第2話 非日常
あの奇妙な朝の体験から、数日が瞬く間に過ぎ去っていった。
結局、あの通学路の植え込みで出会った、神々しいまでの存在感を放つ「白い犬」とは、あれ以来一度も再会していない。
放課後も、翌朝も、俺――虎狛はそれとなく同じ場所を気にして自転車を走らせた。しかし、そこにいたのはただの風に揺れる緑の葉と、排気ガスにまみれたアスファルトだけだった。
狐につままれたような、あるいは出来の悪い白昼夢でも見ていたかのような、どこか現実味のない記憶。
やっぱり、いつも通りの退屈で平坦な日常に逆戻りするのだと、どこかで諦めかけていた。
しかし、俺の世界の仕組みは、あの朝を境に確実に狂い始めていた。
一つだけ、決定的な変化が起きていたのだ。
「……また、いるな」
自室の机で教科書を開きながら、俺は視線だけを部屋の隅に向けた。
幽霊、と呼ぶべきなのだろうか。それとも、もっとタチの悪いオカルトじみた怪異の類か。よく分からないが、俺の目にだけ、輪郭のぼやけた不思議な「モヤ」が映るようになった。
しかも、そのモヤには明確な『二種類』の違いがあった。
昼夜を問わず部屋の隅や街角にふらりと現れるのは、大抵が透き通るような「白いモヤ」だ。そいつらはただ漂っているだけで、ある時は部屋の壁の向こうをぼんやり見つめ、ある時は何かを探すように床をのんびり這っている。最初は背筋が凍るような不快感があったが、不思議と実害はなく、見つめているとなぜか妙な温かさすら感じる、無害な存在。
だが、ごく稀に、網膜が拒絶するような悍ましい「黒いモヤ」が混じることがある。
それは見ているだけで頭痛がしてくるほど禍々しく、じっとりとした悪意を放っていた。
薄気味悪かったはずのその現象は、数日が経つと、奇妙な好奇心へと変貌していた。
退屈が飽和していた俺の日常に現れた、唯一の未知。最近の俺は、この白と黒のモヤを観察することに、仄暗い楽しみを見出し始めていた。
「おいおい……今日のモヤは、一段と動きがおかしいな。何か、どこかに向かってんのか?」
放課後。通学路の入り組んだ路地裏で見つけたのは、後者の「黒いモヤ」だった。
いつもと違ってドス黒い輪郭を激しく波立たせ、明確な方向性を持ち、まるで何かに急き立てられるように移動していた。
宇宙人でも隕石でもいいから、何かが起きてほしかった。その、ずっと腹の底でくすぶっていた衝動が、俺の足を突き動かす。あの無害な白いモヤとは違う、本能が危険だと告げる黒を、俺は錆びかけた自転車を押しながら追いかけた。
細い入り組んだ路地を抜け、傾いたフェンスの隙間をくぐり、普段なら絶対に足を踏み入れないような、鬱蒼とした木々が五月の夕日を遮る薄暗い坂道へと進んでいく。
気づけば、俺は古びた神社の境内に迷い込んでいた。
西日に照らされた社殿は腐食して朽ち果てかけ、不気味な静寂が辺りを支配している。肌を刺すような、どこか生臭い冷気に身震いしたその時、俺の目は、境内の開けた空間に釘付けになった。
「なんだ、これ……」
言葉を失った。
そこには、部屋で見るのとは比較にならないほど巨大で、数え切れないほどの「黒いモヤ」が集まっていた。
モヤたちは互いに引き寄せ合うように不気味に蠢き、磁石に吸い寄せられる鉄粉のように、一つの巨大な塊へと凝縮されていく。
本能が、全身の毛穴を開かせて全力で警鐘を鳴らしていた。
――なんかやばい。ここにいちゃ駄目だ。早く逃げろ。
そう思った矢先、蠢く黒い塊が急速に、明確な『形』を構築し始めた。
それは物理的な肉体を持つかのように、おぞましい密度を増し、見る間に禍々しい姿へと変貌していく。
頭部に生えた二本の醜悪な角。大人二人分はあろうかという筋骨隆々の巨躯。人間の悪意や怨嗟をそのまま煮詰めたような、赤黒い肌。
それは、おとぎ話に登場する「鬼」そのものの姿だった。
いや、違う。これはそんな生易しいファンタジーじゃない。目の前にいるのは、圧倒的な質量と殺意を持った『脅威』そのものだ。
恐怖で足がすくみ、呼吸の仕方を忘れた俺の耳に、地鳴りのような低い地声が届いた。
「人間……」
鬼が、喋った。
濁った、どこか飢えたような眼球が、まっすぐに俺を捉える。
次の瞬間、爆発的な踏み込みとともに、その巨体が俺に向かって突進してきた。
「うぅわァァァァッ!?」
頭が理解するより早く、身体が動いた。反射的に地面を転がるようにして、がむしゃらに身をかわす。
間一髪、鬼の太い腕が空を切った。
触れてもいないはずなのに、鬼の腕が通り過ぎた瞬間、凍りつくような冷気と圧倒的な『死の気配』が津波のように虎狛の全身を叩いた。すぐ横に乗り捨てていた自転車の金属フレームが、凍結したかのような不気味な軋み声をあげる。
物理的な衝撃は一切なかった。それなのに、あまりのプレッシャーに脳が「今、殺された」と錯覚し、全身の血の気が一気に引き、完全に腰が抜けてしまった。立ち上がろうにも、膝がガクガクと震えて全く力が入らない。地面を這うように後ずさるのが精一杯だった。
鬼はすぐに体勢を立て直し、逃げ場のない俺を見下ろしながら、再び一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
(やべぇ、死ぬ。本当に死ぬ……!)
心臓が破裂しそうなほど脈打つ。喉の奥がカラカラに乾き、冷たい汗が全身から噴き出す。
世界の終わりを、隕石を、都合よく妄想していた自分がどれだけおめでたかったかを思い知らされる。
本物の死という暴力が、すぐ目の前に迫っていた。
「く、来るな……ッ!」
必死の抵抗として、手元にあった石を掴み、狂乱のままに鬼の顔面へと投げつけた。
必死の抵抗も虚しく目の前の怪物は、ついに俺の鼻先まで迫る。振り上げられる、丸太のような腕。その巨大な影が、虎狛の視界を真っ暗に覆い尽くしていく。
逃げられない。抗えない。
俺は強烈な絶望に支配され、ただ訪れるであろう破壊と痛みを拒むように、ぎゅっと目を閉じた。
終わった。そう確信した、次の瞬間だった。
「――ワオォォーーン!!」
境内の静寂と鬼の殺気の一瞬で切り裂くように、高らかで、どこまでも凛とした咆哮が響き渡った。
刹那、世界を包み込んでいた邪悪な気配が、まるで嘘のように霧散するのが肌で分かった。
恐る恐る、きつく閉じていた目をあける。
視界に飛び込んできたのは、振り下ろされる鬼の剛腕ではなく――白銀の毛並みを夕日に輝かせた、あの朝の「白い犬」だった。
犬は俺を背に庇うように毅然と立ちはだかり、その全身から、周囲の黒いモヤを文字通り打ち消すほどの、清烈な光を放っている。
そして、その顔がわずかに後ろへと向けられた。
突き刺さるような、あの鮮烈な琥珀色の瞳。
一瞬だけ、その犬が「待たせたな」と不敵に笑ったような気がした。




