第3話 黒き怪異と白銀の咆哮
「助けてくれ」
本来なら、こんな異常事態の真っ只中で、言葉も通じない獣に命を預けるなんて正気の沙汰ではない。犬に頼るなど不確実極まりなく、本能的な恐怖を煽られるだけのはずだった。
だが、違った。この犬から放たれるのは、神聖で、侵すべからざる、圧倒的な『神々しい気配』。その光を浴びた瞬間、俺の心を支配していたドス黒い絶望が嘘のように融けて消えていく。不思議なほどの、絶対的な安心感があった。
根拠のない確信。そして、そこから犬と鬼の戦いが始まった。
突如として現れた白銀の乱入者に、鬼は一瞬、明確な困惑を見せた。だが、それも刹那のこと。獲物を前にした飢餓感と苛立ちが勝ったのか、鬼の眼が怒りで血のように赤く染まる。
「ガァァァァッ!」
次の瞬間、鬼は攻撃に移っていた。
それは、先ほど俺に放たれた攻撃とは次元が違う、『凶悪な一撃』だった。大人二人分の巨躯から繰り出される丸太のような剛腕が、狂暴な黒いモヤを纏って文字通り空気を爆ぜさせる。まともに喰らえば、魂ごと消滅させられかねない攻撃。
だが――犬は、それを軽々しく避けた。
「……速いっ!?」
その場に残像を残すほどの速度。犬の戦闘力は、俺の想像を遥かに超越していた。
鬼の振り下ろした拳が、ただ空を舞うだけ。鬼の攻撃は犬にかすりもしない。
しかもただ避けているだけではない。犬は、鬼の剛腕を紙一重でかわすと同時に、カウンターの攻撃を急所に当てていた。
着地と同時に地を蹴り、弾丸のような速度で鬼の懐へと潜り込む。白銀の軌跡が閃いたかと思えば、犬の鋭い爪が鬼の身体を深く引き裂いていた。避けると同時に、もう次の攻撃が命中しているのだ。流れるような、完璧な攻防一体の武の体現がそこにあった。
「ギャッ!? ガ、アァッ!」
鬼の悲鳴が境内に響き渡る。
犬の凄まじい猛攻を連続で喰らい続けていた鬼の身体に、明らかな異変が起き始めていた。
攻撃を受けるたび、その巨体が目に見えて小さくなっていっているのだ。よく見ると、犬の爪や牙が引き裂いた傷口から、血の代わりに不気味な『黒いモヤ』がドクドクとあふれ出している。霧散していく黒いモヤは、鬼の存在理由そのものであるエネルギーなのだろう。
それを削ぎ落とすように、犬の猛打は加速する。
焦った鬼が両腕を振り回し、周囲の空間ごと圧殺しようと狂乱の連撃を放つが、犬は残像すら残す速度でそのすべてを翻弄した。右へ、左へ、そして鬼の巨体を駆け上がるようにして、容赦のない一撃を次々と叩き込んでいく。
大人二人分もあった鬼の身体が、一回り、いや二回り小さくなり、ついに俺と同等の体格にまで縮んだその時。
犬の動きがピタリと止まった。
その右前脚――鋭く伸びた爪に、周囲の残光が文字通り吸い寄せられるように集束していく。キィィィンと耳鳴りのような高音が静まり返った境内に響き渡る。
決戦の合図だった。
犬は地を蹴り、光の軌跡を描きながら圧倒的な速度で跳躍した。すれ違いざまに放たれた一閃。それは夜の帳が下り始めた空を切り裂く、一筋の神雷のようだった。
閃光が収まった時、鬼は声も上げられずに、その場へ崩れ落ちた。勝負は決したのだ。
しかし、犬の行動はそれで終わりではなかった。
犬は倒れた鬼の前へと歩みを進めると、ふんふんと鼻を鳴らし、その身体から立ち上る黒いモヤを『吸収』し始めた。
掃除機のように、あるいは呼吸をするように、自然に鬼の残滓を吸い込んでいく。すべてのモヤを吸収し終わった時、心なしか、その犬の輪郭というか、存在自体が少し濃くなったような気がした。
嵐のような時間が過ぎ去り、静寂が戻る。
俺はへたり込んだまま、ようやく荒い息を整えた。九死に一生を得たのだ。この眼前の、美しい救世主のおかげで。
「……ありがとな」
心からの感謝が、自然と言葉になって溢れた。
俺は、その白銀の毛並みに、感謝を込めて触れようとそっと手を伸ばした。
カサリ、と。
自分の手のひらが、犬の身体を虚しく通り抜けて、冷たい地面に触れた。
「えっ?……」
理解が追いつかない俺を横目に犬は小さく一度だけ喉を鳴らすと、くるりと背を向けた。そして、そのまま吸い込まれるように、急速に濃くなる夜闇のどこかへと消え去ってしまった。また、どこかへ行ってしまったのだ。
「……帰るか」
身体の痛みに耐えながら、俺はよろよろと立ち上がった。
あまりにも現実離れした体験に頭が追いつかないが、とにかく今は、自分の部屋という絶対的な安全圏に身を隠したかった。あんな化け物にまた遭遇したら、次は本当に命がない。
這うような足取りで神社を抜け、夜道を歩き、ようやく見慣れた家の前にたどり着く。
階段を上り、自室のドアを開けた。
「はぁ……疲れた……」
生きて帰れた安堵感から、玄関で靴を脱ぎながら盛大なため息を漏らす。
そして、部屋の電気を点けた、その瞬間。
「うわぁっ!」
そこには、さっき夜闇へと消えていったはずの、あの『白銀の犬』が、我が物顔でちょこんと座ってこちらを見つめていた。




