第36話 蟷螂之斧
「今日から本格的に鍛えていくから」
翌日、訓練場に現れた楓先輩は、いつも通りの淡々とした口調でそう言った。
はじめ先輩と華蓮先輩そしてギンが後ろで「がんばれー」と呑気に手を振っている。
「それじゃあ、組手をしていく。もしできるなら反撃していいよ」
楓先輩がすっと構えをとる。
正直に言うと、俺――琥狛はこのとき、心のどこかで楓先輩のことを舐めていた。高校のときに体育の授業でやったことがあるし、体格だって俺の方が一回りほど大きい。自分より背が低く、体重も軽そうな女性に、力比べで負けるはずがない。
そんな甘い考えが頭をよぎっていた。
「じゃあ、いくよ」
楓先輩の静かな声が響いた、次の瞬間だった。
視界が、ぐわりと上下に回転した。
背中に強烈な衝撃が走り、息が詰まる。ドサァァァン! と訓練場のマットが大きく鳴った。
「ぶっ、は……!?」
何が起きたのか、一瞬理解できなかった。俺はいともたやすく、彼女に投げ飛ばされていたのだ。
受け身もまともに取れず、天井の蛍光灯を呆然と見つめる。細い腕からは想像もつかないような、理不尽なまでの怪力だった。
痛む背中を押さえながら這いつくばる俺に、楓先輩の冷たい視線が降ってくる。
「何してるの。早く立たないと。現場では命取りになる。」
その声音には一切の容赦がなかった。
「さぁ、まだまだやるよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中でパチリと音がして、眠っていたプライドに火がついた。
このまま無様に負けたままで終われるわけがない。
「……っ、もう一回お願いします!」
俺は勢いよく立ち上がり、今度は油断なく重心を下げて楓先輩に組み付いた。力任せに押し込もうとする。
しかし、俺が力を入れた瞬間、まるで暖簾に腕押しのようにその力が綺麗にスカされた。
体勢を崩したところを、再び鮮やかな首投げでマットに叩きつけられる。
悔しくて、何度も、何度も立ち上がって向かっていった。汗が目に入って染みようが、構わず手を伸ばした。
けれど、結果はすべて同じ。一度として、彼女の身体を揺らすことさえできなかった。
「ハァ……ハァ……っ! 楓、先輩……強すぎ、ないですか……!?」
ついに大の字にひっくり返り、俺は激しく上下する胸を抑えながら声を絞り出した。
全身の体力が一滴残らず搾り取られ、指一本動かすのも億劫だ。完全に完敗だった。
そんな俺を、楓先輩はやはり汗一つかいていない涼しい顔で見下ろした。
ただ、その瞳の奥には、何度も向かってきた俺への、小さな認めのようなものが灯っている気がした。
「純粋な力だけだったら、君と同じくらいだよ」
楓先輩はそう言って、呼吸を整えるように小さく息を吐いた。
「私はそれ以外に、ちょっとずるしてるから。だから、今私に勝てなくてもへこむことはない。……そのずるは後々、君に教えるから。今はまだ土台をつくっていく段階」
ずる、という言葉の響きに、俺は疲弊した頭をなんとか働かせた。
それが実体化因子に関わる技術なのか、それとも彼女自身の「相棒」の力なのかは分からない。
けれど、その圧倒的な強さの秘密をいつか自分も手に入れられるのだと思うと、悔しさの裏側で、妙な高揚感が胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
「ほら、はじめが呼んでるよ。」
楓先輩が顎で示す先では、はじめ先輩が八咫烏の大和を肩に乗せて笑っていた。




