第3話 死んだ妻?に棺桶に投げ飛ばされた夫
木製の扉が軋みながら開かれた瞬間、死の匂いが鼻腔を貫いた。
ジャレッドの眼前で、窓もなく薄暗い物置部屋の中央──蜘蛛の巣が張った天井梁から垂れる古い縄に、アネモネの細い首が絡まっていた。
吊られた小柄な身体は糸が切れた操り人形のように微動だにせず、足元に積もった埃は数日間放置されていたことを雄弁に物語っている。
「……嘘だ」
呟きは震え、空気に溶けた。
喉奥がひきつり、視界がぐにゃりと歪む。それでも目の前の光景は揺るがず、確かな輪郭を保ち続けていた。死体だ。アネモネが死んでいる。
(俺が殺した)
思考が停止する寸前、その一語だけが焼け付くほど鮮烈に脳裏へ刻まれた。
――俺が追い詰め、俺が罵倒し、俺がこの結末を招いたのだ。
ジャレッドの胸を、刃物よりも鋭い自責が抉った。
「‥‥‥っ!」
喉から漏れた声にならない悲鳴が部屋に響く。ジャレッドは駆け寄りながら気づいた。アネモネの手は異様に細く荒れており、足元には蛆の沸いたスープ。
彼女が作ったと思しき刺繡の作品は汚水に塗れていた。
使用人が施した差別と虐待の痕跡だ。
だが、それ以上に。
その汚れた刺繍にジャレッドは釘付けになった。
ロベリアが刺したという、刺繡のハンカチとその作品はあまりにも似ていた。刺繍の意匠も、何もかもが同じだった。
「なんだ、これは‥‥‥俺が見ていたのは‥‥‥何だったんだ」
膝が崩れた。
絞り出した声は掠れ、室内に反響することもない。
背後では執事が慌ただしく駆け込んでくる気配があった。
「旦那さま!?一体何が……」
何故、自分はアネモネを信用できなかったのだ。
貴族とは腹の探り合い。
何故、相手の言葉を安易に信じた。
自分が撒いた種でアネモネを追い詰め、結果として命を奪ってしまった。
何もかもが、もう取り返せない。
「何故‥‥‥なんでこんな‥‥‥!」
彼女を解放しようと縄に手を伸ばすと、冷たく固くなった感触が指先に伝わった。命の温もりは完全に消え去っている。これが『悪女』と呼ばれた少女の末路なのか?
ジャレッドの脳裏に走馬灯のようにアネモネの姿が蘇る。
ロベリアに虐げられ、それでも己の伴侶に選ばれ笑顔だった健気な令嬢。
己の罵倒を受けて必死に弁解する令嬢。
姉の醜聞を背負わされ続け、家族から搾取され、今度は見知らぬ辺境の地で見捨てられた──
「アネモネ‥‥‥!」
絶叫とともに彼女の身体を抱き下ろす。枯れ枝のように脆くなった腕がだらりと垂れた。耳元で囁かれた虚ろな言葉が聴こえた気がした。
『どうか‥‥‥信じてください‥‥‥』
そんな幻聴にも似た懇願が胸を締め付ける。ジャレッドは激しく泣きながら床に崩れ落ちた。彼の肩を震わせる嗚咽に混じり、ドア口で控えていた使用人の一人が呟く。
「旦那様‥‥‥この女はやはり邪悪でしたか? 自ら死を選ぶとは、はた迷惑ですこと」
その冷酷な言葉が引き金となった。
ジャレッドは鬼の形相で振り返る。充血した目に宿るのは純粋な狂気と憎悪だった。
「邪悪だと‥‥‥?」 彼の拳が震える。
「お前たちの仕業だろう! この哀れな子に食物を与えず辱め、死に追いやったのは貴様らだ!!」
使用人は怯えながら後退りする。
「我々は旦那様のご意志に従ったまでです‥‥‥!」
その言い訳がジャレッドの魂を粉砕した。自分の愚かな妄想が、この悲劇を招いたのだ。
ロベリアへの盲目的な憧憬。アネモネに対する偏見。
そして最も許せないのが、彼女を守るべき立場でありながら、その権利を行使できなかった自身の無力さだった。
ドアの外で待機する使用人たちに向き直ると、ジャレッドは冷徹な声で命じた。
「すぐに埋葬の準備をしろ。最上級の棺を用意せよ。次に‥‥‥」
その鋭い眼光が使用人全員を射抜く。
「この館から一切の出入りを禁ずる。私からの指示があるまで各自持ち場で待機せよ」
使用人たちは恐怖に凍りつきながら深々と頭を下げた。
+++
アネモネの遺体は降ろされ、客間のベッドに安置された。
ジャレッドは使用人全員に、隣国の王家からの調査結果を見せた。
「私たちは、無実の少女を殺した」
ジャレッドの手は震えていた。
隣国の王子が理解できることが、自国の貴族である己には出来なかった。
無能な己を呪った。
「私は‥‥‥愚か者だ」
ジャレッドは涙を流した。
「我々はアネモネ嬢を……何の罪もない子爵令嬢を殺害してしまった!」
絶望の声が部屋に響く。その声を聞いて、使用人たちは唖然としていた。主人が泣いている。
「私たちが……? まさか、そんな……」
誰かの言葉が漏れた。
隣国の王家からの手紙を、『下郎の家系』だと侮辱して無視した。
正妃のご母堂がアネモネに送った手紙を、家格が低いからと破棄した。
アネモネを粗末な部屋に閉じ込めたのも、無礼な言葉を投げつけたのも、全てはジャレッドの責任だ。
だが、それ以上に、使用人たちが彼女に対して行った残虐な行為は、自身の咎であった。
監督不行き届きでもある。
「私は愚かだ……愚かな貴族だ……」
アネモネが死んだ後、ようやく気がついた。
どれだけロベリアに虐げられてきたのか。
子爵家の使用人からも迫害されてきたか。
それでも姉の手柄のために、愛されたいがために作り続けていたのだろう。
「この悲劇を、二度と繰り返すな」
使用人たちは蒼白になった。
ジャレッドが命じる通り、最上の棺が用意された。
彼は彼女に「私が間違っていた」と謝罪を告げた。
神官の祈りを聞き、涙ながらに、棺の蓋が閉じられるのを見届けた。
その時だった。
棺桶の蓋を蹴り、アネモネがむくりと起き上がった。
凄まじい轟音と共に、棺桶から勢いよく飛び出したアネモネの身体――中身はアイビー――の目には、戸惑いよりも断固とした決意が宿っていた。
栗色の髪が乱れ、真っ白いドレスの裾が汚れているが、その佇まいには毅然とした威厳がある。
「……アネモネ?」
棺桶に尻餅をついたジャレッドが呆然と名を呼ぶ。彼の声には混乱と恐れが入り混じっていた。妻の突然の豹変ぶりはあまりにも奇妙すぎた。
「生きていたのか?良かった、アネモネ、すまなかった。どうか‥‥‥」
刹那。
ジャレッドはアネモネに投げ飛ばされていた。
辺境伯として、武人である彼の力を無効化し、アネモネが入っていた棺桶目掛けてぶん投げられる。
豪奢な棺桶は破壊された。
「わいらは敵じゃ。触らんでな、近づかんでな、また埋葬すっつもりなら攻撃すっど!!」
アネモネが何かを叫んでいたが、聞き取れなかった。
傍目で見てもかなり凄惨な事故に見える。
ジャレッドは咳き込みながら立ち上がる。
一方、アネモネ?は辺境伯邸の使用人たちを次々と投げ飛ばして外へと向かっていた。




