第6話 相棒
カーテンの隙間から差し込む強い日差しが、俺の瞼を容赦なく叩いた。
壁の時計の針は、午前7時を少し回ったところを指している。
いつもなら、せっかくの土曜日の朝を貪るように二度寝を決め込んでいる時間帯だ。
スマホの通知を消し、布団に潜り直すのがこれまでの俺の定番だった。
だが、今日ばかりは違った。目が冴え渡り、頭の芯が妙に熱い。
昨夜ノートに書き殴ったあの「現実離れした事実」が、ただの夢ではなかったことを証明するように、胸の奥で心臓がドクドクと心地よい緊張感を刻んでいた。
手早く洗顔を済ませて冷水で顔を引き締めると、鏡の中の自分と目が合う。
心なしか、昨日までの一歩引いたような退屈そうな顔とは違って見えるのは、気のせいだろうか。
ほんの少しだけ、世界に期待しているような、そんな目。
クローゼットからお気に入りの黒いパーカーを引っ張り出して羽織り、玄関でスニーカーの紐をきつく結びながら、俺は足元でじっとこちらを見上げてくる犬へと向き直った。
「なぁ。これから一緒に行くにあたって、ずっと『お前』とか『犬』って呼ぶのも味気ないだろ」
白銀の美しい毛並み。触れようとしても、俺の指先は冷たい空気を切るだけでその体をすり抜けてしまう。体温もなければ、呼吸の音もしない。だけど、そこに確かに存在する知性を孕んだ瞳が、俺の言葉を待つように瞬きを一つした。
「……『ギン』、ってのはどうだ? 白銀のギン。呼びやすいし、お前のその綺麗な見た目にぴったりだと思うんだが」
犬は一瞬、きょとんとしたように小首を傾げた。その仕草があまりに普通の犬らしくて、思わず口元が緩む。
すると、彼は俺の意図を理解したのか、嬉しそうに尾を大きく揺らした。
もちろん、実体がないのだから壁を叩く音も、風を切る音ひとつ立ちはしない。
けれど、彼の感情がダイレクトに伝わってくるようだった。ギンは「ワォン」と、短く小気味よい声で鳴いてみせた。
どうやら、その名前を気に入ってくれたらしい。
「よし、決まりだ。行くぞ、ギン」
鍵を閉め、一歩外へと踏み出す。
俺は歩きながら、意識して視界のピントを合わせるように目を凝らした。
しかし――。
「……おかしいな」
結論から言うと、家を出てから2時間程度、街のあちこちをくまなく歩き回ってみて、一つのわかったことがあった。
モヤの遭遇率が、せいぜい「野良猫と会う」ぐらいの頻度だってことだ。
映画や漫画のように、街中の至る所に不気味なモヤがうじゃうじゃと漂っている、なんていう世紀末な状況では決してなかった。
15分ほど歩いて、自動販売機の上に白いモヤが一つ、ゆらゆらと浮いているのを見つける。形を変えながら、ただそこにあるだけの存在。
そこからさらに20分歩いて、ようやく2体目のモヤを発見する。それも住宅の軒下にひっそりと佇んでいるだけだった。
その程度の地味な確率だった。昨日の今日で大冒険が始まるかと期待していた分、肩透かしを食らった気分だ。
「ギン〜。全然いないな、これじゃデータ集めもへったくれもないぞ」
すっかり歩き疲れて足が棒のようになった俺は、目的もなく辿り着いた大きめの公園のベンチに腰を下ろした。
周りを見渡せば、家族連れがレジャーシートを広げて笑い合い、犬の散歩をする老人がのんびりと歩いている。あまりにも平和で、あまりにもありふれた、ありきたりの土曜日の風景。
俺の隣にちょこんと座るギンは、退屈そうに実体のない前脚をぺろぺろと舐める仕草をしていた。
「昨日のあれは、本当に奇跡的なタイミングだったのかね。もっとこう、怪しい路地裏とかに行かないとダメなのか……?」
――その時だった。
ギンの動きが、ピタリと止まった。
ペロペロと脚を舐めていた姿勢のまま凝固し、次の瞬間には、ピクリと両耳を立てて勢いよく立ち上がっていた。
その鋭い視線は、周囲の穏やかな風景には目もくれず、公園のさらに奥――木々が茂る、昼なお暗い遊歩道の先へと向けられている。
「おい、ギン!? どうしたんだ?」
ギンは弾かれたように駆け出した。
その速度は凄まじく、白銀の残像だけを残して、木々の影へと消えていく。
「待てよ、置いてくな!」
俺は慌ててリュックのチャックを閉め、斜めに背負い直すと、ギンの後を追って全力で走り出した。
舗装された道路から、土と落ち葉が敷き詰められた薄暗い遊歩道へと足を踏み入れる。木漏れ日すら届かないその場所は、周囲の賑やかな声が嘘のように遮断され、しんと静まり返っていた。ひんやりとした空気が肌を刺す。
ギンの気配だけを頼りに、息を切らせて木々の隙間をすり抜ける。
そして、少し開けた小さな広場のような場所に飛び出した時、俺は自分の目を疑った。
そこでは、周囲のありとあらゆる方向から、無数の「白いモヤ」が、空間の一箇所に向けて吸い込まれるように集まっていたのだ。
これまで見てきた白いモヤは、どれも意志を持たずに空中をのんびりと漂うだけの、文字通り「無害な存在」に見えた。
街のあちこちに点在していた、あの野良猫のような奴らが、いま、どういうわけかこの場所に集結している。
いや、奴らはただ集まっているのではない。まるで明確な、強い意志を持った磁石に引き寄せられるかのように、次から次へと流線型を描いて路地の奥、空間の歪みへと激しく流れ込んでいく。
十、二十、いや、数え切れないほどの白いモヤが、一箇所に凝縮されていく。
集まった白いモヤたちは、互いに融合しながら徐々にその密度を増し、巨大な生き物のようにうごめき始めていた。さっきまで透き通るようだった白いモヤは、質量を感じさせる「塊」へと変わっていく。
昨日の記憶が、鮮烈に脳裏をよぎる。
黒いモヤが集まり、あの凶悪な『鬼』へと変貌を遂げた。
なら――あの無害だと思っていた「白いモヤ」がこれほどまでに融合した先にあるのは、一体何なんだ?
黒が『悪意』なら、白は『善』なのか?
俺はただ息を呑みながら、白く巨大に膨れ上がっていくその光景を、じっと見つめ続けることしかできなかった。




