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『夜行バス 0:00発 終着なし』忘れたはずの喪失が、今夜も隣の席に座る  作者: 比古狭霧
第一部 終点はまだ来ない

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16/21

第16駅 落ちきれない涙 — 湖のほとり

夜の底に、湖はあった。


水面は黒く、底知れず、まるで世界のすべての悲しみが逆さまに沈んだ鏡のようだった。月も星も見えず、ただ水底から淡い燐光が浮かび上がり、表面を薄く、冷たく照らしている。その光は決して波立たず、決して散らない。凍てついたままの、誰かの涙の亡骸のように。


灯也は、気づけばその湖畔に立っていた。いつバスを降りたのか、いつここへ来たのか、記憶にない。ただ胸の奥の空洞だけが、静かに、深く、脈打っていた。この湖がその空洞を呼んだのだと、肌が感じていた。


湖のほとりに、古びた木の椅子が一つ。そこに腰を下ろしている青年の背中が見えた。二十代半ば、佐藤さとう 悠真ゆうま。肩は落ち、首はうなだれ、指先は膝の上で石のように固まっている。


悠真は、湖に向かって、ほとんど声にならない声を落とした。


「……母さん」


湖は答えない。ただ、水面がわずかに歪んだ。歪みの奥から、ぼんやりとした映像が浮かび上がる。白い病室。点滴の管。痩せ細った女性の指が、青年の手を握り返そうとするが、力なく滑り落ちる瞬間。


悠真の喉が、ごくりと動いた。


「泣けない。……どうしても、泣けないんだ」


そのとき、霧の奥から低く響くエンジン音が遠ざかっていった。バスが去る直前、車体前方の電光掲示板が淡い青白い光を最後に放った。


『落ちきれない涙』


湖の表面に、新たな映像が重なる。今度は、葬儀の場。棺の前で、悠真はただ立ち尽くしている。周囲の親族が肩を震わせ、声を殺して泣く中、彼の目だけは乾いていた。まるで、涙という器官を、どこか遠い場所に置き忘れてきたように。


灯也は、青年の少し後ろに立ち、息を潜めた。

自分の胸の空洞が、湖の静けさと共鳴して疼くのを感じていた。


湖の水面が、再び静かに波打った。

今度は、言葉ではなく、感情そのものが直接、悠真の胸に響くように。


《お前は悲しくて泣けないのではない》


悠真の肩が、びくりと震えた。


「資格……?」


《泣けば、母さんは本当に死んでしまうからだ》


湖の声は優しく、しかし容赦なかった。


映像が次々と浮かぶ。


幼い悠真が母に手を引かれて歩く公園。

受験の前夜、母が作ってくれたおにぎり。

入院した日、母が弱々しく笑った顔。

最後の夜、母が「ありがとう」と囁いた声。


《お前は今も毎日、母を生かしている》


《泣けば、思い出になる》


悠真は膝をついた。両手を水に浸す。

冷たさが骨まで染みる。


「母さん……」


湖の底から、柔らかな女性の声が、

直接、悠真の胸に響いた。


母の声だった。


《悠真……まだ私を生かしてるの?》


悠真の喉が、ひび割れるように震えた。


《苦しいでしょう》


《私も苦しいよ》


《もう、死なせてあげなさい》


涙が、悠真の目尻に浮かんだ。

しかし、それは落ちない。


まるで透明な棘のように、瞼の裏に刺さったまま、じわりと滲むだけだった。


「資格なんて……俺に、あるのか?」


《ある。だが、それは「悲しみの深さ」ではない。「覚悟の深さ」だ。私の死を、君の人生の一部として、永遠に抱えていく覚悟》


悠真は声を殺して泣き始めた。


最初の一滴が、ゆっくりと頰を伝った。それは、長い間凍りついていたものが、ようやく溶け出した証だった。


滴は湖面に落ちた。

音はしなかった。


しかし、水面全体が、静かに、深く、波立った。波紋は広がり、湖の底まで届き、無数の燐光を一斉に揺るがせた。光の粒が、水底から舞い上がり、悠真の周囲を静かに包み込む。


二滴目、三滴目。

涙は、次第に勢いを増した。


青年は肩を震わせ、拳を地面に押しつけ、まるで大地にすべてを吐き出すように泣いた。


灯也は、

その光景をただ見つめていた。


自分の胸の空洞が、青年の涙に呼応するように熱を帯びる。灯也にも、落ちきらない何かがある。名前も顔も思い出せない誰かに対して、まだ一滴も零せていない、固く凍った痛みがある。


悠真の涙が湖に落ち続けるにつれ、

水面の映像が変わっていった。


母の微笑み。幼い悠真を抱き上げる腕。病室での最後の握手。そして、棺が閉まる瞬間ではなく、その後に続く、静かな朝の光景——悠真が一人、母の遺した部屋で、手紙を読み返す姿。


涙は、ただの悲しみではなかった。それは、母の人生を、青年の人生の中に永遠に溶け込ませる、静かな儀式だった。


やがて、悠真は立ち上がった。頰は濡れ、目は赤く腫れていたが、その瞳には、初めて、底知れぬ静けさが宿っていた。


湖の燐光が、

ゆっくりと収まっていく。


水面は再び鏡のように静かになった。しかし、そこには以前とは違う、わずかな温かみが残っていた。


悠真は小さく頷き、

湖に向かって、ただ一言だけ呟いた。


「……ありがとう」


その言葉とともに、

青年の姿は、淡い霧のように薄れていった。

湖畔に、ただ一筋の涙の跡だけが残る。


灯也は、

湖のほとりに一人、残された。


水面に、自分の顔が映っていた。

そこに浮かぶ目は、まだ乾いていた。


しかし、その奥で、

何かがゆっくりと、溶け始めている気がした。


湖は、ただ静かに、深く、息をしていた。

次の涙を、いつか、誰かのために。


夜行バスは再び動き出した。

湖のほとりがゆっくり遠ざかっていく。


灯也はシートに深く身を沈め、胸に手を当てた。そこにある空白が、灰色の風のように冷たく、しかしどこか澄んだ疼きを残していた。


夜は深く、しかし確かに続いていた。

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