第12話 本当(ほんのこ)て謝意を示すべき女性は此処にいなかとで、私(あたい)に言われても困ります
ジャレッドは困惑していた。
衰弱しているアネモネだが、食事の一切を取ろうとしない。
水すらも飲もうとしない。
ラングハイム邸で作った食事は、彼女に付けた侍女に勧めたという。
アネモネの毒殺未遂を知る侍女は、床に頭を擦り付けて拒絶した。
「貴女が食がならんものを。かりそめとはいえ、よく辺境伯夫人に振舞えたものですね」
以降、食事を一切取らないでいる。
いや、飲食はしているが、問題が多い。
唯一食べるのは、あの5日の逃走で作ったであろう、木の実や昆虫を蜜で固めた保存食。
そして。
飲み水は、馬の飲む水桶から。馬の飲んだ後の水を飲用していた。
「おはん方の財産じゃい馬の水ならば安全じゃんそ。特にこん馬は良か馬だもの」
馬よりも信用されない事に愕然とした。
ジャレッドは内心反論したかった。
(アネモネが、こんな……?)
それは、彼女がこの屋敷の全てを、生存のための『敵地』と見なしている、動かぬ証拠だった。食事も水も、そして使用人も、夫である自分さえも、彼女は一切を信用していない。
「これほどまでに、か……」
ジャレッドの胸に、鉛のように重い衝撃が走った。
彼女が物理的にも投げた言葉が、冷たい刃のように蘇る。
『触るな、と忠告したはずだ。下郎』
あれは、拒絶も同然の罵倒ではなかった。
警告だ。
彼女の領域に、彼女の尊厳に、一歩でも踏み込めば、次は容赦しないという、明確な宣戦布告だったのだ。
「私は……アネモネに、そこまで……」
彼は、自分が彼女に対して何をしてきたのか、その罪の重さに今更ながら気付かされる。
ロベリアへの想いを引きずり、使用人たちの陰湿な虐めを見て見ぬふりをした。その結果が、これだ。
彼女は、この屋敷の誰よりも強く、そして誰よりも孤独に、ただ一人で生き延びようとしている。
馬は彼女に懐き、安心するように鳴く。
ジャレッドは内心反論したかった。
(そんなもの……俺だって!アネモネが来る前は、それなりに……)
そこまで考えて、口を噤んだ。
今、自分は彼女を酷く傷付けた立場だ。弁解の余地などない。
むしろ、こうして生きてくれているだけで奇跡なのかもしれない。
「……アネモネ」
馬の飲んだ水を飲むアネモネに呼びかけても、妻はジャレッドに視線すら向けなかった。
その姿を見て、ジャレッドは胸の奥が締め付けられるような苦しさを感じた。
「昨日のこと……いや、今までのこと……本当にすまなかった」
「……」
返事はない。だが、ジャレッドは続けた。
「お前がロベリアの代わりに嫁いでくることになった経緯も、何もかも……俺がきちんと調べなかった。勝手にお前を悪者にして、蔑ろにして……」
「……」
「俺は……最低だ」
沈黙が重くのしかかる。
ジャレッドは頭を下げ続けた。誠意が伝わるとは思っていない。ただ、今はこれしかできない。
「どうでもいい」
アネモネの言葉は冷え切っていた。
「ロベリアを愛しているのなら、迎えに行けばいい。そうすれば、双方にとり良し。わいもこれ以上くだらんことに付き合わされんで済む」
アネモネはそう吐き捨てた。
ジャレッドは首を横に振った。
「俺はお前を愛することに決めた」
その言葉は嘘偽りないジャレッドの本心だった。アネモネが自分にどんな感情を抱いていようと、変わらない決意。
「馬鹿馬鹿しい」
アネモネの言葉は痛烈だった。
「私やこけ住みたいわけではない。離縁したいならずーず放り出せばよかて。ロベリアを娶りたいならそうしやんせ。離縁した後本妻にすれあいいじゃんそ」
『離縁』『放り出せ』『ロベリア』『本妻』
会話の大半は分からなかったが、単語やアネモネの怒気から‥‥‥。
「とっとと自分と離縁して放り出せばいい。ロベリアを本妻にしろ」
そう言っているのだろう。
きちんと説明しなければ。
「私は確かにロベリアに恋をした。しかし、私が愛したロベリアは偽りだった。
何より性病持ちの令嬢を辺境伯夫人には出来ない。
君に此処に留まって欲しい。私に償いの機会を与えて欲しい」
アネモネはしばしの沈黙の後、嫌悪感を全面に押し出して告げた。
