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『夜行バス 0:00発 終着なし』忘れたはずの喪失が、今夜も隣の席に座る  作者: 比古狭霧
第一部 終点はまだ来ない

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15/21

第15駅 誰も眠らない夢の倉庫 — ある夜の情景

夜行バスは、霧の深い夜道を静かに滑るように走っていた。窓の外では、街灯の光がぼんやりと滲み、遠い闇の中に巨大な建物の影が浮かんでいた。


灯也はシートに深く身を沈め、胸の奥の穴にそっと手を当てた。毎夜のように疼くその空白は、形を少しずつ変え始めていた。痛みは変わらない。ただ、今夜はどこか、遠くで囁くような気配が混じっていた。


車体前方の電光掲示板が、淡い橙色の光を夜の闇に落とした。


『誰も眠らない夢の倉庫』


扉が音もなく開いた。古い木と埃と、甘く重い夢の匂いが車内に流れ込んできた。灯也が降り立つと、隣に一人の影が立っていた。


二十代後半の男性——霧島きりしま とおるだった。スーツのネクタイを緩め、疲れた目で倉庫の入口を見つめている。瞳には、この世の光とは違う、透明で儚い輝きが宿っていた。


灯也は黙って彼の隣に並び、二人は倉庫の中へ足を踏み入れた。


内部は広大だった。天井は高く、棚が無限に連なり、その一つ一つに古びた木箱が積み上げられている。箱の隙間から淡い光が漏れ、まるで眠っている誰かの息遣いが聞こえてくるようだった。棚には無数の箱が積まれていた。


箱の隙間から漏れる光は色も明るさも違った。黄金色に輝く箱。青白く震える箱。今にも消えそうな小さな光。耳を澄ますと、「あと一歩だった」「明日なら言えると思った」「今度こそ挑戦するつもりだった」そんな囁きが、木箱の隙間から漏れていた。


「ここは……人々が本当は見たかったのに、見られなかった夢が集まる場所だ」


透が静かに言った。


「怖くて、現実に戻るのが怖くて、目を覚ましてしまった夢。恐怖の夢でも悲しい夢でもない。ただ、勇気を出せば変わりそうだったのに、朝が来る前に蓋をしてしまった夢……それが全部、ここに眠っている」


灯也は棚にそっと触れた。指先から微かな震えが伝わってきた。箱の一つ一つが、静かに脈打つように光っていた。


二人は奥の通路を進んだ。棚の隙間から光の粒が時折こぼれ落ち、床に落ちるとすぐに消えていく。遠くから、誰かの囁くような声が聞こえた。「もしも……」「もう少しだけ……」


透が足を止めた。


深い棚の前に、彼の名が薄く刻まれた箱があった。埃に埋もれ、ラベルはほとんど剥がれかけている。


「これが……俺の箱だ」


透は箱をそっと引き出した。

軽く、しかし中から伝わる気配は静かで力強いものだった。


箱を開けると、光が溢れ出した。

それは一つの夜の情景だった。


昔の透が、夜の街角に立っていた。


同じ映画サークルにいた女性に想いを伝えようとしていた夜。卒業の日、駅前で告白するつもりだった。夢の中では何度も成功していた。彼女が微笑んで受け入れてくれる夢も見た。振られる夢も見た。それでも伝えようとしていた。けれど現実の怖さに負けて足を止めてしまった。あの夢は、そこで途切れていた。


箱の中の光がゆっくり形を変え、夢の中の透自身が現れた。勇気を出そうとした夜の影が、目の前の透を見つめていた。


「お前は俺を置いていった」


夢の透が静かに言った。


「怖かったんだ」


現実の透が答える。


「知ってる」


「失敗するのが怖かった」


「知ってる」


「嫌われるのが怖かった」


「知ってる」


夢の透は小さく笑った。


「でも、一番怖かったのは傷つくことじゃない」


透は黙った。


「変わってしまうことだったろ?」


光の粒が溢れ、二人の間に舞い上がった。

一つ一つの粒が、勇気を出しかけた瞬間の記憶——

震える指先、伝えかけた言葉、夜風の匂い。


粒は透の胸へと静かに吸い込まれていった。


「もう、眠らなくていい」


夢の影が最後に言った。


「君がここに来てくれたから、俺の夢は、もう一人じゃない」


影が光に溶け、箱の中は静かになった。


透は箱をそっと閉じ、棚に戻した。

ラベルに、わずかな新しい光が灯ったように見えた。


灯也は少し離れた場所から、

その光景を静かに見つめていた。


胸の奥の穴が、ほのかに温かくなった。痛みはまだ残る。けれど、それはただの空白ではなく、何かをそっと待っていた「勇気」の欠片のように感じられた。


透が振り返った。


「ありがとう……見ていてくれて」


灯也は小さく頷いた。


透の輪郭がゆっくりと薄れ、

光の粒に包まれて倉庫の奥へと溶けていった。


灯也は一人、倉庫の中に残された。


無数の箱が、静かに光を灯し続けていた。

誰もが見なかった夢たちが、眠らずに息づいている。


彼は自分の胸に手を当てた。


もし自分の箱がここにあったなら……

どんな夢が眠っているのだろう。


出口へ向かう途中、灯也は振り返った。

無数の箱の中で、ひとつだけ蓋が僅かに開いていた。


名札は霞んで読めない。

だが、そこから漏れる光だけは知っている気がした。


胸の奥が痛む。

誰かの名前が、喉元まで込み上げる。

けれど思い出せない。


灯也は視線を逸らした。


その箱は、

まるで彼が戻ってくるのを待つように、

静かに光り続けていた。


風が倉庫の奥からそっと吹き、灯也の頰を撫でた。

一粒の光が、灯也の胸の前でしばらく浮かんでいた。


灯也はゆっくりと出口へ向かった。

倉庫の扉は半開きのまま、外の霧が流れ込んでいた。


胸の奥で、まだ名前も形も持たない、

しかし確かに「勇気」の欠片のようなものが、

静かに息づいていた。


誰も眠らない夢の倉庫は、

今日も光を灯し続けている。


見なかった夢は、消えることなく、

誰かの胸の奥でそっと息づいている——。


夜は深く、しかし優しく続いていた。

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