第28話 GVMC日本支部
――そして、土曜日がやってきた。
警察署の重い空気に入るのを渋り、まさに意を決して一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
「――心の準備はできたか?」
背後から、低く、鼓膜を心地よく震わせる硬質な声が降ってきた。
実体化現象対策組織『GVMC』日本支部第3部隊隊長――神代。
仕立ての良さが一目でわかる、深いチャコールグレーの洗練されたスリーピーススーツを纏っている。ネクタイの結び目には寸分の緩みもなく、衣服の乱れを厳格に嫌う彼らしく、非の打ち所がないほど完璧に着こなされていた。
一見すれば、警視庁のキャリア官僚か、あるいは敏腕の若手捜査官。
だが、その隙のない佇まいと、周囲の空気を一瞬で支配する冷徹な威圧感は、スーツの布地一枚では到底隠しきれるものではなかった。
「……神代、さん」
神代は琥狛の動揺など意に介さず、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「その様子では、この数日間、そこの相棒と相当な葛藤を繰り返してきたようだな」
見透かしたような言葉に、琥狛は思わず息を呑む。
神代は警察署の堂々たる佇まいを見上げ、スーツの内ポケットから、スマートな動作で自身のIDカードを取り出し、躊躇うことなく警察署のガラスの自動ドアへと歩き出した。
その背中を見つめ、琥狛はごくりと唾を飲み込んだ。もう迷う余地などない。神代の後に続くように、ガラスの向こうの冷徹な静寂へと足を踏み入れた。
一行は次第に、人気のない署内の最奥へと足を進めていった。
やがて辿り着いたのは、廊下の突き当たりにある、何の変哲もない灰色のコンクリート壁の前だった。
行き止まりだ。周囲には人影もなく、古びた蛍光灯がジジジと微かな音を立てて白い光を落としている。
「神代さん、行き止まりですよ……」
琥狛が困惑の声を漏らした、その時だった。
目の前で、空間がぐにゃりと歪んだ。
そこから姿を現したのは、鈍い金属光沢を放つ、見たこともないほど重厚で巨大なエレベーターの扉だった。
仕掛けとしての隠し扉ではない。人間の脳の認識そのものを狂わせ、そこに厳然と存在する巨体を完全に消し去っていたのだ。あまりにも常識を逸脱した光景に、琥狛の喉が引きつる。
「『のっぺらぼう』などと伝わる、周囲の認識を奪う妖怪の伝承がある。――これは、実体化されたのっぺらぼうの能力だ」
淡々と説明する神代に促され、現れたエレベーターの内部へと進む。
そこは警察署の内装とは一線を画す、近未来的な空間だった。壁面を走る淡いブルーのLEDラインが、呼吸を刻むように明滅している。
全員が乗り込むと、重厚な扉は音もなく閉まり、完全に外界と遮断された。
「下へ参ります」
その声が、琥狛の足元から聞こえた。
機械の電子音ではない、妙にクリアで滑らかなその響きに、琥狛は思わず視線を落とす。
驚きに目を見開いた先には、小学1年生ほどの背丈の子供が佇んでいた。
だが――その頭部を目にした瞬間、背筋に冷たい戦慄が走る。あるはずの目も、鼻も、口もない。滑らかな皮膚だけが顔一面に広がる、文字通りの『のっぺらぼう』だった。
「怯える必要はない。彼は『白い因子』から生まれた存在だ。人間に害はない」
怪異という超常の脅威を、ただのシステムの一部として完全に手懐け、使役している組織の異常性。
その圧倒的な事実に琥狛が息を呑んだ、次の瞬間だった。
のっぺらぼうの子供が、すっと小さな手をコントロールパネルにかざす。
直後、エレベーターは光の届かない地下へと一気に降下を始める。




