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『夜行バス 0:00発 終着なし』忘れたはずの喪失が、今夜も隣の席に座る  作者: 比古狭霧
第一部 終点はまだ来ない

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19/21

第19駅 柔らかな欠片 — 夢が辿り着く場所

夜行バスは、夜の静かな坂道を、ゆっくりと登っていた。


窓の外では、月明かりが古びた石畳を淡く照らし、街路樹の枝葉が風に揺れるたび、影が幾重にも重なって流れていく。


夜長灯也はシートに身を預け、

胸の奥へ静かに手を添えた。


あの空洞は、

もう痛みだけではなかった。


失ったものの形はわからない。


それでも、その場所には何かが確かにあったのだと、身体だけが覚えている。


バスは緩やかに速度を落とした。


車内前方の電光掲示板に、

淡い乳白色の文字が浮かぶ。


『柔らかな欠片』


静かに扉が開いた。


降り立った先には、

一軒の古い洋館が建っていた。


外壁は白く色褪せ、

窓からは柔らかな灯りが漏れている。


どこか病院にも、美術館にも、

誰かの家にも見える、不思議な建物だった。


灯也の隣で、

一人の青年が小さく息を吐いた。


二十八歳ほどだろうか。


痩せた身体に少し大きめのコートを羽織り、

伏せた視線は何かを探すように絶えず揺れている。


椎名しいな 奏太そうた


彼は迷うように玄関へ歩き出した。

灯也も黙って後を追う。


扉を開けた瞬間、

空気が変わった。


床も壁も天井も、

まるで厚い布で包まれているようだった。


足を踏み出すたび、

僅かに沈み込み、

音が柔らかく吸い込まれていく。


部屋の中央には、

無数の光が漂っていた。


ガラス片にも、

水滴にも、羽毛にも見える。


触れれば砕けそうなほど小さく、

それでいて不思議な温もりを宿した光。


「ここは……」


奏太が小さく呟く。


「途中で手放した夢が、最後に辿り着く場所だ」


灯也は光へ手を伸ばしかけたが、

指先が届く前に止めた。


どの欠片も、

誰かの呼吸のように、静かに脈打っていた。


奏太は一つの光を拾い上げた。


触れた瞬間、

景色が揺らぐ。


まだ二十代前半の奏太が、

小さなアトリエでキャンバスへ向かっていた。


絵の具まみれの手。

眠れないほど夢中になって描いていた夜。


誰よりも真剣に、

自分は画家になると信じていた頃。

景色はゆっくりと色を失う。


父親の声。


「趣味で食べていけるほど世の中甘くない」


生活費。

就職。

現実。


気づけばキャンバスは押し入れへしまわれ、

最後の一本だった筆も処分されていた。


光は静かに消えた。

奏太は苦く笑う。


「これが、一つ目」


次の欠片。


海外の街を歩く若い自分。

見知らぬ言葉。

知らない景色。

憧れだけで描いていた未来。


だが飛行機の予約画面を閉じた瞬間、

その夢は誰にも知られないまま終わった。


三つ目。


個展の案内状。


四つ目。


誰かが絵を見て泣いている未来。


五つ目。


誰にも怯えず、

自分の絵を好きだと言える未来。


どれも途中で止まっていた。

完成していない。


完成する前に、

自分自身が終わらせてしまった夢だった。


「諦めたと思ってた」


奏太は欠片を見つめながら言った。


「でも違った」


静かな声だった。


「諦めたんじゃない」

「怖くなったんだ」


灯也は黙って耳を傾ける。


「失敗したら終わると思った」

「笑われたら終わると思った」

「否定されたら、自分まで無価値になる気がした」


奏太は少し笑う。


「だから夢を捨てた」

「夢じゃなく、自分を守ったんだ」


その言葉に、

部屋中の光がわずかに揺れた。


部屋の奥に、

一際大きな欠片が浮かんでいた。


乳白色に輝くそれだけは、

他よりも温かかった。


奏太は震える手で触れる。


幼い自分が現れた。

画用紙いっぱいに色を塗りながら笑っている。


賞も評価も生活も関係ない。

ただ描くことが嬉しかった頃。


「……そうか」


奏太は目を閉じた。


「俺が失くしたかったのは夢じゃない」

「夢を見る自分だった」


その瞬間。


欠片が砕けることなく、

ゆっくりと光へ溶けた。


無数の粒が舞い上がり、

静かに奏太の胸へ吸い込まれていく。


彼は大きく息を吐いた。


肩から、長い年月背負っていた重さが少しだけ落ちる。


灯也はその光景を見つめながら、

自分の胸へ手を当てた。


空洞はまだある。

だが、その奥にも。


まだ名前のつかない何かが眠っている気がした。


捨てたのか。

失くしたのか。

置いてきたのか。


それすら、まだ思い出せない。


奏太は灯也へ振り返った。

穏やかな笑みだった。


「欠片は柔らかい」

「だから簡単に壊れる」


少し間を置いて続ける。


「でも、本当に壊れたわけじゃない」

「拾おうとする人を、ずっと待ってる」


灯也は静かに頷いた。


その言葉は、

不思議と胸の奥へ沈んでいった。


二人が洋館を出ると、

夜風が優しく頬を撫でた。


バスは何事もなかったように待っている。


乗り込む直前、

灯也はもう一度だけ館を振り返った。


窓の向こうでは、

無数の光が静かに揺れている。


誰かが諦めた夢。


誰かが守ろうとして置いてきた未来。

それらは消えてしまったわけではない。


ただ、持ち主が迎えに来る日を待ち続けているだけなのだ。


バスがゆっくりと走り始める。

窓の外で洋館の灯りが小さくなっていく。


灯也は胸に手を当てた。

空洞はまだ埋まらない。


けれど、その底に、

柔らかな何かが触れた気がした。


それは失われた夢ではない。


いつか、

自分自身へ帰るための、

小さな欠片だった。


夜行バスはまた、

次の停留所へ向けて静かに闇を走り続ける。

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