第6話 アイビー、アネモネの死に違和感を抱く
貴族の屋敷から逃亡したアイビーは、アネモネの記憶がより鮮明になるのを感じた。
この娘は幼い頃から苦難の連続だったらしい。
両親には姉を補助する道具扱い、姉には虐げられ使用人には冷遇されてきた。
両親や姉の言いなりの道具で居る事しか許されず、反論すればハンガーで殴りアネモネの人格を徹底的に否定する。
それでも心が折れなかったのは、教会への寄付で誂えたハンカチやクッションカバーの刺繍を褒めてくれる老婦人が居たから。
ほんの少しの間、その教会で彼女と刺繍しながら話す時間が救いだった。
老婦人との時間だけは、両親は取り上げなかった。
アネモネはその老婦人が、隣国の正妃の母であるエルフォード先代子爵夫人とは知らないでいた。
アネモネの記憶を見るアイビーも、その事実を知らない。
(休息を取らないと)
アネモネの肉体は限界だった。栄養不足で骨張った肩が軋み、激しい運動に筋肉が悲鳴を上げる。
敵陣から距離は稼いだ。
当分は潜伏し休息するべきだ。
アイビーは馬を止め、そのまま逃がした。
貴族の馬をずっと使うにはリスクがある。
休息と食料調達の為、森に入り込むと同時だった。
「……!!」
アイビーの頭に激痛が走った。視界が揺れ、アネモネの記憶が洪水のように押し寄せる。
――……。
穏やかな老婦人が、アネモネに話しかけていた。
『まあ、素敵な刺繡ね、お嬢さんが作ったの?』
『……あ、いえ。姉が……作りました……』
『……そうなの?ねえ、お嬢さん。良かったら一緒に刺繍の会に参加しない?まだ日も高いから、20分くらい貴女のお時間を頂戴ね?』
圧し負けたアネモネに、アナベル夫人は沢山綺麗な刺繍やレースを見せてくれた。
アネモネが目を輝かせると、夫人はこう言った。
『此処に来るときだけで良いから、年寄りの話し相手になってくれると嬉しいわ。良ければ私が刺繍を教えてあげるから、貴女も一緒に作品を作ってみない?』
両親や姉の言葉はノイズの掛かったように聞き取れず、悪意しか感じない。
しかし、このアネモネの記憶に在る老婦人との会話だけは、きちんと聞き取れた。
不思議とアイビー自身の心が安らぎ、頭痛は収まった。。
その時だった。首筋に何かの感触があり、反射的に手で触れた。
首に巻かれた包帯と痕跡消しの作業で気付くのに随分と遅れた。
それは、細いチェーンだった。触れると滑らかな感触があり、引き出してみると小さな銀色の花の縁取りを彩るように、ガラスビーズで飾られた花のモチーフのペンダントが揺れていた。
アネモネの痩せた首には不釣り合いなほど美しく輝く装身具。
(なんだろう、これは……?)
記憶の断片が点と点を繋ぎ合わせ、一つの記憶として脳裏をよぎった。
少し幼いアネモネと老婦人が教会で刺繍をしている。アネモネは嬉しそうに美しい模様を織り上げていく。
老婦人――アナベルと名乗る夫人は柔らかな笑みを湛え、アネモネの技術を褒め称える。
『あなたはとても器用ねぇ。将来が楽しみだわ』
『ありがとうございます……でも私なんかより姉がずっと……』
『ふふ、謙虚なのね。これは、年寄りの暇つぶしに付き合ってくれる、私からのお礼よ』
老婦人はアネモネを慈しむように見つめ、小さな包みを差し出した。アネモネは恐縮しながらもそれを受け取る。包みを開けると中には――
「――あっ!」
アイビーは思わず声を上げた。記憶のフラッシュバックが中断され、現在の危機的状況に引き戻される。
足元のぬかるみで滑りそうになった。
(危ない……気ぃ抜いたら終わりだ)
アネモネの過去に浸っている場合ではない。現実は生死を分ける瞬間なのだ。
だが――首にかかった首飾りの存在がアイビーの意識の隅に引っかかった。
(このネックレス……大事な人からの贈り物だったのね)
アイビーは一瞬だけペンダントを握りしめた。その温もりが痩せた体に僅かばかりの力を取り戻させてくれる気がした。
3年前。
『孫がね、お仕事でとても大変みたいなの。娘が気落ちしているから、暫くは娘のところに行くわ』
『そう‥‥‥ですか‥‥‥気を付けて行ってきてくださいね』
『隣国に嫁いでいるのよ。向こうのお土産を楽しみにしてね、アネモネさん』
アネモネにそう言って以降、彼女はアネモネの前に現れなかった。
それでも、隣国に着いた事を知らせる手紙を貰った。
その手紙も、ある日を境に途絶えてしまった。
教会の神官達に尋ねても所在は不明のまま。
その日以降、安らぎの時間はなかったが、アネモネは夫人が作った世界でひとつの首飾りと彼女の手紙を糧に耐えた。
『いつもの教会で、また会いましょう』
帰ってくるその言葉を信じ続けた。
『アナベル夫人。私なんかを好いてくれる方が見つかったの』
『結婚が決まったことを教えたかったわ。戻ってこられたら、私もアナベル夫人にとっておきの贈り物を渡したいわ』
「……」
アネモネは、心の拠り所があった。
しかし、それならば。待っている人がいるならば。
何故、アネモネは自死を選んだ?
「……っ!!」
アネモネの死の瞬間を思い出そうとすると、酷い頭痛がした。
死の恐怖で塗り固められたそれは、今のアネモネの身体に酷だった。
朽ちた木の洞を見つけ、其処を当面の休息地点とした。
しかし。
(自死を選んだ者の記憶は、あそこまで恐怖と絶望で覆われていない)
アネモネの死に、アイビーは疑問を抱いた。




