第10話 アイビー、三度目の自称夫ぶん投げ
部屋の扉が、ノックもなく勢いよく開け放たれた。
「アネモネ!!」
ジャレッド・ラングハイム辺境伯の切迫した声。血の気の引いた顔で、彼は部屋に飛び込んできた。
アネモネに水を飲ませに来た侍女が毒見をした結果、血を吐いて倒れたという報せを聞き、考えるよりも先に身体が動いていた。
「無事か!?毒を盛られたと……!」
広い室内。豪華な調度品に囲まれたその中心に、痩せ細った妻の姿を見つけた瞬間、ジャレッドの胸は安堵と、それ以上の罪悪感で張り裂けそうになった。
生きている。彼女は生きている。
衝動のままに、彼はアネモネの細い肩を掴み、強く抱きしめようと腕を伸ばした。
「良かった……無事で……!」
だが、その指先が彼女の肩に触れるか触れないかの刹那。
「──ッ!!」
世界が反転した。ジャレッドの身体が宙を舞う。何が起こったのか理解する間もなく、背中と後頭部に強烈な衝撃が走った。サイドボードに身体を打ち付け、上に飾られていた高価な花瓶が耳元で砕け散る。ガシャン、という耳障りな破壊音と共に、彼は無様に床に転がった。
「ぐ……ぅ…!」
肺の中の空気が全て押し出され、呼吸ができない。
視界が明滅する中、見上げた先には、胡桃色の瞳を爛々と燃やし、自分を見下ろす妻の姿があった。
「……触るな、と忠告したはずだ。下郎」
地の底から響くような、凍てついた声。
そこには一片の情けもなかった。ただ、燃え盛るような嫌悪と侮蔑だけが、明確に形を持ってジャレッドに突き刺さる。
アイビーは、自分の手を見下ろしていた。投げた感触がまだ手に残っている。
これが『アネモネ・リシャール』の細腕だというのに、身体が完全に戦士の動きを覚えている。
(……面倒なことを)
彼女は舌打ちしたい気持ちを押し殺した。アネモネの死の真相。自死ではない、あの異様な死の瞬間の記憶。
その断片を、じっくりと摺り合わせようとしていたのだ。そこに、この無粋な闖入者である。
(毒を盛った者。アネモネを殺した黒い手の正体。それを考える時間を……!)
アイビーの苛立ちは募るばかりだった。
彼女の鋭い視線が、無意識のうちに部屋の隅へと泳ぐ。
そこには、先ほど『水を飲むな』と必死に警告してくれた、威厳ある風体の貴族の幽霊が、心配そうに事の成り行きを見守り、ジャレッドに向かって窘めるように何度も口を動かす。
(……ん?)
アイビーは幽霊の顔と、床に倒れているジャレッドの顔を、素早く見比べた。
髭は生えているものの顎のライン、鼻筋、瞳の色。幽霊は年齢を重ねているが、面影が、あまりにも似ている。
(この幽霊……もしや、こいつの血縁者か?)
「アネモネ……私は……お前を……」
ジャレッドが咳き込みながら、ようやく言葉を絞り出す。その声に、アイビーの思考は現実に引き戻された。
「お前らは敵だ」
(少なくとも、アネモネを守ろうとした幽霊以外は)
生者に干渉出来ないのに、必死に手を広げ阻もうとした彼らの方が信頼できる。
アイビーの拒絶は、幽霊の存在を悟られないためのもの。
そして自分たちの関係を明確に定義するための、強固な拒絶の壁だった。
「今更、何を言おうと無駄だ。アネモネを死に追いやった屋敷の者たち。
お前はその長だ。……私の平穏の邪魔をするな」
ジャレッドは、打ちのめされたように床にうずくまった。今のアイビーは、確かにアネモネの姿をしている。
だが、その内面は全くの別人だった。
豹変した妻を、それでも『アネモネ』として扱い、許しを請おうとする滑稽さが、アイビーの目には不快でしかなかった。
アネモネの所作すら覚えていないのに、熱のこもった視線を向けられても困る。
(まあ、碌に人となりを見極める事もせず、とことん罵倒した男の目など曇り切っているか)
アイビーは心の中で嗤った。自分は墓守の野猿女だ。泥にまみれ、戦いの中でしか生きられなかった。
墓守となった後は、死者の安らぎの為彼らを清め、土を掘り埋葬するのが務め。
そんな自分が、可憐で従順な「アネモネ」の代役を演じるなど、土台無理な話だ。
(アネモネを侮辱するな)
