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『夜行バス 0:00発 終着なし』忘れたはずの喪失が、今夜も隣の席に座る  作者: 比古狭霧
第一部 終点はまだ来ない

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17/21

第17駅 花弁の裏側 — 隠された想いの庭

夜行バスは、月明かりに照らされた静かな坂道をゆっくりと上っていた。


窓の外では、古い石畳が銀色に輝き、風に揺れる木々の影が長く伸びては絡み合う。灯也はシートに体を預け、胸の奥の空白が今夜は柔らかく、しかし確かに疼いているのを感じていた。表向きの笑顔や言葉の裏側に、ずっと押し込めてきたものが、静かに息づいている。


バスが緩やかに減速した。

車体前方の電光掲示板が、柔らかな桜色の光を放つ。


『花弁の裏側』


扉が音もなく開いた。

外は、静かな庭園だった。


そこは「花弁の裏側の庭」と呼ばれる不思議な場所で、無数の花が咲き誇りながらも、その花弁の裏側に、さまざまな想いが淡い光となって眠っている。月光が花々を優しく包み、夜風がそよぐたび、光の文字が一瞬だけ浮かび上がりは消える——隠されたままの、儚い告白の群れ。


灯也は冷たい夜気に包まれながら、庭の小道を歩いた。


淡い黄色のワンピースを着た小さな少女が、花束を胸に抱いて奥へと進んでいた。白石しらいし 花音かのん、十一歳くらいだろうか。瞳はどこか遠くを見つめ、儚い光を宿している。


花音は一輪の白い花の前に立ち止まり、

優しく花弁をめくった。


そこに、淡い光の文字が浮かび上がる。


『お母さんへ 大好きだよ。いつもごめんね。』


花音の指が震えた。


「これ……私が、小学校の卒業式のときに書いたメッセージ。お母さんに渡せなかった花束の裏側に、こっそり書いたの」


彼女は花弁をさらに丁寧にめくった。

次々と、光の文字が現れる。


『お母さんが泣いているとき、ちゃんと抱きしめてあげられなくてごめんね』


『お母さんの作ったお弁当、全部美味しかったよ』


『お母さん、ずっと大好きだったよ。怖くて、言えなかった』


花音の目から、大きな涙が零れ落ちた。

月光がその涙を宝石のように輝かせ、

花弁の裏側に吸い込まれていく。


隣の花には、

別の光の文字が浮かんでいた。


『父さん、ごめん』


さらに向こうの花からは、

弱々しい光が漏れていた。


『本当は行かないでほしかった』


花音は周囲の花々をそっとめくり続けた。


そこには、誰かに伝えられなかった

無数の小さな愛が、光の欠片となって息を潜めていた。


「みんな、隠してたんだね」


花音は小さく呟いた。


母は仕事で忙しかった。

朝早く家を出て、夜遅く帰る。


花音は何度も「寂しい」と言いたかった。

でも母が疲れている顔を見ると、言えなかった。


反抗期には「うるさい」「放っておいて」とばかり言っていた。本当は大好きだったのに。


花弁をめくった瞬間、運動会の日が蘇った。

母が朝四時に起きて作った弁当。

花音は照れ臭くて「普通」としか言えなかった。


花弁が淡く光る。


別の花弁には、受験の夜の記憶が宿っていた。

母が作ってくれたおにぎり。

花音は「ありがとう」とは言えなかった。


花弁が静かに輝く。


「私は、いつも花のように綺麗に見せたくて、本当の気持ちを裏側に隠していた。表側は笑顔の花束で、裏側にだけ本音を書いて……恥ずかしくて、怖くて、直接渡せなかった。お母さんが亡くなった今、ようやく気づいた。私は『見せられなかった本当の気持ち』を、ずっと失くしていたんだ」


湖の声のように、

庭全体が静かに囁いた。


《なぜ裏側に書いたと思う?》


花音は答えられない。


《本当に伝えたくなかったからじゃない》


《失いたくなかったからだ》


《言葉は口にした瞬間終わる》


《だが言えなかった想いは、ずっと胸の中で生き続ける》


花音は最後の花に触れた。

花弁の裏側に、淡い光の文字がゆっくり浮かび上がる。


『お母さん、ありがとう。愛してる』


その瞬間、花の裏側から、

今までなかった文字が現れた。


『知ってたよ』


花音が息を止める。


『全部知ってた』


『お弁当を残さなかったことも』


『毎日玄関まで見送ってくれたことも』


『言えなかったことも』


『全部』


花弁全体が柔らかな桜色の光を放ち、

花音の胸に静かに吸い込まれていった。

少女の体が、わずかに震え、肩の力がふっと抜けた。


「やっと……言えた」


花音は静かに微笑んだ。


頰には涙の跡が残っていたが、その表情はこれまでで一番穏やかで、透明だった。隠し続けていた想いが、ようやく花の光となって還ってきた瞬間だった。


灯也は少し離れた花影から、

その光景を黙って見守っていた。


自分の胸の奥でも、花弁の裏側に隠した想いが、静かに疼く。名前も顔も思い出せない誰かへの、言えなかった「ありがとう」と「好きだ」と「ごめん」。花のように美しく見せかけた日常の裏側で、腐りかけていた愛。


花音は花束を胸に抱き、

ゆっくりと庭の出口へと歩き出した。

その小さな背中を、月光と花弁の光が優しく照らす。


灯也は振り返った。


月光の中で、無数の花が静かに揺れている。

花弁の表側は美しかった。


だが本当に美しいのは、

誰にも見せなかった裏側なのかもしれない。


愛は、伝えられた言葉だけではない。

伝えられなかったからこそ、

消えずに残り続けるものもある。


風が吹いた。

一輪の花が揺れた。


その裏側に浮かんだ文字を、

灯也は最後まで読むことができなかった。

それでも胸の奥で、何かが小さく震えた。


まるで自分にも、

まだめくられていない花弁があるのだと、

静かに告げるように。


バスは再び動き出した。

窓の外、花弁の裏側の庭がゆっくりと遠ざかっていく。


花音は座席に深く体を沈め、静かに花束を抱きしめていた。

その横顔には、初めての安堵と、静かな強さが浮かんでいた。


灯也は窓に額を寄せ、胸の奥の空白を見つめた。


――俺の花弁の裏側には、まだ何が隠されているのだろう。


夜は静かに続いていく。


花弁の裏側の庭では、また誰かが、隠していた想いをそっとめくり続けるのを、優しく待ち続けている——。

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