【第一部最終話】第21駅 終点はまだ来ない
夜行バスは、今夜も街の暗がりを静かに走っていた。
けれど、不思議なことに、一度も停まらない。誰も乗ってこず、誰も降りない。
窓の外には、見知らぬ住宅街が流れ、閉店した商店街が影のように続き、人気のない公園が通り過ぎていく。
信号だけが規則正しく色を変え、夜だけが更けていった。
灯也は額を窓に預けた。
ここへ来てから、いくつの夜を見送っただろう。
泣けなかった青年。
夢を置いてきた画家。
風の止まる丘。
花弁の裏側。
割れた硝子。
誰もが何かを抱え、何かを手放し、少しだけ軽くなって帰っていった。なのに、自分だけはまだこのバスに乗っている。
胸へ手を当てるが、空洞は消えていない。けれど、最初に感じていた「失った痛み」とは少し違っていた。今は、何かを思い出しかけたときの痛みに似ている。
そのときだった。
「眠れないか」
前方から声がした。
運転手だった。
灯也は少し驚く。
この人が話しかけてきたのは初めてだった。
「……ええ」
「考え事か」
「少し」
運転手は前を向いたまま、
かすかに笑った。
「みんなそうだ」
しばらく沈黙が続く。
エンジン音だけが夜を刻んでいた。
やがて運転手が言う。
「君は、何人見送った?」
灯也は窓の外を見たまま答えた。
「数えてません」
「そうか」
「でも、たぶん……たくさんです」
「そうだな」
また静けさが戻る。
不思議と居心地は悪くなかった。
「一人見送るたびにね」
運転手が静かに続けた。
「君の顔も、少しずつ変わっていった」
灯也は苦笑する。
「そんなに変わりましたか」
「ああ。最初は、自分のことしか見えていなかった。今は違う」
灯也は言葉を失った。
図星だった。
最初の頃は、自分の空洞ばかり見ていた。けれど今は、誰かの涙を見れば胸が痛み、誰かが笑えば少しだけ救われる。そんな夜が増えていた。
「人はね」
運転手が言う。
「誰かの人生に触れながら、自分を思い出していく」
灯也は息を飲む。
「思い出す……?」
「そうだ。忘れたものは急には戻らない。遠回りするんだ。他人の涙を借りたり、後悔を見たり、幸せを見送ったり。そうして少しずつ、自分のところへ帰ってくる」
灯也は胸を押さえた。
運転手はそれ以上言わなかった。だからこそ、その言葉が胸に残った。
やがてバスがゆっくり速度を落とす。
停留所だった。
古びたベンチ。
一本の街灯。
白い標識。
そこにはこう書かれていた。
『始まりの停留所』
灯也は首を傾げる。
「ここは……」
「降りてみなさい」
運転手はそれだけ言った。
灯也が外へ降りる。
夜風が吹く。
バスはまだ停まっている。
振り返ると、運転手が窓越しに言った。
「旅は終わりじゃない。
ここからが、本当の始まりだ」
灯也は聞かずにはいられなかった。
「一つだけ」
「はい」
「俺は……何を失くしたんですか」
運転手は少し考え、静かに首を横へ振った。
「その質問が出たなら、もう半分は思い出している。
答えは、私から聞くものじゃない。
君自身が、迎えに行くものだ」
扉が閉まる。
バスは音もなく走り去っていく。
灯也は、一人取り残された。
ふと、ベンチの上に一本の白い折りたたみ傘が置かれていることに気づく。誰かの忘れ物――そのはずなのに、胸が締めつけられた。
懐かしい。
どうしようもなく、懐かしい。
手を伸ばしかけて、止まる。
なぜ、この傘を知っている気がする。
誰のものなのか。
どうして思い出せない。
傘を見つめたまま立ち尽くす灯也の耳に、どこからともなく、誰かの笑い声が微かに届いた気がした。
振り返っても、誰もいない。
夜風だけが静かに吹き抜ける。
灯也はゆっくりと白い傘を手に取る。その冷たい感触に触れた瞬間、胸の奥で、固く閉ざされていた何かが小さく軋んだ。
──まだ、終われない。
そう呟いたのは、自分だったのか。
それとも、思い出の中の誰かだったのか。
夜は、まだ続いている。
第二部 「置き去りにした夜」へ続く
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