第4話 棺(がんばこ)から蘇った辺境伯夫人?は全力で逃亡しもす
※アイビーの出身は訛りの強い地域だったので、リンブル共通語(標準語)を会得しているジャレッドですら聞き取れません。
周囲が悲鳴を上げるが、アネモネ(アイビー)の目に浮かぶのは、慈悲でも愛情でもなく冷たい警戒心だ。
(あいつ、また何か言っている。カルディア語……?
ちょっとした単語くらいしかわかんないけど、こいつは‥‥‥この子に怒鳴っていた奴だよね?)
アイビーは内心で呟いた。
記憶の断片――おそらくアネモネのもの――が頭の中で蘇る。確かに目の前の男性は怒り、叫んでいた。
言葉は分からないが、言われ無きことで罵倒していると理解できた。
罵倒されたアネモネの言っていることも分からないが、希望や喜びが消え失せて悲しみと絶望に変わっていく感情の波は分かった。
以降、納屋のような部屋に閉じ込められた。
空腹感と寒さに震え、小用で出てくることすら不快なのか食事は数日に一度。
それも、ガチガチに固いパンや虫の浮かんだスープ。
ならば、ここは敵陣だ。
アイビーの直感が。墓守になる前の、かつての戦士の末裔である己の本能がそう告げていた。
「大丈夫ですか!?」
駆け寄ってきた使用人が心配そうな表情を浮かべるが、アイビーは即座に彼を見据えた。
(この人も含めて全員、この子のこと蔑んでいた……)
「分からんんじゃっどん、何よ言ているか一っも分からん。取り敢えず退け、帰っなー!
(分からないんだけど、何を言っているか全然分からない。取り敢えず退け、帰るわね)」
そいつもぶん投げてアイビーはスタスタと出口に向かう。
神官は腰を抜かしていた。
アイビーは棺桶から脱出し、こちらに向かってくる者を無効化しながら淡々と言った。
「分からんけど、嫌がらせをされる謂れは無から、何がなしここを出て行っね!(分からないけど、嫌がらせをされる謂れは無いから、とにかくここを出て行くね)」
ジャレッドは混乱しつつも必死で呼び止めた。訛りが強すぎるリンブル共通語。
その特に端の地域の訛りが強い言葉なのだろう、半分も理解できない。
しかし『出て行く』という単語だけは明確に聞こえた。
「待ってくれ!君は……本当にアネモネなのか?それとも……」
彼の目には恐怖と懇願が交錯していた。
自分が殺してしまったと思っていた妻が甦った――いや、別人のように強くなっている?
『待って』『本当』『アネモネ』
そう言っている気がするので、否定しておいた。
「違ごわ。私やアネモネじゃねわ、あんたなんち知たんわ(違うわ。私はアネモネじゃないわ、あんたなんて知らないわ)」
アイビーは振り返りながら、落ち着きを取り戻しつつ言った。
記憶がまだ混濁しているようで、自分の過去とアネモネの記憶が奇妙に重なる。
子供の頃。幼馴染にカルディア語を教えて貰った事があるので、多少の単語は分かった。
しかし、幼少期の記憶に引っ張られるのか、訛りの強いリンブル語がアイビーの口から率先して出てしまう。
なので、意思疎通も取れたものではない。
(なんで私は棺桶の中に居たんだろう……帰ってお風呂入りたい。火を焚いてスープを温めなきゃ……)
そういえば、シスターにキッシュを貰ったのだ。楽しみにしていたのに、カルディア国では帰国までに1週間は掛かるだろう。
魔道保冷庫に入れているが、痛んでいるかもしれない。
アイビーは唯、帰る事を目的にしていた。
『ごめん』『謝罪』『待って』
そんな事を言いながら制止してくるメイドも従者も投げ飛ばした。
そんなものはどうでもいい。
初対面で罵倒した自称夫に、言葉は分からないが馬鹿にする態度や陰口を叩き嫌がらせの連続。
棺桶に入れる程の悪事を働いた連中の元に居るのは、危険。
アネモネという娘の身体に何故自分が入っているのか不明。
痩せ細った身体を回復させる場所を確保して置かねば。
それは、此処ではない。
外に出ると、馬房から立ち昇る干し草の匂いが鼻腔を突く。
アイビー――アネモネの肉体に入った墓守は、粗末な木柵越しに葦毛の馬体を見詰めた。鞍も鐙もない野生的な牡馬が、銀灰色の瞳で警戒心も露わにこちらを窺っている。
「手綱はなかとは当たり前か、そいでもよか馬やわ。お願い、一緒に行ってくるっかしら。……」
そう呟きながら視界の端で捕らえた麻布をひったくる。埃っぽい布地を千切れんばかりに引き裂き、三つ編みにする要領で粗雑な輪を作る。馬に向かって無造作に近づくアイビーを、ジャレッドが必死に呼び止めた。
『待って』 『アネモネ』 『何処』
「知らんど」
アイビーは即答し、再びジャレッドは宙に浮き地面に叩き付けられた。
リンブル共用語の残響のような片言が唇から零れる。背後では執事が必死に制止の声を張り上げているが、アイビーは振り返らなかった。
この男たちは『敵』だ。
敵陣から速やかに去らねばならない。墓守の――否。戦士の習性がそう警告している。
「よか馬よ、よか馬よ……」
自ら編んだ即席の手綱を馬首に掛けながら囁く。獣毛に触れた指先が微かに震えていることに気づく。
アネモネの記憶の断片――離縁後の路銀として作った刺繍の作品たちを汚水に沈められた、乾いた涙の跡――が一瞬よぎり、アイビーは舌打ちした。
(こん子の記憶が邪魔をする!)
馬の横腹を軽く叩いた瞬間、ジャレッドの護衛騎士が槍を構えて遮ろうとする。
「止めろ!奥方様であられるぞ!」
「奥方?あまるな!(奥方?ふざけるな!)」
アイビーの動きは稲妻の如し。接近する騎士の手首を掴むと同時に重心を沈め、相手の突進力をそのまま利用して前方へ投げ捨てる。鎧兜が土煙をあげて転がり、周囲の悲鳴が上がる。
「わいらは敵じゃ。関わろごたなかなら放って置け!!」
訛りの強いリンブル語の怒声が静寂を切り裂く。既に跨がった黒馬の胴を強く蹴った。嘶きと共に蹄が大地を蹴りつける。
馬上で揺られながら、アイビーは呻く。痩せ衰えたアネモネの肉体では、鞍も無い馬の激しい振動に耐えられない。
手が痺れ、肺が焼けるように痛い。
それでも。
この子に。アネモネに、悪意を持って痛めつける場所に留まる事を拒絶した。
どんな名君であろうとも、狂気に支配された者は全てを破壊し尽くす。
破壊者からは命を賭して戦うか、逃げるかのどちらかだ。
幼いアイビーの目に焼き付く一族の絶叫、破壊者を止めようと切り伏せられる母。
殿を務め、後の養父母になる使用人夫妻に抱えられアイビー達が逃げきるまで、何度身体を切られようと刺されようとも。脱出口を己の身体で封じ倒れなかった父。
アネモネを死なせた破壊者から、逃げねばならない。
英気を養い、次の一手を打たねば鳴らぬ。
それがアイビーの経験則だった。
(こん身体が……早く戻さねば)
アイビーは逃走に全ての力を振り切った。