この男は、形だけの謝罪と、都合の良い「妻」という幻想を押し付けて、自分自身は何も変わっていない。
「……出て行け」
その声には、有無を言わせぬ威圧感があった。
凄まじい音に駆け付けた使用人に肩を抱かれ、ジャレッドは、傷ついた身体を引きずるようにして、ようやく立ち上がる。
彼は何も言えずに、退出していった。
静寂が戻った部屋で、アイビーは深く息を吐いた。
アイビーの眉間に深い皺が刻まれる。
アネモネの死の間際の記憶は、あまりに鮮明すぎた。
自らの首に縄を掛けさせられ、死の恐怖に泣き叫ぶ少女の悲鳴。それを嘲笑うかのような黒い影の嘲笑。
黒い人影が椅子を蹴り飛ばす感触すら、彼女の感覚を通して伝わってくるようだった。
「自死……ではない。殺された……」
ポツリと漏れた言葉は氷のように冷たかった。
それはもはや同情ではなく、墓守としての憤りであり、戦士としての仇討ちの意思だった。
助けを求める声すら奪われた無念を思うと、腸が煮えくり返る。
『助けて、誰か、助けて。死にたくない……!!』
泣きじゃくるアネモネの立つ椅子を、影のような黒い脚が情け容赦なく蹴り飛ばした映像がアイビーの脳裏に焼き付いている。
掛けられた縄が無慈悲に気道を圧迫し、抵抗する術もなく意識が薄れていく恐怖。
「ふざけるな……」
ギリリと奥歯を噛みしめる音がした。
どれだけ怖かっただろう。恐ろしかっただろう。
アイビーがこの身体に入っているから、延命しているのかどうかも分からない。
ただ。
アネモネという少女は、3年前から徐々に連絡が途絶えた友達に会いたがっていた。
月に多くて3度。
ほんの数刻、交流して来たアナベルという老婦人との再会を願っていた。
親でも、此処の自称夫でも無く、アナベル夫人との思い出が彼女の心の支えだった。
儚い願いすらも踏みにじった連中に怒りしか沸かない。
アネモネは心のどこかで覚悟をしていた。
アナベル夫人の年齢の事も在る。長旅と云う事もある。
もしかしたら、隣国に行って何らかの事故で亡くなったのかもしれない。
本当にそうならば、お墓参りに行きたい。
そう、願っていた。
3年前よりもっと素敵な作品を作れるようになったから、夫人に見せに隣国に行きたい。
でも、出来る事なら、あの教会でまた会いたい。
たった一人。大切な人に会いたい。
純粋な想いを、自分勝手な悪意で塗りつぶし、命まで奪った。
死の間際も死後でさえ苦しめたその所業を、許せるはずがなかった。
その事実がアイビーの心を激怒の炎で灼いた。
「アネモネを害した者達、全員が敵だ」
宣言にも似た呟きが誰もいない部屋に響く。
アイビーには譲歩という概念は希薄だ。
生か死か。皆殺しか溺愛か。逃走か戦闘か。どちらかを選ぶ。
逃走を潰された以上、戦闘の為に身体を回復させているだけ。
アイビーはふと気づいた。
アネモネは死んで数日放置されている。
もしかしたら、アネモネの肉体が死者として判定されたから、彼女と入れ替わったのかもしれない。
(だとしたら、私の遺体はどうなっているのだろう)
自身の死の間際……入れ替わる直前の記憶は――ない。
墓守の埋葬の作業で駆り出され、『帰るのが遅くなるな』と思って帰路を急いだ。
そこからパッタリと記憶が抜けている。
棺桶に横たわる自分を想像し、苦笑いを浮かべる。
しかし。
この屋敷は悪意で満ち溢れている。
戦士と墓守として培った知識と経験が、最大級の警鐘を鳴らす。
最低でも、この状況下で戦闘ができる程度には身体を治さないと。
回復し次第、攻撃に転ずる。
その為に、情報が欲しい。
死の精霊の加護と、墓守として死者を弔い続けた影響で、アイビーは死者の声を聞く事が出来る。
死に至るまでの恐怖の記憶を読み取る事が出来る。
ただし、その恐怖が凄惨過ぎる場合は、それを読み取るアイビーの心身も消耗する。
なので、死者の情報とは有益なのだ。
先程から詫びを入れている先代辺境伯や先代執事長達の存在は。
「あなた達がこの屋敷で視たものを教えて欲しい」
そして、部屋の隅で頭を下げる処か、土下座している貴族の幽霊たちへと、ちらりと視線を向ける。




