネモネ――アイビーは今は滅んだ勇者の末裔。その戦士の一族に属していた。
逃走か戦闘か。
選択は二つに一つ。
アネモネの身体は万全ではない。
騎士の数から、数体の負傷者を作り逃走するのが最善。
二番目の騎士は腹を剣の柄で穿たれ昏倒する。
「動っな……!」
アネモネの声は低い唸りだった。
死体は作らない。
半端な負傷者は奴らを留める枷になる。
アネモネの細い指が騎士の肘関節に添えられる。相手の体重と勢いをまるで水面に浮かぶ落ち葉のように受け流すと同時に、螺旋を描くように体を捻った。
「──ッ!」
巨漢の騎士が悲鳴を上げる間もなく宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。
衝撃で骨が軋む音がした。アイビーの精神が導く古武術の技は、屈強な騎士たちの予測を遥かに超えていた。
奪い取った剣の柄頭を躊躇なく次の騎士の顎に叩き込む。
「ぐわあぁっ!」
鈍い音と共に骨が砕ける感覚がアイビーの手に伝わったが、アイビーは眉ひとつ動かさない。
アネモネの胡桃色の瞳は爛々と燃え、次々と騎士を無力化していく。
確実に『動けない』状態にする。それが逃走を容易にする唯一の方法だった。
──しかし。
「――はぁ……っ……は……」
(動け、お前の敵ぞ。逃げな‥‥‥)
荒い呼吸が途切れ始めた。栗色の髪が血と泥にまみれ頬に張り付き、痩せこけた肩が激しく上下する。
休息はした。しかし、常に気を張った五日間の逃亡は、本来の身体の持ち主であるアネモネの限界を知らせる。
傷だらけの足が悲鳴を上げていた。
「くっ……!」
身体の負担を最小限に抑えてはいたが、それでも足りなかったらしい。
(もう少し足枷を作りたかったが、やむを得ない)
アイビーは本能的に足を止めることなく疾走に切り替える。しかし身体は鉛のように重く、視界がかすむ。
「──捕らえろ!生け捕りだ!」
遠くでジャレッドの焦燥した号令が響く。だがその声も今のアイビーには遠雷のようにしか届かない。
世界が揺れる。
視界の端でジャレッドが必死に走ってくるのが見えた。彼が「敵」なのか「味方」なのか──答えが出る前に、
アイビーの意識はブラックアウトし、泥だらけの地面に崩れ落ちた。
静まり返る森。
騎士たちは恐る恐る近づき槍を構える。「死んだふりか?」「まだ動くぞ」と囁き合う中、一番近くにいた騎士が痩せた令嬢の喉元に刃を突きつけた。
その瞬間──
「……触れてくれるな。此度の責任は私にある」
地の底から響くような低く冷たい声と共に、ジャレッドが騎士の目前に滑り込む。
泥塗れになりながら駆けつけた彼は、アネモネを憐れな存在として見下ろしていた。
「……担架を。丁重に運べ」
感情を押し殺した命令が下される。意識のないアネモネ(アイビー)の指が微かに震えた。その冷たさを確かめながら、ジャレッドは苦悩に歪んだ顔を上げる。
騎士たちも各々応急処置と治療を済ませ、帰路に着いた。
+++
ジャレッドは荷馬車に並走しながら、担架に載せられたアネモネの手を握り締めた。
指先は氷のように冷たく、かつて愛した女性ロベリアの持つ柔らかさとは対極にある。
これは……罪の証だ。
自分が見誤ったが故に生まれた悲劇。
その償いは計り知れない。
ラングハイム辺境伯邸に戻ると、傷を癒やす為の神官と医師が呼ばれ、治療が始まった。
ジャレッドは廊下で壁に凭れかかり、自分の無能さを責めていた。
コンコンッ。
診察を終えた医師が扉から出てくる。
「アネモネ嬢の容態は?」
ジャレッドの問いかけに医師は苦虫を噛み潰したような表情で答えた。
「私は夢を見ているのでしょうか。葬儀の前、確かに奥方の死亡を確認しました。
ですが、奥方の脈も心臓も脈動を続け、体温も微熱は在れど生きた人間のそれです。
それを踏まえて言いますが、奥方は栄養失調と疲労困憊が祟っておられます。
しかし‥‥‥」
アネモネの首に残る縄の跡だけは、1週間が経ったにも拘わらずあの時のままくっきりと残っていた。
「‥‥‥薬品も人員も惜しまず使え。必要な物があればなんでも言え」
ジャレッドは絞り出すように言った。アネモネの生存は、自分に対する最初で最後のチャンスだった。




