第8話 生態観察
住宅街ののどかな駅を通り過ぎ、電車に揺られること四十分。
車窓から見える景色が、緑から、密集した住宅、そして巨大な灰色のビル群へと目まぐるしく変貌していく。
到着したのは、日本でも有数の巨大ターミナル駅――渋谷だった。
改札を抜けて地上へ出た瞬間、圧倒的な「人の波」と、それに伴う狂おしいほどの熱気に気圧されそうになる。すれ違う人々、飛び交う喧騒、スマートフォンの画面を見つめながら無表情に行き交う群衆。
外に出た俺の目を、何よりも奪ったのは――圧倒的なモヤの数だった。
「うぉっ!凄っ」
地元ではポツポツと見かける程度だったそれが、ここには掃いて捨てるほど溢れかえっていた。
俺はスクランブル交差点を見下ろせるビルの窓側へと移動した。昼食のハンバーガーを口に放り込みながら、ガラス越しに眼下のモヤをじっくりと観察し、忘れないうちにノートに書き込んでいく。
ペンを走らせながら、さらに目を凝らす。
白いモヤは、気ままに浮遊する風船のようだ。行き交う人々には目もくれず、ただのんびりと空へ昇っていったり、ビルの壁面に沿って流れたりしている。
対照的なのが、黒いモヤだ。
あいつらは明らかに「人」を意識している。歩行者の群れの中を縫うように泳ぎ、まるで何かを確かめるように、通りすがる人間の身体をすり抜けていく。
「……やっぱり、黒い方は人間に干渉しようとしてるな」
ガラス越しにその奇妙な光景を眺めながら、俺は確信を深めていく。
残りのポテトを口に駆け込み、昼食を終わらせて、近くで観察してみることにした。
トレイを片付けてビルを出ると、すぐ目の前を、何食わぬ顔で歩行者たちが通り過ぎていく。その足元や肩のあたりを、いくつかの黒いモヤがどろりと泳いでいた。
「ギン、この黒いモヤ攻撃してみてくれないか?」
俺が小声で指示を出す。ギンは黒いモヤを爪でひっかくように攻撃した。
―パンッ、
と、空気が爆ぜるような感覚。
次の瞬間、黒いモヤはたんぽぽのように霧散して消えた。
「……っ、消えた!」
思わず声が出そうになり、慌てて口を手で抑える。
昨日のあの巨大な『鬼』のときはあれほど苦戦したというのに、この小さな段階のモヤなら、ギンの一撃であっけなく消滅させられるらしい。
これは、めちゃくちゃデカい大発見だ。
俺は興奮を抑えきれない手で、ポケットからノートとボールペンを取り出した。
【追加でわかったこと】
合体前の黒いモヤは、ギンの攻撃で簡単に消滅する(一撃で霧散)。
これなら、もし街中で黒いモヤが合体しそうになっても、その前にギンに片っ端から消してもらえば未然に防げるかもしれない。
そう思った、矢先のことだった。
ギンが突然、ハッと耳をそばだてて姿勢を低くした。
「ギン……?」
呼びかける声を置き去りにして、ギンが何かを感じ取ったかのように走り出した。
「おい、待てって!」
俺は慌ててその後を追う。華やかな表通りから一本外れ、ビルとビルの隙間にある、人目の少ない薄暗い路地裏に入ったところ――。
そこで目にしたのは、黒いモヤが人を襲っている光景だった。
「う、うわああぁっ! 来るな、離れろっ!」
地面に尻餅をつき、狂ったように腕を振り回して怯えているのは、スーツ姿の若い男だ。
その男の胸元に、黒いモヤが完全に覆い被さっていた。
これまでの「すり抜ける」ような生ぬるい動きじゃない。黒いモヤはまるで意思を持つ猛獣のように男の胸にへばりつき、その服の隙間から、肌の奥へとズブズブと侵入しようとしている。
男の顔は恐怖で土気色に変色し、その目からは急速に生気が失われつつあった。
周囲の人間にはこのモヤが見えていないのか、路地の手前を通り過ぎる人々は、ただの「酔っ払いが錯乱して暴れている」としか思っていないようで、誰も足を止めようとしない。
「ギン、あれを引き剥がせ!」
俺の叫びと同時に、ギンが牙を剥いて黒いモヤへと飛びかかった。




