第14話 夜這い騒動と一先ずの決着を進めるアイビー
深夜。ラングハイム本邸は、異様な静けさに包まれていた。
いや、正確には、息を潛めた者たちの気配が、廊下のあちこちに漂っている。
頑なに主の愛に応じない奥方の心を開く為、使用人たちは万全の準備をした。
ジャレッドは、自室で夜着を羽織り、何度も拳を握りしめては開いていた。心臓が、早鐘のように打っている。手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。
「……これで、いいんだ。これで、アネモネとの距離が縮まるはずだ」
彼は自分に言い聞かせるように呟く。
あれ程罵倒しておいて。
追い詰め、自死に追い込んでおいて。
アネモネの衰弱した身体を見ているにもかかわらず、この男はアネモネと深い繋がりを求める事とした。
脳裏に浮かぶのは、あの冷たい胡桃色の瞳。
拒絶の言葉。馬の水を飲む、痛ましいまでの警戒心。
(あのままでは、本当に彼女の心が離れてしまう)
彼女はジャレッドに一切の心を許していなかった。むしろ、敵として認識している節すらあった。
このままでは、ラングハイム辺境伯家は終わる。血を残さなければ絶えてしまう。
……実際は弟妹が居るのだが。
長男と実父の死で転がり込んできた当主の座に、ジャレッドは固執していた。
その焦りに、悪意は容易に入り込む。
「奥様は、心を閉ざしておられます。だからこそ、旦那様の方から、夜伽という形で歩み寄るのです。夫婦として、当然のことですわ」
そう耳打ちしたのは、メイド長だった。
悪意ある者の野心を、ソレは増幅させる。
彼女は恭しく頭を下げながら、ジャレッドの背中を押した。
「ですが……媚薬など……」
「これは、ただの気付け薬のようなものです。奥様の強張ったお心を、少し和らげるための。夜伽は、妻にとって最上の安らぎ。
心が解れれば、きっと旦那様に縋りたくなるはずです」
メイド長の声は、ひどく滑らかだった。
ジャレッドの中に残っていた僅かな良心を、その甘い言葉に潜む悪意がじわじわと溶かしていく。
体調が芳しくないあの娘に薬を盛れば、徐々に弱っていくだろう。
そうすれば、自身の娘を臣籍降下したとはいえ、王家に連なる者へ宛がうことも可能だ。
他の使用人たちも、アネモネの仕打ちを棚に上げ、主の次の恋路を叶える事で思考を固められていく。
(そうだ。私は、アネモネを愛すると決めたんだ。ならば、夫として、彼女の心身を癒やす責任がある)
アイビーが聞いていれば、『夜伽で虚弱の嫁を殺す気か』とブチ切れているだろう。
アネモネが部屋に入って数刻後、監視していたメイド達が媚薬の香炉を辺境伯夫人の部屋に設置する。
中には、メイド長が用意した特製の香が仕込まれている。
焚けば、部屋中に微睡むような甘い香りが満ち、人の理性を緩ませるという。媚薬の香だ。
アイビーならば、侵入者の手が入った瞬間、ドアを蹴ってその手を挟み逃がさない。
そして、換気の為に窓をぶち破るが。
まあ、そうする前に、幽霊先代辺境伯に連れられ隠し通路を通って別棟に向かっていたが。
媚薬の効果が十分に行き渡った時間。
彼は静かに部屋を出た。廊下は薄暗く、蝋燭の灯りだけが揺れている。
使用人たちは、この夜の計画を知っているのか、廊下には誰一人としていない。
むしろ、その不自然な静けさが、この所業が計画的であることを物語っていた。
なお、当のアイビーは摘み立てのカモミールのお茶を飲んで、別棟の一室で眠りに付いていた。
「アネモネ……」
彼は妻の寝室の前で立ち止まり、深く息を吸った。扉の向こうに、彼女はいるはずだ。そう信じて、彼は静かにノックをした。返事はない。当たり前だ。この時間だ。彼女はもう休んでいるに違いない。
「入るぞ」
彼は低く呟き、扉を開けた。
甘い香りを焚き込めた香炉を片手に、彼は室内へ足を踏み入れる。月明かりが薄く差し込む室内は、しんと静まり返っていた。寝台の天蓋が、ぼんやりと白く浮かび上がっている。
「アネモネ、今日は……話がしたい。いや、話だけでは済まないかもしれないが……」
彼は寝台に近づき、そっとシーツを捲った。
「……っ!?」
そこに、アネモネの姿はなかった。
寝具は整えられたままだが、彼女が横たわった形跡すらない。
部屋の空気は冷たく、人の温もりがまるで感じられなかった。
「どういうことだ……?」
ジャレッドは慌てて部屋を見回した。浴室も、衣装部屋も、どこにもアネモネの姿はない。香炉から立ち上る甘い香りだけが、空しく空間に漂っている。
「アネモネ!?どこにいる!?」
とっくにアネモネ(アイビー)は幽霊先代辺境伯を供だって別棟に避難していた。
それを知らない彼は声を張り上げた。しかし、返事はない。代わりに、廊下から複数の足音が近づいてくる。
「旦那様、どうなさいました!?」
ジャレッドの声に、使用人たちが次々と集まってきた。メイド長も、顔色を変えて駆けつけてくる。