「初恋の女が病気になったら捨いか。お前の初恋は陳腐だな。散々お前の初恋を応援した使用人達が哀れだな。たかが性病になれば捨い恋なら。
散々罵倒して甚振ったアネモネへの情などクソ同然だな」
『初恋の女』『陳腐』『薄い』『アネモネへの情など無い。糞同然だ』
その言葉はジャレッドだけでなく、使用人達の胸を穿った。
魔獣討伐で民衆を守るラングハイム辺境伯に仕えることが誇りだった。
民の為に尽力する辺境伯を尊敬していた。
だから、遅咲きの。それも初恋を応援した。
結果、心優しい初恋相手ロベリアは――妹を虐げ男性との浮名を馳せる毒婦。
ラングハイム辺境伯の初恋に割り入った悪女アネモネは――真の悪女に噂を撒かれた被害者。
その被害者を、ラングハイムの者たちは攻撃し――自死に追い込んだ。
―――ジャレッドは息を詰まらせた。
「君は……何を知っている?」
アネモネ(アイビー)は窓際の椅子に腰掛けたまま振り向きもしない。その背中からは冷気すら感じられる。
「お前は何よ知っちょっか?」
微かな笑い声。それは嘲笑そのものだった。
「ロベリアの男好きは知っちょった。
私は姉が性病になった事はここん使用人から噂で聞た。随分口の軽り使用人ばっかいなのね。
そんくせ嘘も見抜けん盲目っぷり。カルディア国の貴族はもちっと人となりを見切いと思たがここは例外だとは」
『ロベリアは男好き』『ここの使用人は口が軽い』『嘘も見抜けない』
『人となり、例外』
訛りが強いものの、この屋敷の者は噂を真に受け人となりを見極める事の出来ない者ばかりだと言っていることは分かった。しかも、それは自分自身を含めると。
「お前たちは何も知たん。たかが性病で夢から覚むっ初恋。そんくせ凄ぜか大きすぎっ夢を見過ぎたようだ。散々お前を崇拝した使用人たちも……哀れだ」
『何も知らない』『性病で夢寒い初恋』
『大きすぎる夢』
『崇拝した使用人たち』『哀れ』
「……」
ジャレッドの顔が青褪める。この娘は自分の何を知っている?自分の何を見てきた?
「おはんは魔獣の討伐を褒められて調子に乗っただけの辺境伯よ」
アネモネはゆっくりと窓から振り返った。その胡桃色の瞳には失望すら映っていない。まるでゴミでも見るような蔑みの色しかない。
「悪女アネモネの噂はカルディア国のあらかしたの貴族は信じていない。ロベリアが吹聴する遊っ道具だと思もだけだ。カルディア国の貴族はお遊戯が上手じゃっでな」
『大半の貴族』『信じていない』
アネモネ(アイビー)の言葉はジャレッドにとって衝撃的だった。
噂は真実だと信じ切っていた。
しかし隣国の王家が2週間足らずで真実を暴いた事実を考えれば、なぜ国境沿いの辺境伯である自分が噂に囚われているのか。そしてカルディア国の大半の貴族は真実を見抜いていたという現実。
ジャレッドは己の愚かさに打ちひしがれていた。
「……」
(情けない男だ。アネモネが、こんなに訛りのきつい言葉を話すと思っているのか)
顔を合わせた瞬間に罵倒しただけの事はある。
アイビーはアネモネになり切る気など毛頭ない。
性病持ちとは婚姻できない?
愛を貫くならば籍は入れられるし、子は愛するものと作れぬかもしれない。
だが、養子なり取れば良いだけだ。
不特定多数の男関係か不快ならば、その旨をきちんとロベリアに告げ婚姻破棄を言い渡せ。
何故にそんな義理も通さず、アネモネに目移りするのか。
この男は、恋した相手に不誠実で不快だ。
婚姻証明書は出したから妻?その妻を否定したのは貴様だ。
アイビーに謝罪されても困る。
本当に謝意を示すべき女性は此処にいない。
事実、アネモネが手に職を得ようとしていたならば、この身体の持ち主であるアネモネはこの男と離縁すべきだ。
身体が入れ替わっただけで、元に戻るきっかけでもあるならば彼女の意向も聞きたいが……。
アイビーは、この男と夫婦になるべきではないと考えている。
なので、徹底的に妻に適さぬとアピールはしているのだが。
恋は偽りだったやら、アネモネに償いたいやらと五月蠅い。
(おや)
幽霊執事がジェスチャーで『準備が整った』とアイビーに伝えて来た。
(待たせてすまないね、アネモネ。貴女を休ませてあげられる場所を確保した)
アイビーはその準備の為自室へと戻った。




