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『夜行バス 0:00発 終着なし』忘れたはずの喪失が、今夜も隣の席に座る  作者: 比古狭霧
第一部 終点はまだ来ない

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20/21

第20駅 割れた硝子の輝き — 硝子工房の余韻

夜行バスは、眠りかけた街の裏路地を、音もなく滑るように走っていた。


窓の外では、古びた建物の硝子窓が街灯を淡く映し返し、揺れる光が石畳の上を静かに流れていく。低く垂れ込めた霧は世界の輪郭を曖昧にし、どこまでが現実で、どこからが夢なのか、その境界さえ溶かしていた。


夜長灯也はシートに身を預け、ぼんやりと外を見つめる。


胸の奥の空洞は、

今夜は痛むというより、ひどく脆かった。


少し触れられただけで、

砕けてしまいそうなほどに。


隣の席には、

一人の老婦人が座っていた。


七十代も後半だろうか。


白髪をきちんと結い、

皺の刻まれた手を膝の上で静かに重ねている。


白峰しらみね 静江しずえ


その横顔には穏やかな微笑みがあったが、

その奥には、長い人生を生き抜いた者だけが抱える

静かな影が沈んでいた。


バスはゆっくりと速度を落とす。


車内前方の電光掲示板に、

透き通るような白い文字が灯った。


『割れた硝子の輝き』


扉が静かに開く。


降り立った先には、

一軒の古い硝子工房があった。


煉瓦造りの建物は長い年月を経ても崩れることなく佇み、曇った窓から淡い光が漏れている。


静江は迷うことなく中へ歩き出した。

灯也も、その背中を追う。


工房の中は静寂に満ちていた。

炉には火が入っていない。


代わりに、

無数の硝子片が宙を漂っていた。


小さな欠片。

掌ほどの破片。


鏡のように大きなもの。


それぞれがゆっくりと回転しながら、

かすかな音を響かせている。


澄みきった鈴のような音。


耳を澄ませるほど、

その音は胸の奥へ染み込んでくる。


灯也は思わず呟いた。


「……硝子が鳴っている」


静江は小さく頷く。


「割れた瞬間の音は消えても、その余韻だけは、ずっと残るのよ」


部屋の奥で、

一枚の大きな硝子片が静かに輝いた。


静江が近づくと、

その表面に景色が映り始める。


若い頃の自分。

純白のドレス。

隣には笑顔の夫。


狭い新居で寄り添いながら笑っている。


「この頃はね」


静江が懐かしそうに笑う。


「幸せは壊れないものだと思っていたの」


景色が変わる。

夫の病室。

山積みの請求書。

仕事と介護。

眠れない夜。

子どもの反抗。


静江は誰にも弱音を吐かず、

ただ毎日を生き続ける。


硝子には一本、

また一本とひびが入っていく。


やがて。


乾いた音を立てて砕け散った。

静江は静かに目を伏せた。


「全部終わったと思った」

「幸せは割れてしまったんだって」


彼女の指先が、

一枚の破片へ触れる。


すると、

その向こう側に、

もう一つの人生が映った。


夫は病気にならず。

子どもは素直に育ち。

笑顔に囲まれた老後。

誰も傷つかない人生。

誰も失わない人生。


穏やかで、美しく、

何ひとつ欠けていない世界。


灯也は息を呑む。


静江はその景色を見つめたまま、

小さく笑った。


「何十年も、この人生を羨ましがっていた」

「もし違う選択をしていたら」

「もし、あの苦しみがなかったら」

「私は、こんな人生を生きられたんじゃないかって」


そのときだった。


工房中の硝子が、

一斉に澄んだ音を響かせる。


静かな声が聞こえた。


誰のものとも分からない。

けれど、不思議と優しかった。


「本当に?」


静江は顔を上げる。

硝子は続けた。


「その人生で、あなたは今の優しさを知れただろうか」


映像が変わる。


介護施設で見知らぬ老人へ笑いかける静江。


病院で泣いている

若い母親へそっと毛布を掛ける静江。


夫を亡くした女性の話を、

何時間でも黙って聞き続ける静江。


そのどれもが、

苦しみを知った人にしかできない眼差しだった。


「割れたから」


硝子は静かに響く。


「あなたは、人の痛みを知った」


「割れたから」

「誰かの涙を怖がらなくなった」


「割れたから」

「今のあなたが生まれた」


静江は目を閉じた。


長い沈黙のあと、

小さく笑う。


「そうね」


涙が一筋だけ零れた。


「私はずっと、割れなかった人生ばかり見ていた」


彼女は胸の前で破片を抱くように手を重ねる。


「でも」


「割れた人生も、ちゃんと私の人生だった」


その瞬間。


硝子片が淡く輝き、

無数の光となって彼女の胸へ吸い込まれていく。


工房に響いていた余韻が、

少しだけ温かな音へ変わった。


静江はゆっくりと灯也へ向き直る。


その表情には、

長年抱えてきた後悔が、

静かにほどけた穏やかさがあった。


「人生はね」

「割れないことが幸せじゃない」


灯也は静かに耳を傾ける。


「割れたあと、何を映せるようになるか」

「それが、その人の人生なの」


その言葉は、

灯也の胸の奥へゆっくり沈んでいった。


バスへ戻る頃には、霧は少しだけ薄れていた。


静江は席へ腰を下ろし、

目を閉じる。


その横顔には、

ようやく自分自身を許せた人だけが浮かべる

静かな安堵が宿っていた。


灯也は窓へ額を預ける。


流れていく夜景の硝子窓に、

自分の顔が映る。


その輪郭は、

どこか歪んでいた。


胸へ手を当てる。


自分の人生も、

どこかで音を立てて割れているのだろうか。


それとも——


まだ、割れたことに

気づいていないだけなのだろうか。


バスは再び夜の街を走り始める。


古い工房の灯りは霧の向こうへ溶け、

最後まで小さく揺れていた。


割れた硝子は、

もう元には戻らない。


けれど砕けた破片は、

それぞれ違う角度から光を受け止める。


誰にも同じではない輝きを宿しながら。


夜行バスはまた一つ、

誰かの心に残る余韻を乗せて、

静かに次の停留所へ向かっていった。

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