「アネモネが何処にも居ない」
「そんな……確かに、奥様はこちらのお部屋に戻られたはず……」
「部屋に戻ってから、一度も出ておりません!!」
「捜せ!すぐに屋敷中を捜索しろ!」
ジャレッドの命令に、使用人たちが蜘蛛の子を散らすように走り出す。廊下に灯りがともり、夜の本邸は一転して騒然となった。
「奥様ーっ!」
「アネモネ様、どこにいらっしゃいますか!?」
「馬小屋も見てくる!あの方は馬の傍にいることが多い!」
使用人たちは、それぞれに心当たりを挙げて捜索を始めた。しかし、どこを探しても、アネモネの姿は見つからない。馬小屋にも、庭園にも、裏庭にも、彼女の足跡すら残っていない。
「くそっ……何故だ。何故、見つからない……!」
ジャレッドは、乱れた髪を掻きむしりながら、廊下を歩き回った。媚薬の香が染み込んだ外套が、夜風に揺れるたびに甘ったるい匂いを放つ。
だが、その香りが今はひどく不快で、頭がどうにかなりそうだった。
「旦那様、勝手口の鍵は閉まっておりました。外へ出た形跡はありません」
「では、どこに……」
「奥様は、この屋敷のどこかにおられます。必ず見つかります」
使用人の一人がそう言ったが、その声には確信がなかった。
このラングハイム本邸は、彼ら使用人にとって庭の隅から物置の奥まで知り尽くした場所だ。そこに、アネモネがいない。それだけで、彼らの動揺は計り知れなかった。
「……別棟は?」
ジャレッドは、ふと呟いた。しかし、すぐに首を振る。
「いや、違う。あそこは……母上が命じて取り壊したのだった。私がロベリアとの婚姻を決めた腹いせに」
別棟は先代辺境伯夫人が処分した。
ジャレッドも使用人一同も、そう認識していた。
(父上との思い出の場所を壊すなんて、母上は何と冷酷なのだ)
実際は毒婦ロベリアに、大切な夫との思い出を壊されない為の処置であるが。
「……とにかく、捜索を続けろ。夜が明けるまでに、必ず見つけ出すんだ」
「承知しております」
使用人たちは再び散っていく。だが、彼らの足取りは重く、顔には疲労と焦燥が色濃く浮かんでいた。
ジャレッドは、一人廊下に立ち尽くす。甘い媚薬の香りが、未だに鼻先にまとわりついている。それは、今の彼の滑稽さを嘲笑うかのようだった。
「アネモネ……お前は、一体どこにいるんだ……」
彼の声は、夜の闇に吸い込まれて消えていった。
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―――その頃。
アイビーは、先代辺境伯に教えられた隠し通路を抜け、別邸の一室で静かに寝息を立てていた。
幽霊メイドたちが心を込めて整えた寝台は、柔らかく、温かく、彼女を優しく包み込んでいる。
「……ん……」
アイビーは、小さく身じろぎした。
(大丈夫。ここは安全だから)
アイビーは、無意識のうちに胸元のペンダントを握りしめていた。
翌朝。
(ふぅ……生き返るようだ)
保存食が尽きる前に、こんなにも立派な食事がとれるとは。
温かいポタージュスープとサラダにふわふわのパン。
何年ぶりかもわからないほど、まともな食事を腹に収めた感覚を帯びたアイビーは、ラングハイム邸の別棟にある一室で一息ついていた。
煮炊きは、先代辺境伯が使っていたキッチンを使う事に決めた。
魔石を利用して水を生成するので、水も問題なく補給できる。
元はお茶を楽しむ為の簡易キッチンだったが、先代辺境伯に手料理を振舞う事も在ったらしい。
キッチンには塩や砂糖などの調味料が保管されていたし、小麦粉やパン種まで完備されていた。
(塩や砂糖は保存が利くけど、扱いの難しいパン種までどうやって管理を……)
ふと気配を感じた。
コッソリその様子を見ると、家事妖精が働いていた。
幽霊メイド達曰く、先代辺境伯夫人がここを使って居た時から家事手伝いをしているらしい。
(成程。先代夫人が不在となっても、ここを守っていたのか)
お礼も兼ねて、さりげなく部屋の片隅にパンとベリーを置いておいた。
後日、バターやミルク、卵が魔道式保冷庫に置いてあり、アネモネの疲弊した身体を回復させる十分な糧となった。
『奥様、お耳に入れておきたいことが』
そして、アイビーはジャレッドの夜這い騒動を聞かされた。
「……アホなの?媚薬まで使う何て、病人を殺す気か?」
死に戻り、逃亡し昏倒した令嬢にやる事がそれか。
まあ、そのつもりなのだろう。
アネモネに悪意を持つ者は、彼女を辱めて殺す気満々らしい。
アイビーはため息をつき告げた。
「早めに物置部屋の異変は片づけよう。あそこまで隠れて向かえるか……、屋敷の見取り図は在る?」
アネモネが殺されたあの場所を根城に、悪意は燻っている。
本邸の連中がこれ以上の恥を晒すのは構わないが、先代辺境伯に助けられたアイビーとしては。
恩人である彼の憂いは早々に取り除くべきだろう。




