第9話 戦域誘導
ギンは鋭い爪を閃かせ、男の胸元にへばりつく黒いモヤへと容赦なく飛びかかった。
だが、間に合わないーー。
黒いモヤは吸い込まれるように若い男の体の中へと完全に入り込んでいった。
「……っ!?」
咄嗟に身構えたが、周囲に爆発が起きるわけでも、男の身体が異形に変化するわけでもなかった。
ただ、男の口から、およそ人間のものではない、冷徹な声が漏れ出す。
「……やっと見つけたわい。器となる、人間の身体」
見た目こそ先ほどのスーツ姿のサラリーマンのままだ。
しかし、その全身から放たれているオーラは、先ほどまで漂っていたあの不気味な黒いモヤそのものだった。
見た目は人間のままで、中身だけがすり替わったかのようなこの現象は、完全に初めて遭遇するものだった。
「おい……どうなってんだ……」
初めての事態に俺が完全に戸惑っているのをよそに、ギンはすでに動いていた。
その爪に眩い「光」をまとわせ、空気を引き裂くような音を響かせた、容赦のない攻撃。
しかし、男は避ける素振りすら見せなかった。濁った瞳をゆっくりとギンへ向け、冷たく吐き捨てる。
「 鬱陶しいの」
男は飛びかかるギンに向けて、ただ面倒そうに、無造作な動作で拳を振るった。
ーーその瞬間、爆音が響いた。
拳が空気を削る音ではない。男の腕の一振りから、路地裏の空気を総ざらいするような、とてつもない暴風が巻き起こったのだ。
「うわあああっ!?」
衝撃波に近いその突風は、地面を踏み締めていた俺の身体を、まるで紙切れのように軽々と持ち上げた。上下の感覚が激しく反転し、そのままビルのコンクリート壁に向かって背中から力任せに吹き飛ばされる。
「ガハッ……、ゴホッ……!」
強烈な衝撃が背中に走り、肺の空気をすべて強制的に吐き出されて、俺は湿った地面に転がった。あまりの痛みに視界がちかちかと明滅する。
舞い上がるゴミとちりの向こうで、男は自分の両手をじっと見つめ、不気味に指を曲げ伸ばししていた。
「ふむ……まだ完全に馴染んではいないが、悪くない。やはり人間の肉体というのは素晴らしい『器』じゃ」
声音には底知れない冷酷さと、悍ましい悦びが満ち満ちていた。
確信した。これは、肉体を完全に乗っ取られたんだ。
「ガルルルル……ッ!!」
壁際に倒れ込む俺を背後に庇うようにして、ギンが素早く前に着地した。
光をまとった爪を構えたまま、これまでにないほど激しく毛を逆立て、低く鋭い唸り声を上げて男を睨みつけている。
「おい、そこの犬っころ。先ほどからチョロチョロと……」
男が忌々しげにギンへ視線を向けた。その瞳は、白目の部分まで薄黒く濁りきっている。
「ギン、来るぞ! 警戒しろ!」
俺の悲鳴のような指示と同時に、男の姿が視界から掻き消えた。
速いーー目で追えない!
「鬱陶しいわい」
次の瞬間、ギンの真上から男の鋭い蹴りが振り下ろされる。
ギンは寸前でバックステップを踏んで避けたが、男の革靴が触れたコンクリートの地面は、まるで至近距離で爆弾でも落とされたかのように粉々に砕け散り、激しい土煙を上げた。
昨日の巨大な『鬼』とは違う。あのときは動きが鈍重だったが、この「人間の身体」を得た黒いモヤは、スピードもパワーも桁違いに跳ね上がっている。
「ワンッ!」
だが、ギンも怯まない。着地の勢いを利用して再び跳躍し、男の懐へと飛び込む。
光の軌跡が男を捉えた。
しかし、男はニヤリと不気味な笑みを浮かべたまま、腕を強引に振り抜いた。
ドカン、と再び激しい衝撃波が狭い路地裏を吹き抜ける。俺は目の前で繰り広げられる常軌を逸した戦闘に、冷や汗が止まらなかった。
「クソッ、このままじゃ……!」
背中を打った痛みに歯を食いしばりながら、俺は路地裏の入り口へと目をやった。
すぐそこは、華やかな渋谷の表通りだ。一歩外へ出れば、そこには数え切れないほどの「人の波」がある。もしコイツがこのまま外に飛び出して、あの怪物じみた暴力を振るえば、どれほどの大惨事になるか想像もつかない。
俺はぐっと拳を握りしめ、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「ギン、まともにやり合うな! 距離を取れ!」
俺の声に応え、ギンは男の腕を鋭い爪で牽制しながら、しなやかな跳躍でバックステップを踏み、俺の隣へと飛び退いた。
「ほほう、逃げるか?」
男はニヤリと浅浅と口元を歪め、ゆっくりとこちらへ歩を進めてくる。
一歩踏み出すたびに、足元のコンクリートにピキピキとクモの巣状のヒビが入っていく。威圧感が凄まじい。
だが、コイツの意識は完全に俺たちに向いている。だったら、確実に誘導できるはずだ。
「ギン、あっちだ!」
俺は路地裏のさらに奥ーー渋谷の再開発エリアの隅に取り残された、取り壊し予定の古い雑居ビルを指差した。
周囲は人間の背丈を超える高い仮囲いで厳重に塞がれており、人気は一切ない。あそこなら、
「こっちだ、化け物! 」
あえて声を張り上げて男を挑発し、俺は痛む身体を無理やり鼓舞して、廃ビルへと走り出した。
ギンが俺の走る速度に合わせてぴったりと並走し、時折振り返っては男に向けて低く威嚇の声を上げて引きつける。
「このワシに対して『化け物』とは……。細切れにしてくれるわ」
男の身体から放たれる黒いオーラが一段と濃くなり、ゾッとするような冷たい殺気が背後から迫ってくる。
男が凄まじい速度でこちらへ突進してくる気配がした。
「ギン、バリケードを突っ切るぞ!」
俺たちは工事用の仮囲いにあった僅かな隙間に身体を滑り込ませ、薄暗い廃ビルの敷地内へと一気に飛び込んだ。




